dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

法華経文底独一本門(日蓮仏法)を正しく信仰したいです。

創価学会は、本来、「創価教育学会」という「法華経文底独一本門」を正しく広めるために、牧口先生が立ち上げた会なのに、次第に本部幹部によって「○田先生崇拝教」になっているように思います。

本来の「創価教育学会」のように、正しく信仰している団体を探しています。

どこにも存在しないのなら、同志の人と結成したいです。
同じ志の方、ご回答よろしくお願い致します。

私は、「法華経文底独一本門(日蓮仏法)」を真剣に信仰をしています。
これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した間違いない結論だと信じています。
現証も何度か体験し、1%の疑いもないです。

     『21世紀の日蓮大聖人』を、待ちに待っています。

A 回答 (6件)

正しく信仰している団体を探していますとのことですが、それは一人で行じている可能性もありますが、それは考慮しないのでしょうか。

何故なら三障四魔の風厳しく退転してしまったとも考えられるでしょう。

日蓮正宗が正しいとしてますが、今の正宗は貫首一人成仏で一切皆成仏から離れているのです。

また、三師といって連興目御三尊と歴代貫首との決定的な違いが本尊に含まれるかどうかと、観心本尊抄を理解すれば三大秘法抄と矛盾するのが明白になりますが、それらも理解したというのが文低と独一の違いを理解したといえるのです。
    • good
    • 0

1992年11月4日付、11月18日付の「創価新報」にて掲載された写真は、あたかも日顕上人が芸者遊びしているかのような報道でしたが、これは創価学会が故意に写真を偽造し、あらん限りの言葉で誹謗、中傷した虚偽捏造報道です。



実際は日蓮正宗の2人僧侶の古希の祝いで、日顕上人は夫人同伴で招かれた宴席での写真です。

1993年5月提訴、1999年12月6日 東京地裁は宗門側の訴えを認め、創価学会および池田大作の両名に対して賠償金の支払を命じております。

これにより、「ウソも百遍繰り返せば真実になる」(『池田大作の素顔』四二頁・藤原行正著)という池田創価学会の謀略が東京地裁の判決で白日の下に晒されたものと言えます。

ところが、2000年12月5日、学会側による控訴で東京高裁は
(1) 「正当な言論や評論の域を越え、単に阿部日顕を揶揄し、誹謗、中傷するものとして、違法性を有するものというべきである」
(2) 「客観的な報道ということはできず、修正の限度を越えている」
としていながら、「本件記事は、阿部日顕個人に向けられたものであり、これが同人に対する名誉毀損を構成する余地があるとしても、これをもって直ちに、被控訴人両名(※日蓮正宗及び大石寺)に対する不法行為に該当するということはできない」という珍説によって宗門の請求を棄却しました。

当然、宗門側は不当判決とし最高裁に上告、2004年2月に単に宗門側の主張 が憲法違反等の上告理由に当たらないとの形式的理由を示しただけで、宗門側の上告を棄却しました。これにより高裁判決が確定しました。

創価学会は全面勝訴と報道をしていますが、創価学会側は東京地裁で写真の偽造を認めております。
池田大作および創価学会による偽造写真での報道記事は、悪質なデマであり日顕上人に対する名誉段損が成立することを明確に認定し、創価学会の違法行為を厳し く断罪しました。

東京地裁判決
http://www.toride.org/gosei/Judgment.htm
東京高裁判決
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/gizou. …


質問者様は現在どんなご本尊を拝まれているのですか?

