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ユダヤ教・キリスト教の方にお伺いします。

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1.旧約 (創世記1:1)はじめに神は天と地とを創造された。
  からの
  (創世記2:4)これが天地創造の由来である。(後略)
  ここまでは「神」が主語です。

  しかし(創世記2:4)(前略)主なる神が地と天とを造られた時、
  からの
  (創世記3:23)そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
  ここまでは「主なる神」が主語です。

2.(創世記3:22)主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。
   主なる神は「われわれ」と仰っています。

質問1
上記1.2より、神と主なる神は別で、主なる神は「われわれ」と仰っているのですが、
何故に一神教なのですか?

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3.(創世記4:14)(前略)わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
   そしてカインはノドの地に住み
  (創世記4:17)カインはその妻を知った。
   とあります。

質問2
カインの妻はどうやって存在したんですか?サルか何かですか?
いや、4:14には「人はだれでもわたしを」とある。サルではなく人です。
この「ひと」はどうやって存在したんですか?

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4.創世記3章 アダムとエバがリンゴ(善悪を知る木の実)を食べる部分です。
  人は「女が食べさせた」といい、女は「へびが食べさせた」と言います。

質問3
原罪とは、神の命に背いた事よりも「言い訳をしたこと」ではないのでしょうか?
神の命に背いた事もあるでしょうけれど、言い訳の方が罪が重いのではないでしょうか?

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5.(創世記 1:4)神はその光を見て、良しとされた。
   神は、自分のみわざを確認されています。
  (創世記2:18)また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
   と、けものと鳥をお創りになられます。しかし
  (創世記2:20)(前略)人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
   とあります。

6.(創世記6:6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
  (創世記6:7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

質問4
上記5.6.より、神様たちが万能なのは、自分のわざを見直し、必要なら手直しをするからではないのですか?
つまり、PDCAサイクルを回すから万能なのではないのですか?
後年、イエスも「悔い改めよ」と同じことを仰っています。

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7.(創世記4:8)カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
  (創世記4:9)主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

質問5
アダムとイブが林檎を食べて犯した原罪以外にも、主なる神にウソをついたという
「第二の原罪」があるのでは?
質問1にも関係しますが、一神教というのはひとがウソをついてるのでは?
いまだに「第二の原罪」(仮称)はひとから持ち去られていないのでは?

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8.ノアの洪水の後、ノアは農夫となりぶどうを作り、ぶどう酒を作ります。
  ぶどう酒を飲んで酔って裸で寝てしまいます。
  カナンの父・ハムが兄弟に告げて、セムとヤペテが着物をかけます。
  (創世記9:24)やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、
  (創世記 9:25)彼は言った、
  「カナンはのろわれよ。
  彼はしもべのしもべとなって、
  その兄弟たちに仕える」。

  自分の孫を呪うって、人間のやることですか?

質問6
ノアが孫を呪ったのは、第三の原罪ですか?

質問7
創世記ではなく出典は割愛しますが、聖櫃(アーク)を作り金で飾り熾天使ケルビムを飾ります。
中に入っている石板には十戒が納められ「偶像崇拝をしないこと」と書いてありますが、
見事に矛盾しています。
これは、第四の原罪ですか?

出エジプト記には「神に指示された通り」とありますが、矛盾に気づくかどうか、
神はひとを試されたのでは?
(アブラハムに「子供を生贄にせよ」と仰って試された、という実績があります)

質問8
イエスが十字架を背負って持って行ってくださったという原罪は結局どれですか?

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聖書の引用元:口語訳旧約聖書(1955年版)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

質問者からの補足コメント

  • 聖櫃のケルビムについて

    聖櫃には十戒を書いた石板が納められ、石板に記載された内容(ソフトウェア)は現在に伝わっております。
    肝心な部分はソフトウェア(十戒の言葉=主なる神との契約内容)であって、それをきちんと履行することこそ重要ではないのですか?
    十戒の入れ物に過ぎない聖櫃を飾り立てて、わざわざ「神の臨在を示す」必要はどこにあるんですか?
    きちんと履行しないから、イエスが出て「仕切り直すからちゃんとやれ」と仰ったのでは?
    そういう図式ではないのですか?

