

No.19
- 回答日時:
このような、目的が決まっていると思われる質問には回答しないことが多いのですが、今回は少し投稿することにしました。
回答としては騙しではないです。
この質問の前提は釈尊が阿含部等で説いた、煩悩を滅することによって菩提に至る、ということが正当であるということですね?
だから、おかしいということですね?
その前提がおかしい、というのが私の意見なのです。
そして、その前提を汽笛さんがどう認識しているのかを確認したくて趣旨説明を求めたのです。
こういう話をキチンと出来たためしがないですからね。
キチンとするつもりがなく、このまま締めたいとお考えなら仕方がないですが。
煩悩を滅することによって菩提に至る、ということが正当であると思います。
煩悩はそのままで、かえってそれを“利用”して、というところに疑問を思うのです。
煩悩から涅槃に至るその過程を、毒を薬にするようなもの、と云うたとえで説明しようとしていますが、これってブラジュロンヌさんが云う「マジック」ではないでしょうか?
みんな騙されていませんか?
No.18
- 回答日時:
そもそも 《煩悩を離れる》というのは うわべの理論だと思いますよ。
――という一点について 蛇の足のごとく。
▲ (中村元:我欲を離れた境地?)~~~~~~~
《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
なるものは存在しない。
《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
なるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
(龍樹『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)
という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。
ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
(中村元『龍樹』2002 pp.225-226 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.17
- 回答日時:
★ (№13お礼欄) ~~~~~~~~~~~
○ 「燃やす」って、どういう事なんでしょう。
煩悩は有るがままに、そのままにして、と云うけれど、燃やさなければならないのだから、そのままではないわけで、結局、煩悩は邪魔くさいと云うことですよね。
○ 燃やす、て云うけど、一体何が云いたいの?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづむろん タトへですよね。
次の回答でだいたい触れていたとは思います。
☆☆ (№10) ~~~~~~~~~~~
▲ (ヰキぺ:煩悩即菩提) ~~~~~~~
§ 2 日蓮の解釈
「就註法華経口伝(御義口伝)」上に
「今日蓮等の類 《南無妙法蓮華経と唱へ奉る》は生死の闇を晴らして涅槃(さとり)の智火 明了なり。
・・・
煩悩の薪を焼いて菩提(さとり)の慧火 現前するなり。
・・・」
と示される。これは、煩悩を消し去るのではなくて、《題目を唱えて》逆にそれを燃料として燃やすことで菩提の智慧の炎が現れるということである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《涅槃の智火》《菩提の慧火》と言っています。すなわち 《智慧の炎が現われる》ということらしい。
それは 《南無妙法蓮華経と唱える》ことによって煩悩が――毒であるにしろ何であるにしろ――燃やされる結果であるという。
煩悩とは 簡単に分かりやすく言ってここでは 《根本的な生存欲》(宮元啓一)だと解されます。
思うようにならないことである四苦の一つ目の《生苦》のことだと思います。
(ちなみに 生死即涅槃の生死も 同じことだと見られます)。
さとること――それが何であるかが重要ですが――を妨げる無明(無知あるいはもろもろの欲望)のことであり また さとりたいという欲望ないし 無明のままにさとりを得ようとする根本的な欲望だと考えられます。
唱題することによって この煩悩が《あたかも》燃やされる。そのあたかも熱あるいは火から 智慧が発現するのだと。
この智慧は すでに煩悩を――じっさいいろんな毒を適度な分量にして薬として用いるごとく――制御し得る欲のハタラキに変化させて善用するという境地に到るチカラであると。
煩悩の浄化再生のような――あたかもアース役の実践であるかのような――マジックですかね。
☆ 日蓮に疑問符がつくのは さしづめ二点です。
唱題は 相手がいない独りだけの行為ですから 相手のいるアース役の問題とは別だと思われること。