「今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の草木にも非ず魔なり鬼なり」(木絵二像開眼之事)    
見た目同じように見えるご本尊ですが、中身は天と地と程の差がございます。

「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(立正安国論)です。


東京地裁判決文(抜粋)

本件写真がいずれも被告創価学会において原写真を加工したものであることは当事者間に争いがない。

そこで原写真に施された加工の具体的な内容についてみるに、証拠によれば、本件写真一については、原写真には阿部日顕の他に二名の宴席出席者の男性が写っているのに対して、本件写真一ではそれらの人物が抹消ないし写真の中に収まらないように写真の両端が切り落とされて加工されている点、原写真にはその正面背景に写っていた床の間の生け花、書院の障子窓等が本件写真一では抹消されている点、本件写真二については、原写真には阿部日顕の他に二名の宴席出席者の男性が写っているのに対して、本件写真二ではそれらの人物が写真の中に収まらないように写真の両端が切り落されている点、原写真には背景として写っていた生花や額入絵画等が本件写真二では抹消されている点、そして、本件写真に共通するところでは、写真に写っている女性達にはアイマスクの加工が施されている点が、 いずれも被告創価学会により施された加工のうち主要なものと認められる。

本件写真とその原写真とを比較すると、いずれも前者においてはそこに写っている男性が阿部日顕だけであることから、あるいは本件写真撮影当時酒宴にいた男性は阿部日顕一人きりであったとの印象をそれを見た者に対して抱かせる可能性がある。

本件問題部分はいずれもそのほとんどが本件写真を基礎としての意見ないし論評の表明というべきものであるところ、そもそも本件記事では意見ないし論評の前提としている具体的事実が何であるかをその紙面から了解することはできない。すなわち、本件写真はそれを見た者に対して阿部日顕が芸者同伴の酒席に出席していたとの印象を与えるものであるが、その撮影における具体的な状況が写真自体から直ちに理解できるようなものでないにもかかわらず、本件記事中の記載においては本件写真の撮影者、撮影日時、撮影場所等がほとんど触れられていないのであって、本件記事自体からは意見ないし論評の前提となる具体的事実を窺い知ることができないのである(しかも、前述したように、本件写真はいずれも原写真に一定の加工を施したものである。)。

そうであれば、本件問題部分の記載は、いわば明確な根拠を示すことなく他人の悪口を書き立てているのと同じであり、先に見た違法性判断の利益衡量の背景にある表現の自由の観点からも、これを享受すべき具体的事実を前提とした公正な論評とは到底いい難いものであって、それは阿部日顕ないし同人を宗教上の最高指導者として擁する原告らに対して単に揶揄、侮蔑、誹謗、中傷を並べたに過ぎないものという他ない。

写真を基礎とする論評記事の執筆・掲載に際しては、写真が余程明確にそれ自体で具体的事実を物語るようなものである場合は格別、そうでない限りはその写真が如何なる具体的事実を示すものかについて本文の記事中で補充して説明することにより、その写真が指し示す具体的事実、更にはその写真と論評部分との関連性を積極的に明らかにしておくべきであり、これが明らかにされていない意見ないし論評で他人の名誉を毀損するものについては、もはや一定の事実を基礎とした意見ないし論評足り得ず、その違法性を欠く余地はないというべきである。

また、本件写真は前述したように被告創価学会による加工が施された後のものであるが、証拠(甲八五)によれば、加工前の写真は昭和六一年一一月二二日に原告日蓮正宗の二名の僧侶の古稀記念祝賀会として催された宴席の様子を写したものであること、右宴席は高級料亭において芸者同伴で催されたものではあるが、右宴席には阿部日顕の他に原告日蓮正宗の僧侶一一名と阿部日顕夫人も含めて右僧侶の夫人ら八名が出席していたことがそれぞれ認められるところ、そのような宴席が存在した事実を前提とした意見ないし論評と理解したところで、本件問題部分における記載は論評の域をはるかに逸脱したものであることは明らかである。

その違法性は社会通念上決して容認できない程度に至っていることは明らかであり、本件において未だ名誉毀損の成立は妨げられないというべきである。

被告らは、本件記事の掲載は宗教教義上の論争であることから違法性がない、更にはそもそも宗教論争の一環である本件記事掲載についての違法性は裁判所が判断すべき事項ではないなどと主張する。

しかしながら、本件記事は、どのような具体的事実が、どのような原告らの教義に、どう違反しているのかについて、ほとんど触れてはおらず、かかる本件記事の内容をみれば、本件における名誉毀損成否の判断にあたって、原告らの教義内容に立ち入る必要がないことは明らかというべきであるし、仮に真実阿部日顕が原告らの教義に違反する人物であったとしても、本件記事のように、具体的な事実を示さずにする他人に対する人身攻撃的な言論の違法性が、それ故に消失する理由はない。