    であれば、聖櫃を飾り立てたことは「悔い改める」べきポイントではないのですか?

    イエスは「律法学者のいうことは聞きなさい。いいことを言ってるからである。」「しかし実行が伴わないのが悪い」と仰いました。新約のどこでしたっけ?
    その通りではありませんか?

    と私は思うのです。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/06 18:33
  • 皆様へ補足1

    創世記(6:1)人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、(6:2)神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
    「人」と「神の子」が出てきます。創世記6章に主なる神は「主」と記されています。
    じゃ、ここに出て来る「神の子」とは誰なんでしょうか?

    これも「人」はアダムとイブの子孫、「神の子」は主なる神じゃない方の神が造ったひとのこと。
    こう考えるとすっきりします。
    「神と主なる神は別ではないか」「なぜ一神教なのか」という疑問の根拠に、この話も追加いたします。

      補足日時:2024/04/06 18:46
  • 皆様へ追加質問

    質問9
    我々人間は、主なる神が未熟な神でありそれがため出来損ないになってしまったことを認め
    でも「仕方ない」と、主なる神を赦す必要があるのでは?

      補足日時:2024/04/06 20:11
  • No.2さま 
    悔い改めよ、の具体例について。

    あなたの言葉通り「原罪とは人間が罪を犯してしまう性質そのものである」と定義します。
    であれば「主イエスが十字架と共に、過去・現在・未来の人間の原罪を背負ってくださった」
    という教義から考えると「主イエスは罪を犯す性質を持っていってくださった」となり、
    イエス以降の人間は罪を犯さない筈ですが?
    矛盾しているということは、現在のキリスト教の考え方がどこか間違っていることを意味します。
    (こういう弁証法を背理法といいます)
    どこかを修正する必要があるのでは?
    まずあなたの原罪の定義からコトバンクなどと異なります。これを真っ先にこれを疑います。

    そういう修正をしなさい、と「悔い改めよ」とイエスは仰ったのではないでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/06 20:24
  • 回答者へ おことわり

    No3とNo4の回答は、私は削除依頼出してないのですが運営の方で削除したようです。
    確かに、相当に汚い言葉を使ってました。
    そういう言葉が出るということは、精神的に良くない状況だと思われます。
    もう一度落ち着いて、悔い改めるとはどういうことか、を考えてみてください。
    私は「悔い改めよ」と「カイゼン」「PDCAサイクル」は本質的に同じものだと思う。
    それをもう一度ご自分で考えてみてください。

    聖書によると、主なる神ですら悔いています。聖書にそう書かれている事実を認めてください。

    フランシスコ・ザビエルが日本人に論破されたという動画がいくつか出ています。
    その頃とちっとも進歩していないように思います。

      補足日時:2024/04/07 22:33
  • 主なる神が犯した原罪に付いて

    ・ひとをお創りになり、善悪を知る木の実を食べると死ぬであろう、と仰ったが、死ななかった。
     これは、主なる神がウソをついていた可能性があること。

    ・林檎を食べた時、烈火のごとくお怒りになったのでしょう。人間に呪いをかけたこと。
     ここは後にキリストをして「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と言わしめています。
     反省されているようです。

    ウソをついた事、呪いをかけたことは「主なる神が犯した原罪」ではないのでしょうか?
    主なる神は誰かにこれを告白し、赦しを受けたのでしょうか?

    父と子(キリスト)と聖霊は三位一体です。キリストが持って行った原罪とは、主なる神が犯した
    原罪だけで、人間の原罪は持って行ってくれなかったのではないでしょうか?

