
1. 神は 有ると無いとの重ね合わせ状態で 人間にあらわれる
2. すなわち 普遍神は 《有る神》と《無い神》とのふたつの姿が重ね合わさった状態で個々の人の前にあらわれる。
3. われなる人は いづれか一方の形式で神とカカハリを持つ。
4. どちらをえらんでも自由だ。良心・信教の自由。
5. 《有る神》派と《無い神》派とは 互いに対等・同等であり 自由に同時に成り立っている。
6. この自由を乱すのは 〔オシへを――あろうことか――神だとして説くところの〕宗教だ。
6-1. 無神論も 宗教に成り得る。
☆ コメントを惜しみなく述べてご教授ください。
A 回答 (1件)
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No.1
- 回答日時:
西洋人はなぜ分けたがるのか…哲学も西洋。
道徳には自由がある。他者の凝り固まった意見では無いからだ。
質問者様にお聞きしたい!
宗教の根幹とは?
ご回答をありがとうございます。
1.
感じる:感性の原野・・・身
考える:思考の緑野・・・心
ー------------
信じる:非思考の庭・・・生命性
2. 信じるとは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》としての神を――ブラフマンなりヤハヱーなりの名前で――無条件にわが心に受け容れることを言います。
3. 非思考の庭――それは 動態――としての信仰から何がしかのイメージを神についてひとは しばしば 得ることがある。これは 主観の内面に起きる神観である。
4. ところが この神観を 人によっては人間観や世界観として展開することがある。体系化したものは 神学とも呼ばれる。
5. 宗教というのは この神観ないし神学〔の元となった教典〕のオシへを あろうことか 神そのものとしてあがめるようになったものを言う。
5-1. 教義のほかに 教祖または教団という組織をも あたかも神としてのごとく絶対視する場合がある。
6. 一般にオシへが 偶像――神の仮りの像――と見なされている。
7. 基本として オシへは――神観に発しているかぎりで――神そのものを指差しているその指である。神そのものではない。
7-1. または 分かりやすく 正解たる神へとみちびく補助線である。
8. 指や補助線が 神であるわけがない。にもかかわらず そうするのは 精神錯乱であるか または 商売のタネとしているかだ。
*
★ 道徳には自由がある。他者の凝り固まった意見では無いからだ。
☆ これ ちょっとあやういと思う。
道徳は 倫理規範であって 守るべきオシへだと見なされるなら けっきょくほぼ宗教になります。
いづれにしろ 道徳は その中身が固定した場合が しばしば見られます。よ。
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7. 《有る神》の神は オシへから自由にという条件で いかなる名前をつけて呼んでも自由だ。
7-1. 概念として主張するなら守るべきオシへに成り得るのでまづいけれど 名前だけなら イワシノアタマでも構わない。