また、教義の解釈等をめぐり深遠な議論が展開しているというのであれば格別、本件記事のような内容そして態様で繰り広げられている人身攻撃の筆戦を宗教論争と呼ぶのであれば、そのような宗教論争について裁判所がその違法性を判断するのは容易なことであって、裁判所が判断することにより被告創価学会の信教の自由が侵されるなどということがあるはずもない。

原告らの宗教上の最高指導者である阿部日顕が公的な地位にあることから同人に関する言論の違法性については相応の配慮がなされるべきであることを考慮に入れても本件問題部分が違法との評価を免れないことは前述のとおりであるし、宗教関係者も世間一般の社会のルールを守るべきは当然のことであるから、被告らが宗教団体ないし宗教者であることは特に本件記事の違法性の判断に影響を与えるものではないというべきである。  したがって、本件における宗教論争であれば違法性がなくなるなどとする被告らの右主張は独自の立論に過ぎないという他はない。

以上のとおりであるから、本件記事は、いずれも違法・有責に原告らの社会的評価を相当程度低下させるものと認めるのが相当である。

被告創価学会の組織運営上の最高指導者であることは否定するが、そもそも、宗教団体とは、信仰を共にする者の集団であり、その運営は当然その信仰の強化発展のためになされるものであるから、特に象徴的な意味での指導者に過ぎないというのであれば格別、実質的な信仰上の指導者であれば、宗教団体の運営はその指導者の信仰上の指導に沿ってなされるのが当然であり、通常の場合、信仰上の最高指導者であることはすなわち宗教団体の組織の運営上も最高指導者であることを意味するというべきである。被告池田大作が特に象徴的な意味での被告創価学会の指導者に過ぎないと認めることはできない。

そのような被告池田大作の被告創価学会において有する地位ないし立場に照らせば、被告創価学会の団体としての一般的な活動の中でなされた違法行為について、被告池田大作が自らそれを指導ないし容認していた場合に被告創価学会と連帯してその被害者に対して不法行為の責を負うことになるのは勿論であるが、被告池田大作がこれを事前に了知していたに過ぎない場合においても、同人には被告創価学会がそのような違法行為に及ぶことのないようこれを制止すべき条理上の義務があり、これに違反すればやはり不法行為に基づく責任を負うというべきである。

そこで本件についてみるに、本件発言の発言内容をみれば、本件記事二の掲載という被告創価学会の違法行為について被告池田大作がその予定を事前に知っていたことは明らかであり、そして、本件発言直後、実際に本件記事二が創価新報に掲載されて原告らの名誉が毀損されるに至ったのであるから、被告池田大作は本件記事二の掲載を制止せずにいたものと認めることができる。 

本件記事二の掲載に反対しこれを阻止しようとする意図を汲みとるのは困難という他なく、むしろ被告池田大作においては本件記事二の掲載という被告創価学会の違法行為の予定について認知していたのみならず、被告創価学会の事実上の絶対的な最高指導者として本件記事二の掲載を積極的に容認していたのではないかとの推測も成り立つところである。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
創価学会が故意に写真を偽造したとのことは承知しました。

回答者様の文の中に
「二名の僧侶の古稀記念祝賀会として催された宴席の様子を写したものであること、
右宴席は高級料亭において芸者同伴で催されたものではあるが」というのがありますが
他の人を写真から除くという、ねつ造はあったものの、
「高級料亭において芸者同伴」は、事実なのですね?