    そう考えた方がいろいろ辻褄が合うと思うのです。

      補足日時:2024/04/12 14:14
  • No11様

    すみません。御礼の宛先を誤爆いたしました。本来No12様に充てるべき内容をNo11様に書いてしまいました。お詫びして訂正させて下さい。

    以下本来の返信
    神は未熟ではありませんが、主なる神は未熟です。一発で決めたのと見直しているのと、6日目に再度見直してはなはだよかったのと、ノアの頃になって「ひとと生き物を作ったことを悔いる」と、雲泥の差です。この2者が同一なはずがない。つまり複数の神がいる、と私には思えるのです。
    逆にどうしてそこまで、同じ神であるという考えに縛られているのでしょうか?
    創世記を読んでください。

    もしNo11様がここで「なるほど」と思ったとしても、ネットを離れて仲間内にこの話をしたら「お前は何をたぶらかされたんだ」と元の考えに引き戻されてしまうのかも知れません。
    結局、主なる神が行った「カイゼン」はなされないままですね?

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/13 00:08
  • No19様
    創世記に神と主なる神が出て来る理由は、少なくとも2つ考えられます。
    1.同一神格だが聖書の著者が異なり別の記載になった
    2.本当に別の神格だった

    説1であれば、ノドの地にいた人々やカインの妻の存在が説明できません。
    またノアの洪水の直前に記載があるネピリム(ネフィリム)の部分ですが、ひとの娘と神の子が別に出てきます。
    これは、ひとが「主なる神が創った末裔」、神の子が「神が創った人の末裔」と解釈すると辻褄が合いますが、同一説ではどう説明するのでしょうか?
    ネフィリムは英雄(共同訳)や勇士(私の引用元)、the mighty men(英語)とあり、悪い意味ではない。が主なる神は全滅させるという選択をします。悪がはびこっていたからです。
    悪の元というのは、主なる神の末裔がもたらしたものではないのでしょうか?

    ここからも、説1は違うのでは?という疑問が拭えません。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/13 19:38
  • プンプン

    ベストアンサーを選ばずに閉めます。

    神と主なる神が同一、かつノドの地の人を説明できる一つの仮説   ←所詮仮説です
    主なる神はひとを創った後「助け手を造ろう」と創造されました。
    で、ひとは全ての家畜と空の鳥と野のすべての獣に名を付けたとあります。
    つまり主なる神は家畜を創造されたわけです。

    ひとと交雑可能な亜人とでもいうべき家畜がいて、
    それがノドの地のひとやカインの妻になった。
    こういう可能性は考えられます。

    もちろん、亜人?の方が優れていた可能性も十分にあります。
    エデンの園で善悪を知る木の実を食べたわけでもないので、いわゆる原罪も持ってないでしょう。
    であれば、ひとを創ったあと「改善すべき点」が見つかり、そこを対処されたのでしょう。
    PDCAサイクルを回していた筈、という結論にも回帰します。

    例えば、こういう説明を求めていたのです。
    得られそうにないので閉めます。

      補足日時:2024/04/14 17:32

A 回答 (17件中1~10件)

また同じ話の繰り返しになってしまいますが、同じ人物であっても登場する物語が別であれば人物像の描き方も変わる事があるし場合によっては名前ないし呼び方も変わる事があります。

なので創世記の場合も創造主を「神」と呼んでいる物語と「主なる神」と呼んでいる物語と言う二つ(orそれ以上)の物語からできていると言う考え方の方が、質問者様が書いておられるような「二人の神がいてそれぞれが天地創造を行っている」と考えるよりずっと自然だと思いますし、実際前述のようにそれが定説となっています。

ちなみに「一つの物語ではなく二つ(以上)の物語からできている」と言うのは創世記だけでなくモーセ五書(旧約聖書の最初にある創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の総称)全体が「一人の筆者が最初から最後まで全部書いたのではなく複数の物語を編集して作られたもの」と言う具合に現在では考えられています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

今回やっと腑に落ちました。
旧約聖書を書いたのは一人ではなく複数人らしい、という話は聞いた事があります。
つまり、大和朝廷が描くスサノオノミコトと、出雲神話が描くスサノオノミコトが人物像も異なるようなものである、という理解でいいでしょうか?

それで実は同じ神なので一神教である。ここまでは理解いたしました。
ありがとうございました。

ただ、ノドの地にいたカインの妻や人々とはどういう存在でしょうかね?
この説明ができませんが?


