
No.7
- 回答日時:
毒物の認定や!薬の認定って!
結局は人が行う行為であって
例えば、解熱作用のある草花にしたら
勝手に薬だの毒だのと認定されてるから
( ̄~ ̄;)変な話ですね
煩悩の認定にしても、菩薩の認定にしても
植物と一緒で、目に見えない煩悩や菩薩が怒ってたり!笑ってたりしないかな?
騙しなのかと聞かれたら、何事も考え方や捉え方しだいだとしか
言えないですね
日蓮が、明確に人を騙す意識の元に説法を説いてたら騙しだけど
人を騙すような人が、現代でも有り難がられてるとはとは思えないと
思いますよ!(  ̄▽ ̄)にっこり
質問の意図からは、ちょっとずれている表現を意識して、使ってしまいました。
煩悩を無くさなくても仏になれる、ということを説明する為のたとえ話が、毒を薬に変える、と云うたとえで良いのだろうか?と云う疑問だったのです。
煩悩と仏を結ぶ“道”をどう捉えているのでしょうね。
No.6
- 回答日時:
▲ (ヰキぺ:煩悩即菩提) ~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9 …
§ 2 親鸞による解釈
「正信念仏偈」上に「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」と示される。
「よく教えを信じて、一念(非常に短い時間)で喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地に至ることができる」という意味である。
この考えを説く親鸞の思想は「煩悩即菩提」の1つの典型例を示したものといえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《教えを信じて》という規定は わたしは間違いだと思いますが(――なぜなら 信じるのは アミタ―バ・ブッダであり 人間の考えたオシへではあり得ない と思いますが――) 《煩悩をなくさないままに》という捉え方は それがよいと考えます。
▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~
§3 日蓮による解釈
「四条金吾殿御返事」上に
「欲をもはなれずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。
☆ ここですね。
普賢経に法華経の肝心を説きて候『煩悩を断ぜず五欲を離れず』等云云。
天台大師の摩訶止観に云はく『煩悩即菩提、生死即涅槃』等云云。
竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれていみじきやうを釈して云はく
『譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し』等云云。
『小薬師は薬を以て病を治す、大医は大毒をもって大重病を治す』等云云。」
と示される。
これは、煩悩を捨てずして仏になる道があるということである。我々の中にある様々な欲望や煩悩を毒に例えて、そういうものは捨てる必要はなく、むしろそれを使って薬にするのだと説かれている。
☆ 後半の引用は やめますが 確か《〈南無妙法蓮華経〉
と唱えることによって 煩悩なる毒を燃やして そこか
ら薬としての知恵の火を得る》といったことらしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 両方とも 体験の結果いかんに鍵があるようです。どちらもその理屈をいぢくってもあまりよい成果は出て来ないかも知れません。
★ この例えって「騙し」でしょ?
☆ 汽笛さんのコメントに応じて考えることとします。
No.5
- 回答日時:
菩薩とは、すなわち仏ではない。
菩薩とは、そのような在り方のことです。そのような在り方とは、煩悩をあるものとする、ということです。それはあるものなのだから、煩悩を捨てたいと思えば、それは欲です。在るものは在るという認知が仏です。
発生した瞬間に消滅に向かうように、それは同調します。消滅した瞬間に発生することも然り。そのプロセスの中に、菩薩がいます。
金が欲しいならば、金を稼げばいい。金を稼げたならば、金が欲しいという欲は消える。女が欲しいならば、女を抱けばいい、女を抱いたならば、その欲は消える。食べたいならば、食べればいいし、眠たいならば、眠ればいい。即救いですよ。煩悩即菩薩です。
あれが欲しい、これが欲しいも、買えば?或いは盗めば?そしたらば、欲しいという欲は消えます。また、別のものが欲しいならば、さっさとやる。そうして、やり尽くすのです。とっととやれ、それが行です。それが救いです。
煩悩を捨て去りたいと願うならば、とっととやれ。どうしたらいいかなんて、迷うな。
そういうことです。
No.4
- 回答日時:
日蓮上人の仏教観だから、一概に、だましとも言えないのかもしれません。
人は生きている限り、煩悩はつきものだということだけは、修行が足らない凡人でも、無反省にわかることかと思っています。
但し、それを否定しないどころか、煩悩と菩提という悟りという一見真逆な相容れないものを、語るのは、それなりの修行をした結果でないと、得られない境地なのかもしれないと思いました。
ですから、汽笛様のように、ご精進されておられる方であっても、人それぞれの仏に至る道の途上の違いに、心惑わされるくらいですから、修行というものは、優しいようで難しいものなのかもしれませんね。
但し、仏道に仕える者はこうあるべきと確信的に妄想したり、あるいは、心ひそかにでも、他に実在する または実在した僧侶の姿を期待して、そこから顕現化された姿や言葉に、特別な期待を寄せたり、或いは、勝手に修正したり、時には、作り上げる方が、実存という真実からは、気を付けなければならないような騙しなのかもしれませんよ。
人間として生き、その中で、煩悩と闘いながら、それでも精進したり、修行をするのって、もしかしたら、大変なことなのかもしれないことを、ごく日常のこととして行っているのですね。この高僧の方々は。
けれども、どんな高僧であっても、彼は彼。
それと異なるこころを汽笛様がお持ちになられておられることは、時代も生きる背景も歴史も異なること等から、当然なのかもしれないなと思いました。大事なのは、そうした異なる考えに触れた時にですら、汽笛様の大事な生き方の糧になるような感じ方ができることは共感し、そうでないものは、それとしてそっと置いておくくらいの度量が養われることなのかな?と生意気ながら思っております。
因みに私の修行の道は、日蓮様ではなく、臨済宗であり、かつ、キリスト教の神の道です。とんでもないと思っても、これが私の生きる道なのです。
しかも、日蓮宗は、「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えることを最も重要な修行・信仰と考えているそうですが、般若心経は共通ですね。
但し、修行不足で、未だ、煩悩すらわからない愚か者です。<(_ _)>
まっ、いろいろな悟りもあるのでしょうから、それはそれで汽笛様の御教えとなさればよいと思いますので、まずは、生きることにお励みなされ、同時に、生かされることの良さを、少しでも多く味わうことができれば、その内また、仏典からのお教えも、変わってくるのかもしれません。
騙しだ! 嘘だ! というのは、生きている証。
生きている慟哭なのかなと、不謹慎にも、ちょっと微笑ましく思いました。 どうも、厚かましくて、申し訳ありませんでした。<(_ _)>
正しく生きるために、煩悩を燃やしてエネルギーに変える、と云う行為の正しさの説明に、使った例え「毒を薬に変える」が、不適当ではないかと思ったのです。
もう少し考えてみます。
有り難うございました。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
宗教とは理屈をこね、反論できない存在で補強し、
共同体をコントロールするためのものです。
個を救うのではなく集団を安定させるためにあります。
※~協会、~財団と同様です。
仏陀は哲学者であり、教祖でも、ましてや神でもありません。
あくまで目指す存在であり、すがるために近づいてはいけないのです。
ご参考までに。
「教団」と云うものへの意見ですね?
仏陀(釈迦)は悟りの体現者ですね。
よこしまな思いを正そうと思うような時は、四諦八正道に“すがって”みたくなります。
有り難うございました。
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お題目を唱えた後の心持ちはどうなんでしょう。
煩悩はそのままで、いい気分!
こんな感じでしょうか?
別に驚異的だとは思いません。
「離れる」と云う表現が、誤解の元ではないでしょうか?
自分から離れる事なんて、出来ないのだから。
煩悩を滅する、と云う事を「我欲から離れる」と云ったのでしょうね。
煩悩と菩提は即と云うけれど、相当な距離・隔たりがある、と云う事ですね。
日蓮はその距離を、お題目で縮められると悟ったのでしょう。
欲望は絶たなくても、煩悩を断つ事が出来れば、好ましい生き方が出来るように思います。
この回答から思った事。
煩悩から菩提への過程に於ける手段を、親鸞は念仏を、そして日蓮は題目とした。
この解釈でいいですか?
ただ、親鸞は、煩悩はそのままでいいんだ、という思いについての積極性は、日蓮ほどでは無かったように思います。
毒を薬に変えるとか、煩悩を燃やすとか云われると、なんか分かったような気になるものです。
でも実際は、どう云う事なのか語られていないから、皆んな答えられませんでしたね。
ただ、勉強にはなりました。
特にブラジュロンヌさん、有り難うございました。