この南無妙法蓮華経が さとりに到る唯一絶対の道だと言い張ること。その独り善がりかつ排他性。
あとは 体験の――あたかも人間実験のような――問題になるのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《煩悩を燃やす》と譬えた命題。これの具体的・実質的な内容は じっさいに自分が日蓮の指示にしたがって題目を唱えてみなければ分からない――ということになっているようです。
No.13
- 回答日時:
★ (№10お礼欄) でも、燃料として燃やすと云うのだから、消し去るのではなく煩悩を“活動”させると云う事なので、それは煩悩の炎と云う事になりますね。
☆ 二点 申し上げます。
まづ 薬と毒について 確認します。
▲ (毒と薬は表裏一体。身近に存在する自然界の毒) ~~~
https://www.athome-academy.jp/archive/engineerin …
そもそも「毒」というのは、人間の都合で命名したに過ぎません。
生体に何らかの作用を及ぼす化合物の中で、私達に芳しくない影響を与えるものを「毒」、都合の良い働きをする場合を「薬」と呼んでいるだけです。
つまり、毒と薬は表裏一体で、これを私は「薬毒同源」と唱えています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 自然界でも 分量や使い方によって 毒であるものが薬に成る。
次に けっきょく実体験の成果いかんに帰着するという問題です。
○ 煩悩を燃やした煩悩の火でも さとりの智慧を生じさせる。
☆ と主張しているわけです。題目を唱えるのだと。
したがって 独り善がりの問題で批判してほうっておくか あるいは 実験してみて結果を判定するかだと思われます。
*
おまけです。
☆☆ (№10 編集しています) ~~~~
日蓮に対する疑問符
唱題は 相手がいない独りだけの行為ですから 相手のいる〔煩悩の浄化再生を目指す〕アース役の問題とは別だと思われること。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これに対して おそらくそのアース役の実践は 他ならぬ《折伏》だという反論が出されることでしょう。
けれども問題の鍵は 《題目を唱えることによって 煩悩なる毒の薬への善用が成る》と言っていることです。折伏うんぬんとは 基本として無関係だと見られます。
これまでの私の“お礼文”はご破算にして、、、
☆「燃やす」って、どういう事なんでしょう。
煩悩は有るがままに、そのままにして、と云うけれど、燃やさなければならないのだから、そのままではないわけで、結局、煩悩は邪魔くさいと云うことですよね。
☆燃やす、て云うけど、一体何が云いたいの?
No.9
- 回答日時:
煩悩と仏
( ̄~ ̄;)
無関係ではないから繋がってるはずなんだけど
煩悩は捨てろなんて言われる事が多いですもんね
捨てたところで捨てきれないのが煩悩であって
捨てたいなんて思わなくなった頃には
捨てきれてた
なんてな解釈を個人的にはしてて
拘りを拘らなくなる姿こそ、菩薩なのかな( ̄~ ̄;)
専門家じゃないから個人的な捉え方になりますけどね
成りたくてなれる菩薩でなくて
捨てたくて捨てれる煩悩でもない
だとしたら、似たようなものなのかも?
個々の事柄に於いては、万人は、その個々の煩悩からその都度“解放”されたりする生き方をしている、のでしょうね。
回答、有り難うございました。
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お題目を唱えた後の心持ちはどうなんでしょう。
煩悩はそのままで、いい気分!
こんな感じでしょうか?
別に驚異的だとは思いません。
「離れる」と云う表現が、誤解の元ではないでしょうか?
自分から離れる事なんて、出来ないのだから。
煩悩を滅する、と云う事を「我欲から離れる」と云ったのでしょうね。
煩悩と菩提は即と云うけれど、相当な距離・隔たりがある、と云う事ですね。
日蓮はその距離を、お題目で縮められると悟ったのでしょう。
欲望は絶たなくても、煩悩を断つ事が出来れば、好ましい生き方が出来るように思います。
この回答から思った事。
煩悩から菩提への過程に於ける手段を、親鸞は念仏を、そして日蓮は題目とした。
この解釈でいいですか?
ただ、親鸞は、煩悩はそのままでいいんだ、という思いについての積極性は、日蓮ほどでは無かったように思います。
毒を薬に変えるとか、煩悩を燃やすとか云われると、なんか分かったような気になるものです。
でも実際は、どう云う事なのか語られていないから、皆んな答えられませんでしたね。
ただ、勉強にはなりました。
特にブラジュロンヌさん、有り難うございました。