では次の疑問です。主なる神として記載されている方ですが、ひとを創った後「助け手を造ろう」と、「神」として描かれている方とは様子が異なります。
以降ノアの洪水まで「主なる神」として記載されていますから、こちらがメインストーリーでしょう。
ここには、ひとを創った後見直したら不足があり、あとからいろいろ作ったことが書かれています。善悪を知る木の実を食べたらあなたは死ぬであろう、とも仰っていますが、アダムもイブも死にませんでした。
これは、主なる神が人に食べられないようにウソをついたのか、主なる神が未熟で所定の性能を発揮できなかったのか、何れかです。
主なる神のウソツキがひとにも影響して(何しろ、自分に似せてとある)アベルを殺した後カインはウソをついたのかも知れません。

主なる神はノアの時代に「生き物を造ったことを悔いる」と仰っています。
つまり、自分のわざに何か不都合な点があり、「全滅させるのが妥当」という結論に達したものと思います。(でもノアの家族だけは助けることにした)

こういうところから、主なる神は未熟であり、そのわざは不完全であったと考えざるを得ません。
「神」として記載されている方は完全な存在のように記載されています。
「主なる神」が不完全な記載なので、不都合を感じた勢力が完全な「神」として追記したのかも知れませんね。
であれば、聖書の捏造とまで言いたくなるようなものです。
大和朝廷が描くスサノオは乱暴者ですが、出雲としては八岐大蛇(音が似ているのでヤマト朝廷のことか?)を退治してくれた英雄です。八岐大蛇退治は出雲の願望だったかも知れません。

やはり、主なる神は試行錯誤、PDCAサイクルを回す。悔い改める。カイゼン。
こういう名前のものを実行し、日々成長されているのでは?

お礼日時:2024/04/13 19:01

今回のお礼コメントにあったように「定説だから間違いはない」と言えないのは確かにその通りですが、逆に「正しいと考えられるからこそ定説になっている」と言うのも間違いないでしょう。

実際、質問者様の解釈よりも定説の解釈の方がずっと自然だと思います。
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同じ話の繰り返しになってしまいますが「神と主なる神」について再度。



度々書きましたが、同じ人物であっても登場する作品が違えば人物像も別になる場合がありますし、時には名前(呼ばれ方)も変わる場合があります。例えば徳川家康を例に挙げると、西田敏行さんが豊臣秀吉を演じた大河ドラマ『おんな太閤記』に出て来る徳川家康はよく見られるような「豊臣に代わって天下を狙う曲者」と言った描かれ方でしたが、その数年後にやはり大河ドラマとして放送された『徳川家康』では家臣が自分の命に反して豊臣秀頼を殺害した(or自害に追い込んだ)事を死んだ豊臣秀吉に詫びる描写さえ描かれていました。これはフィクションの話ですが、創世記のような伝承を記録したものであっても「物語が変われば神の人物像も名前も変わる」と言うのは普通にあり得る事です。
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この回答へのお礼

でてきている本が違う、という問題ではありません。

私が参考にしたものはURLを記載しています。
再度記します。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

共同訳は違うとでも仰りたいのですか?
↓ 共同訳の聖書のURLです。
https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.1.%E6%96 …

英語では、神がGod、主なる神がJehovah Godとあります。
http://bible.e-lesson1.com/2genesis2.htm

聖書を読む限り、どう読んでも「神と主なる神は別」としか読めません。
であるのに、なぜ一神教なのですか? という疑問があります。

徳川家康やウルトラマンの例えは的外れだと思います。

お礼日時:2024/04/13 18:01

一応追記ですが、先に書いた「出て来る本が違うから別の名前になっているだけで『神』も『主なる神』も同じ神」と言うのは私の個人的見解ではなく聖書学上の定説です。

また学術上だけでなく信仰上においても「神が複数存在している」と言う解釈はかなり特殊なものだと思います(少なくとも私は初めて見ました)。
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この回答へのお礼

邪馬台国論議を見ると、定説(今は近畿説)に疑問符がつくことはざらです。
出土品は全てと言っていいほど、九州説を支持しています。

宇宙はビッグバンで138億年まえにはじまったというのが現在の定説です。
これも、138億年ではなくもっと古いのでは?と考えられる証拠(観測事実)が見つかってきています。

聖書も「定説だから」は論拠になりません。
定説を論拠にするのであれば、天動説は覆ったではありませんか?

