
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
★ (№6お礼欄) ~~~~~~~~
煩悩がそのまま薬になるのでしょうか?
煩悩を薬に変えるその「過程」を無視していませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲ (ヰキぺ:煩悩即菩提) ~~~~
§ 2 日蓮の解釈
「就註法華経口伝(御義口伝)」上に
「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは生死の闇を晴らして涅槃の智火明了なり。
生死即涅槃と開覚するを『照は則ち闇生ぜず』と云ふなり。
煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり。
煩悩即菩提と開覚するを『焼は則ち物生ぜす』とは云ふなり。
爰を以て之を案ずるに、陳如は我等法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕はしたり云云。」
と示される。これは、煩悩を消し去るのではなくて、題目を唱えて逆にそれを燃料として燃やすことで菩提の智慧の炎が現れるということである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《涅槃の智火》《菩提の慧火》と言っています。すなわち 《智慧の炎が現われる》ということらしい。
それは 《南無妙法蓮華経と唱える》ことによって煩悩が――毒であるにしろ何であるにしろ――燃やされる結果であるという。
煩悩とは 簡単に分かりやすく言ってここでは 《根本的な生存欲》(宮元啓一)だと解されます。
思うようにならないことである四苦の一つ目の《生苦》のことだと思います。
(ちなみに 生死即涅槃の生死も 同じことだと見られます)。
さとること――それが何であるかが重要ですが――を妨げる無明(無知あるいはもろもろの欲望)のことであり また さとりたいという欲望ないし 無明のままにさとりを得ようとする根本的な欲望だと考えられます。
唱題することによって この煩悩があたかも燃やされる。そのあたかも熱あるいは火から 智慧が発現するのだと。
この智慧は すでに煩悩を――じっさいいろんな毒を適度な分量にして薬として用いるごとく――制御し得る欲のハタラキに変化させて善用するという境地に到るチカラであると。
煩悩の浄化再生のような――あたかもアース役の実践であるかのような――マジックですかね。
☆ 日蓮に疑問符がつくのは さしづめ二点です。
唱題は 相手がいない独りだけの行為ですから 相手のいるアース役の問題とは別だと思われること。
この南無妙法蓮華経が さとりに到る唯一絶対の道だと言い張ること。その独り善がりかつ排他性。
あとは 体験の――あたかも人間実験のような――問題になるのではないでしょうか。
題目を唱えて煩悩を燃やす、と云うのは“消し去る”という事でしょう。
でも、燃料として燃やすと云うのだから、消し去るのではなく煩悩を“活動”させると云う事なので、それは煩悩の炎と云う事になりますね。
日蓮は、煩悩の炎を燃やしたのだと思います。
そうすることで“政治”に、仏教の精神を生かしたかった、のではないでしょうか。
No.27
- 回答日時:
★ (№25お礼欄)
何やら日蓮は“自力本願”であるように思えてきました。
☆ そのからくりとして 次のように捉えます。
南無妙法蓮華経〔と名づけたけっきょくは神〕は 世界の根源である生命だと言います。
〔大心霊体をも包み込むと言うはずです〕
その限りで――神という絶対性に関する限り―― その絶対他力を立てています。
しかも――わたしの誤解や曲解でなければ―― 日蓮その人が 神である生命体だというのだと思います。
日蓮以外の凡人は 日蓮にならって――ここがミソですね――唱題や折伏なる修行をとおして《自力救済》の道をゆく。となるのだと思います。
折伏も 必須の修行です。きみよ 日蓮にならうわれと同じようにしたまえ〔そして このみちびきを拒むなら きみは地獄行きだよと付け加える〕という社会的行為をふくむ自力本願なのでしょう。
すなわちその自力とは 生命体ないし日蓮ないし南無妙法蓮華経〔なる絶対他力〕と――唱題によって――境地冥合するチカラだと説くはずです。
No.26
- 回答日時:
「断つ」というと悪いものをカットする、というイメージを大抵持つでしょう。
で、それが、苦行や瞑想などの修行によって可能になる、と思う人がほとんどであると思いますが、そうではないのです。
人間年季を重ねてゆけば、欲望をコントロールできてくるものです。その域に達すれば悟りと言えるのか、仏教なんてそんなところだろう、というのが一般的だと思いますが、そうではないのです。
「即」とは仏教用語で「一体不二」という意味です。つまり、「煩悩」と「菩提」は同じものだということです。
「九界即仏界」「無明即法性」「生死即涅槃」等と同様の意味です。
十界論が分かり易いと思いますが、一念(瞬間の生命)には十の生命状態がすべて備わっている。煩悩=六道でいいと思います。二乗も悟りですが仏が最高の悟りです。
ですから、六道の煩悩も仏も同じその人の生命の上に展開されるものなのです。同じものというのはそういうことです。
そして、仏の悟りを得るためには修行が必要であり、釈迦仏教では「歴劫修行」、日蓮仏教では唱題を含めた「行学の二道」ということになります。
このように理解しておりますが、言わんとするところ理解いただけましたでしょうか?