私は御本尊も題目も、日蓮正宗と同じものです。
問題は、その人たちの活動内容や思想なので、御本尊、題目が正しいことは承知しています。

創価の言い分を全部信用することもできませんが
日顕上人はたしかに他の人も連れて、「高級料亭において芸者同伴の宴会」
をしていたのですか・・・。それも嘘であってほしかったです・・。残念です・・・。

お礼日時:2010/03/24 08:57

>正しく信仰している団体を探しています。



現在は日蓮正宗のみです。
何か気に入らないことでもありますか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。以前は正しかったと聞いていますが「日顕上人」になってから、僧侶一同、腐敗したと知人から聞きました。その知人から日顕上人や婦人の豪遊ぶりや、芸者遊びの証拠写真などを見せられました。

お礼日時:2010/03/23 14:04

正しい信仰とはどのようなことでしょうか。



ある人が、人づてに、あるいはチラシなどを見て、とてもおいしい料理屋さんのあるのを知ったとします。
じゃぁ、今度そこへ行ってみようかと思いつつも数日が過ぎ、その店に行くちょうど良い機会を得たとします。こんばんわ、○○一つください。・・・パクパクパク、・・・うまい、。

一方で、ある人が、人づてに、あるいはチラシなどを見て、とてもおいしい料理屋さんのあるのを知ったとしても、常々何時行こうかと考えているうちに、数日、数週、そして数ヶ月経ち、いつの間にかそのお店に行きたいと言う気持ちが薄れ、そして終には、その店があったことさえも忘れ、結局その店に行く機会を逸してしまったとしましょう。そして数年後、皆に惜しまれつつもお店が無くなったことを人づてに聞き、そしてその人は言いました。
ああ、私も一度は食べてみたかったなと。

どちらの人が、正しく情報を得たのだと言えるでしょうか。

料理は、食べてみるまではおいしいかどうかは分かりません。ですので、そのお店の料理が絶対にうまいはずだと、食べる前から意気込んでも、そのこと自体にはあまり意味がないのだとも言えます。しかしもちろん、そのような熱意を持っている人は、おそらく真っ先にそのお店に行くでしょう。そして、その料理がうまいか、特筆するほどでもないのか、自分自身の味覚で確かめることでしょう。
また、それほど意気込んでいなくとも、気軽な気持ちで、一度行ってみようか、と思うような人でも、かえってその気軽さゆえにそのお店に行く機会を近く得て、ああ、ほんとにおいしいね、ここの料理、と、思わぬ満足を得ることができるでしょう。


覚りの境地についても同じことが言えると思います。
世に名だたる、あるいは無名の、経典、法話、仏達があり、それぞれの人にとって縁のあるそれらに出会い、それらから、覚りの境地への道を示してもらうことがあるでしょう。そして、素直にであれ、いぶかしげにであれ、ほんまにおいしいのかなと、疑惑を持って臨んだとしても、実際に食べてみて料理のうまさの具合が分かるように、実際に覚りの境地に至ってみて、それが素晴らしいものであったのかどうかが身をもって証明されるのであると思います。

覚りの境地を目指す人は、そこに至ってこそ証明される無上の安らぎ(ニルヴァーナ)にこそ至りましょう。
そこに至った人(覚れる人)は必ず、あそこのお店がおいしいよ、と人にお店を教えるように、涅槃は素晴らしい、と、人々に教えるのではないでしょうか。
そして、おいしい店の評判が、口コミで広がって行くように、覚りの境地は、過去現在未来にわたるすべての人々にとっての法脈(縁)によって、伝え、広められて行くのであると思います。

そこ(覚りの境地)は、人ならば誰しもが満足できる、最上の味わいだと聞いています。
mdh57さんも、是非、覚りの境地に行ってみてください。そして感興を聞かせてください。
私も行きたいです(^^)/

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。teruteru_3様の考え方は、正しいと思います。
しかし、「実際に食べてみてください」といっても、ほとんど全員が、「絶対に食べない」と
言うので、なかなか理解してもらえないのが現状です。

>「mdh57さんも、是非、覚りの境地に行ってみてください。そして感興を聞かせてください。」

A:ありがとうございます。しかし、その境地に達するには、「三障四魔」や「強烈な迫害」など、
とてつもないことを乗り越える修行が必要になります。
もちろん、それに負けないように頑張ります。

私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。1度だけでもいいので、最後まで読んでください。お願いします。