お礼日時:2024/04/13 17:49

お礼コメントの回答についてですが、そう言う事であればやはり前述のように「出て来る本が違うから別の名前になっているだけでどちらも同一人物」と言う事になります。

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お礼コメントや補足等を読ませていただいて気になる点は一言で言えば「考え方が独断的」と見える事です。

つまり他にもいろんな考え方ができるのに「こうでしかあり得ない」「こうであったに決まっている」とだけ考えておられる(ように見える)と言う点です。

例を挙げればいくらでもありますが、と言うより質問者様の見解のほぼ全部がそう言ったもののような気がしますが、まず(現在はなぜか削除されているようですが)補足の中にあった「カナンは呪われよ」云々と言ってノアがハム(の子孫)に呪いの言葉を言う場面があるでしょう。確かに一読した限りでは「自分の孫を呪うなんて何ちゅうジジイなんだ(大泉逸郎とはエラい違いだ)」みたいに思えなくもありませんが、この場面は質問者様が考えておられるように「ノアが呪わなければハムの子孫は安泰だった(∴ハムの子孫のその後はノアの責任)」とは限りません。ハムが決定的にマズい事をやらかした結果としてノアが呪いの言葉を言ったと言う因果関係については間違いないでしょうから、ハムが「やらかした」時点で既に呪いは発動していた(ノアはその事実を告知しただけ)と考える事もできますし、あるいは呪い自体はノアが発動させたものだったとしても「その時点では既に呪いを発動させざるを得ない状況だった」と考える事もできます。少なくとも呪いが発動した原因ないし責任をノアに求めるのは筋違いと考える方がより自然だと思います。

同様の事は善悪の実を食べたアダムとエバが神から呪いの言葉(聖書が手元にないので本当に「呪い」と表現するべきものかどうか確認できませんが)を言う場面についても言えると思います。質問者様はこちらも同様に「神が呪わなければアダムとエバのその後は安泰だった」と言ったお考えのように見受けられましたが、呪いを受けるようになった原因は明らかに二人が善悪の実を食べた事にあるわけですから「その時点で既に呪いを言わざるを得なくなってしまっていた(∴神の責任ではない)」と考える事もできるわけですし、むしろこちらの方が自然のような気がします。
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この回答へのお礼

> ハムが「やらかした」時点
ハムは悪いことをしましたか? 裸で寝ている父親に「自分が」衣をかけなかったのが悪かったのでしょうか?
ノアは「裸で寝ていたことがばれてしまった」から恥ずかしくて呪ったのでしょうか?
つまり、悪いのはノアじゃないんですかね?

神が呪わなければ安泰だった、とは思いません。
第6章で「生き物を造ったことを悔いる」と仰っているからです。

これは解釈の多様性の問題ではありません。
聖書を読む限り必然的に帰結する解釈のはずが、どうしてそうなっていないの?
という疑問です。

それが、神と主なる神は明確に別じゃないの?という部分。
主なる神は未熟だとしか読めない、という部分。
(神は一発で決めた。主なる神は改善点が見つかっているが、結局は「生き物を造ったことを悔いる」とまで仰っています)

それと「聖書が手元にないので」という言い訳をせずに済むように、
質問の最初には引用元のURLを記載しておいたのですけどね。
アダムとイブの「言い訳をする」という原罪は、いまだに抜けていないようです。
すると、イエスが過去現在未来の全ての人間の原罪を持っていってくださった、という話にも疑問符がつきませんか?

つまり、
ハムがやらかしたとはどういう行動を仰っているんですか?
それは「やらかした」と言える行動でしょうか?