No.25
- 回答日時:
★ (補足コメント#5) ~~~~~~~~
この回答(=№6)から思った事。
煩悩から菩提への過程に於ける手段を、親鸞は念仏を、そして日蓮は題目とした。
この解釈でいいですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 称名念仏を〔さとりないし往生の唯一の〕手段としたのは 法然です。
親鸞は――時代が時代ですから 師匠に弓を引くようなことは言わなかったかも分かりませんが それでも―― はっきりと違う説を立てました。
○ 念仏は 非行非善なり
☆ つまり さとりに到る修行にあらず。また 何かそれによって地獄の閻魔様のご機嫌をよろしくうかがうための善行にもあらずと。
では 何か。すくわれたとさとったとき 思わず感謝の気持ちから出てくるのが 弥陀の称号への帰依をあらわす念仏であると。
親鸞は 空海の即身成仏と同じく 即得往生と言っています。
或る日或る時 アミタ―バ・ブッダの慈悲――それは 霊性――の網に掬われたと感じ取った。――というのが 即得往生です。
信仰――非思考の庭――があたえられることであり その信仰にあって身も心も大きな網によって掬われるということだと思います。
往生――成仏――するのに 善行も修行も要らない。(したければしてもよい)。煩悩がどうのこうの 前世の業がいまに及んでいるとか何たらかんたらも 無関係にです。
○ 義無きを以て義とす。
です。
*
日蓮は 知りません。《知らない》というのは 嫌うという意味です。
南無妙法蓮華経という或る種の記号が 生命だというのでしょうか それとの境地冥合(他と自との一体化)によって その生命力があふれ出て来るというのですかね。
ま それは自由ですから おやりになればよいのかも。
独り善がりの排他性は いただけません。
親鸞の思いをチョッピリ感じました。
非行非善と云う境地を得たからと云っても、念仏を止めたわけではないでしょう。
救われたいと思う人間がいるから、救いたいという神・仏がいる。
これも而二不二(これで合ってますか?)でしょうか。
何やら日蓮は“自力本願”であるように思えてきました。
有り難うございました。
No.24
- 回答日時:
ですから、煩悩を断つ、ということが「どういうことなのか?」「どうすればできるのか?」を聞きたいのです。
私は煩悩というものは、欲望から生じる心の状態であると考えているので、なくすことはできないと思うのです。
悟りの境地に達したと思われる釈尊でも、死ぬ間際までの食欲は有ったでしょう。
でも、釈尊に有ってのこの生理的欲求は、煩悩にまではなっていないはずです。
これじゃあ足りないよ、もっと食べたい!と云う思いが“煩悩”ですから。
もっと食べたい、と思うけれど腹八分と云うから、これでやめておこう、と云う自制心は誰でも持っています。
あとは、実行できるかどうか、でしょう。
実行できれば其れは「断」ですね。
No.22
- 回答日時:
もう一つの質問であれこれ書きましたが…
「煩悩」とは何か?
貪瞋癡慢疑の五鈍使と五利使の根本煩悩、そして、それに付随する20種の随煩悩のことであると、成唯識論巻六という経文に説かれています。
つまり、むさぼる、いかる、おろか、慢心、うたがい、等の人間の心身を煩わせ悩ませる種々の精神作用の総称、ということになるでしょう。
これについては異論はないと思います。
そして、この煩悩が菩提(ザクッと悟り)の邪魔になる、だからこれを断ずることが菩提への道である、と釈尊は阿含部などで説いていることは経文上明らかであります。
これが、釈尊の真実の教えであると認識している人はとても多いと思います。
しかし、天台の釈迦仏教に対する解釈の内「五時八教」によれば(詳しくは端折りますが)法華経が釈尊の真意を説いた経文であるということになり、日蓮はこれを「理」として支持しています。
「正直捨方便」「四十余年未顕真実」などが不動の「文証」になっています。
ですから、阿含部等に説かれた「煩悩を断つことが菩提に繋がる」という教え自体が「方便」であるということになります。
小学生には算数を教えます。算数と言うのは真実ではないことがあります。しかし、それを「騙し」とは言わないのと同様に、この釈迦の教えも「方便」であって、騙しではありません。
日蓮に至らずとも、法華経ですでに「煩悩即菩提」を明かされています。(もう一つの質問の投稿を参照して下さい)
次に「理証」の面から考えてみると…
「煩悩」というものは欲望から生まれてくるものですね?