(私事で恐縮ですが・・・)

私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。

全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに神様や仏様がいて、助けてくれる」という、他力本願の考えを否定した、「無神論」の教えです。

(自身の中から仏界を引き出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しているのです)
前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門にたどりつきました。
そして、邪宗や占い師、(もちろんカルト等も)、信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。

10年かけて、宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。

詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。
仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。

釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で「法華経本門」といいます)」を説きます。

しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2千年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。

そして、釈迦が「文底秘沈」した(明かさなかった)「法華経文底独一本門」が末法で信仰すべき仏法だと教えています。

仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。

簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。
過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。

また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。
(もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます)

また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

補足日時:2010/03/21 09:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。しかし、「実際に食べてみてください」といっても、ほとんど全員が、「絶対に食べない」と言うので、なかなか理解してもらえないのが現状です。

>「mdh57さんも、是非、覚りの境地に行ってみてください。そして感興を聞かせてください。」

ありがとうございます。しかし、その境地に達するには、「三障四魔」や「強烈な迫害」など、とてつもないことを乗り越える事が必要になります。もちろん、それに負けないように頑張ります。

私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。1度だけでもいいので、最後まで読んでください。お願いします。

(私事で恐縮ですが・・・)

私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。

全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに神様や仏様がいて、助けてくれる」という、他力本願の考えを否定した、「無神論」の教えです。

(自身の中から仏界を引き出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しているのです)
前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門にたどりつきました。
そして、邪宗や占い師、(もちろんカルト等も)、信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。

10年かけて、宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。

詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。
仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。

釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で「法華経本門」といいます)」を説きます。

しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2千年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。

そして、釈迦が「文底秘沈」した(明かさなかった)「法華経文底独一本門」が末法で信仰すべき仏法だと教えています。

仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。

簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。
過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。

また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。
(もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます)

また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

お礼日時:2010/03/21 09:29

文底独一本門まで独自にたどり着けたのは見事です。

そこまで来た人を聞いたことはありません。しかし文底独一本門と文底と独一と一緒にしてはいけません。

文底と独一とは別物です。文底本門は釈尊で、本仏の本門は独一本門です。

それについての解説書は「日蓮大聖人の生きた法門 独一本門」はブックオフや神田の仏教書専門店に多分あります。なければ他の方法で手に入れることもできます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。しかし、その辺の学問は、大学院から現在に至るまでの10年間の初期のほうで、解読済みです。失礼な言い方をして、申し訳ございません。しかし、ご回答下さったことを感謝いたします。

お礼日時:2010/03/23 14:10

とてもすばらしいお心がけです。

私は今は神道系のところに所属していますが、日本いや世界においても日蓮上人に勝る神通力を持つお坊さんは存在しないそうです。伊勢神宮にて日本の国難を自分が背負って祈願した尊い尊いお方です。日蓮上人は何回も殺されそうになりましたが、いつでも神仏がお守りになりました。そして日本の国難を神風という形でもお救いになられました。どうか、あなたも良い方に廻り合い精進努力をお続けになり、世のために仏道を全うしてくださること祈願しております。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。しかし神道は「外道(有神論)」なので、そこまでご理解されている方なので、神道をやめることをお勧めします。

私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。1度だけでもいいので、最後まで読んでください。お願いします。

(私事で恐縮ですが・・・)

私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。

全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに神様や仏様がいて、助けてくれる」という、他力本願の考えを否定した、「無神論」の教えです。

(自身の中から仏界を引き出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しているのです)
前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門にたどりつきました。
そして、邪宗や占い師、(もちろんカルト等も)、信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。

10年かけて、宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。

詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。
仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。

釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で「法華経本門」といいます)」を説きます。

しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2千年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。

そして、釈迦が「文底秘沈」した(明かさなかった)「法華経文底独一本門」が末法で信仰すべき仏法だと教えています。

仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。

簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。
過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。

また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。
(もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます)

また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

投稿日時 - 2010-03-21 09:29:48

お礼日時:2010/03/21 09:33

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す