そして、神と主なる神は別じゃないの、という疑問。
この疑問の論拠は何回も書いていますが、それを明確に解き明かされない限り、
疑問は解消できません。
誰もが避けている印象があり、明確なお答えは誰からもいただいておりません。

お礼日時:2024/04/13 15:26

「ひょっとして」と言うだけですが、質問者様がユダヤ教やキリスト教を一神教とする事に違和感を持たれている理由は、創世記(&恐らく旧約聖書の他の書)で神の呼び方が二種類あるからでしょうか。

実際質問文にも創世記に出て来る「神」と「主なる神」を別々の人物(神を「人物」と言っていいのか分かりませんが便宜上こう表現しておきます)のように考えておられるようですが、現在ではもちろんこの両者は同一人物と考えられています。なので当然「神が一人しか登場しないユダヤ教やキリスト教は一神教」と言う結論になります。

こう書くと「呼び方が違うのに同じ人物であるはずがない」と言われるかもしれませんが、同じ人物であっても作品等が変われば呼び方も変わるのはそれほど珍しい事ではないと思います。

例えば(卑近な例で恐縮ですが)『帰ってきたウルトラマン』の主人公として登場する異形のヒーローは劇中では一貫して「ウルトラマン」とだけ呼ばれていましたが、いわゆる初代ウルトラマンと区別するために当時から「帰ってきたウルトラマン」あるいは「新ウルトラマン」とも呼ばれていました。その後のシリーズ作品に客演した時も同様でしたが、ある映画作品に登場するに当たって「ウルトラマンジャック」と言う名前が設定され、以降はその呼び方が正式なキャラクター名とされています。

話を戻すと「神」「主なる神」の場合も「登場している物語が別々だから呼び方も別々」と単純に考えて差し支えないと思います。
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この回答へのお礼

ひょっとして、ではなく、明確に「神と主なる神は別物」と考えています。

その論拠ですが、
・生き物と人間を作った順番が違う。
・神は一発で決めた「よしと言われた」とあります。
・主なる神からは「よし」という言葉は出てきません。
 ひとを創った後見直して「助け手を作ろう」と生き物を造られ
 それでも不足で結局あばら骨から女をお創りになります。
・あろうことか、創世記6章では「生き物を造ったことを悔いる」とまで仰っています。

これらから、「神」は手練れの創造主であり、「主なる神」は未熟な創造主であることが読めます。

従って、別の存在であることは間違いないと思います。
創世記6章の「生き物を造ったことを悔いる」旨、読んでみて、再度ご意見を下さい。

主なる神は未熟で、後悔もするし、カイゼン(PDCAサイクルを回す)もしておられます。のちのキリストがいう「悔い改めよ」を自ら実践しておられます。過ちを訂正できるから万能なのでしょう。

創世記に書かれている限り、どう読んでも
・神と主なる神は別もの
・主なる神は未熟
は読めるはずだと思うのですが、どうして一神教なのでしょうか?
どうして「神」と「主なる神」は同一という解釈になってるのでしょうか?

お礼日時:2024/04/13 15:13

そもそもの話、質問者様は「原罪」とは何か(原罪の意味)を御存知なんでしょうか。

本当に御存知だとしたら「神の原罪」などと言った支離滅裂な事は言えないはずですが。少なくとも質問者様の言われる「原罪」とは一般の用語としての「原罪」とは意味の異なった、言わば質問者様が独自に作られた「造語」と言わざるを得ないと思います。
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三位一体の神に疑問があると言うのでなければ、創世記を読んで「神はただ一人」(注:お礼コメントで書いていた『柱』と言う単位はこの場合はふさわしくないと思います。