煩悩を断つとはどういうことかと尋ねたのはそこなのです。
欲望を断つことができるでしょうか?枯れてしまう、なんてことはあるのでしょうが、それでは幸せもつかめないでしょう。
悩みがなくなるなんてことがあるでしょうか?
俗世間を離れて、山にこもり非文明的な暮らしをしていれば、あるいはそういう心境になることもあるでしょうが、全員が山にこもって一人暮らしをしたならば、社会が成り立ちません。
ですから、煩悩を断つということは「理」としては一応は成り立つと思いますが、現実を無視した理であると言えます。現実にそぐわない理論は「空論」です。だから方便と言えるのです。
長くなりましたので、今回はここらで。
No.21
- 回答日時:
ちょっとした別の角度から 煩悩即菩提を捉えてみます。
▲ (ヰキぺ:十二因縁) ~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C …
§ 1 概要
十二因縁の支分は、
無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
の12個であり、この12個の支分において、
無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを《順観》という。
☆ 要するにその順序で因果関係が生じるということ。
また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を《逆観》という。
☆ 無明の消滅(妙智)⇒行の消滅⇒識の消滅⇒名色の
消滅⇒・・・⇒生の消滅⇒老死の消滅(解脱):逆観
順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この順観と逆観とは 或る意味で毒と薬との関係のごとくである。
では 汽笛さん この順観から逆観へのどんでん返しは どのように起きるか?
どうなんでしょう。
なお八つ目の《愛》は 渇愛や妄執のことだそうです。
No.20
- 回答日時:
お礼について<もう一声、ご意見を。
>「方便」とは、例え話であり、身近な分かりやすい例に置き換えて説明するものだ。
そのものズバリではないのだから「騙し」には違いない。しかし、高僧同士、学者同士ではないのだから、一般人向けには「正しい方向に導く」には手っ取り早い。
ところで「煩悩即菩提」だが、これは「煩悩=菩提」ではなく、「煩悩(欲)→菩提(悟り)」という図式だと思う。
釈迦牟尼にしても、煩悩があったからこそ悟りの境地に到達できた。そもそも煩悩(欲)を「苦」と感じなければ、修行も必要なく、題目を唱える必要もない。
ゆえに、「毒を以て毒を制す」という言葉もあるように、煩悩による苦しみを「毒」と例え、「毒」も使い方によっては「薬」になることから、その煩悩に苦しむ負のエネルギーを、題目を唱える正のエネルギーに転換することで一生懸命題目を唱え続けましょう。という方便で説明したのでしょう。
それと、日蓮の「燃やす」という表現は、正と負のエネルギーのことを方便の一環として用いたのかと思います。
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お題目を唱えた後の心持ちはどうなんでしょう。
煩悩はそのままで、いい気分!
こんな感じでしょうか?
別に驚異的だとは思いません。
「離れる」と云う表現が、誤解の元ではないでしょうか?
自分から離れる事なんて、出来ないのだから。
煩悩を滅する、と云う事を「我欲から離れる」と云ったのでしょうね。
煩悩と菩提は即と云うけれど、相当な距離・隔たりがある、と云う事ですね。
日蓮はその距離を、お題目で縮められると悟ったのでしょう。
欲望は絶たなくても、煩悩を断つ事が出来れば、好ましい生き方が出来るように思います。
この回答から思った事。
煩悩から菩提への過程に於ける手段を、親鸞は念仏を、そして日蓮は題目とした。
この解釈でいいですか?
ただ、親鸞は、煩悩はそのままでいいんだ、という思いについての積極性は、日蓮ほどでは無かったように思います。
毒を薬に変えるとか、煩悩を燃やすとか云われると、なんか分かったような気になるものです。
でも実際は、どう云う事なのか語られていないから、皆んな答えられませんでしたね。
ただ、勉強にはなりました。
特にブラジュロンヌさん、有り難うございました。