神様を数える単位はどんな場合でも『柱』と言うわけではないはずなので)と言う事に疑問を持つ理由が分かりません。神が「われわれ」と言っている事については学術的にも「天使を含めて言っている」と言う考え方が十分成り立つ事は先に書いた通りですから、そこをクリアできるのであれば「神は一人と言うのはおかしい」と考えなければならない理由は何もないはずだと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「神」も「主なる神」もPDCAサイクルを回しています。
「神」の方は見直したけれど問題なく「よし、と言われた」で済んでますが、
「主なる神」の方はそうでもない。創造主として未熟です。それが記載されているのが創世記6章の「ひとと生き物を作ったことを悔いる」です。
であれば、その人間性ならぬ神性においても未熟だった可能性は大いに考えられます。

未熟であるが故、善悪の木の実を食べてひとが言い訳をした時、激怒されたのでしょう。呪いをかけてます。
いかに神様であってもこれはやっちゃいけなかったことだったかも知れません。
それを「神の原罪」と言うべきなのでは?と考えた次第です。
別の言い回しで「原罪の人間サイドの面」と「原罪の神サイドの面」と
言った方が判りやすいかも知れません。
売り言葉(ひとの言い訳)に買い言葉(呪い)かも知れません。喧嘩両成敗です。

まず、主なる神は未熟だったという認識から、No11様とは異なるとは思います。創世記6章を見て、未熟じゃないと言い張れるものでしょうか?
主なる神が後悔していらっしゃるので、我々人間も出来損ないであるのは仕方がない、と、主なる神を赦す必要があるのでは?
つまり、呪いをかけられたという「神の原罪」を赦す必要があるのでは?と思います。

三位一体という考えから言うと、神はイエスを使わして人間の原罪を持って行ってくれました(作戦は失敗したように見えますが・・)
人間も、主なる神の原罪を持っていく必要があるのでは?と思います。

主なる神は善悪を知る木の実を食べられた時呪いをかけましたが、キリストの頃になると「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と進歩しています。
ただ、仏の顔も三度とも申します。

もう一つ。
ひとを創った後善悪を知る木を植え、「これを食べると死ぬであろう」と仰ったものの、ひとも女も死にませんでした。
これは善悪を知る木も性能不十分だった、またはひとに食べられないために主なる神がウソをついた、どちらかだと思います。
後者であれば、ひとにウソをついたということも神の原罪ではないのでしょうか?

お礼日時:2024/04/12 23:53

鋭い指摘ですね。


私、実は聖書の創世記の何日に何を作ったというのは信じてない感じなんですよ。
神なのに、作った結果、必要だったから良しとしたり、ダメだったなんて
心理は、人間的ですよね。
聖書を書いたという預言者が、人間のイメージの限界だったんだと思います。
先ほども言いましたが、聖書は不完全です。
良いなと思うところだけ取り出して、学ぶという形をとればいいと思います。なんていうか、本当のキリスト教徒より、貴方は勉強してるなってびっくりしてますね。

PDCAサイクルと言えば、確かにその通りですね。
意味を教えてくれてありがとう。
貴方の指摘は的中してると思うよ。(^^♪
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
神様目線で見て「合格点」「不合格点」があったんだと思います。
それで「神」は良しと言われた。「主なる神」は良しとは言えなかった。
だから、この2者は別物で、なおかつ「主なる神は未熟な創造神」では?
と思います。

謙遜するわけではありませんが、普通に小説と論文と両方を読んでればこれくらいは読めるようになるはずだと思います。
また、良い文学作品はいろんな解釈が可能で、どの解釈も一理あるというものです。旧約聖書の創世記も私のような解釈は不可能ではないと思います。
それを、どうしてかたくなに拒否する人がいるのかが判りません。

神様たち(複数形です)がPDCAサイクルを回している以上、主なる神によって最初にできた人間は未熟な状態で作られたものでしょう。
善悪を知る木だって「食べるとあなたは死ぬであろう」と言ってるのにアダムもイブも死にませんでした。
善悪を知る木すら所定の性能を発揮していなかったようです。
狡猾な蛇みたいな変な奴ができたのも仕方がなかったのかもしれません。

我々が不完全なのは、主なる神が未熟だったためであり、われわれもいい加減「主なる神は未熟だった」ことを認め、主なる神を赦さねばならないのでは?
という疑問もあります。

お礼日時:2024/04/11 23:09

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