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日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

A 回答 (13件中1~10件)

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。


 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakur …

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104 …
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この回答へのお礼

詳しく回答していただきありがとうございました。
分からない点もありますが、当時の政治家たちは最初からキリスト教に嫌悪感を持ち、それが反乱などで強化され、ついにはキリスト教全面禁止と鎖国にいたった模様ですね。

お礼日時:2005/06/29 00:14

 「創造主の元の平等」とは、「創造主の絶対性」。

つまり「創造主こそが万物の基準であり『善』である」ということでしょう。
 日本の封建制・伝統的価値観の破壊とみなされたことに関して、平等を説くことが「封建制の否定」に直結するとは考えにくいです。それでは当時の欧州では封建社会ではないとはいえないでしょう。また、仏教にも「皆有仏性」と、仏性の存在によって一切衆生の平等を説いていますが、そのことが封建制を否定する要因になったかといえばそうではない。「王法と仏法の冥合」は中世の日本史を知る上でも重要な課題です。(注・封建制はあくまでも政治システムの一形態であって、封建制だからダメという訳ではありません)

 前述したように、欧州では神権政治・王権神授という倫理観が存在しました。支配者の地位は「創造主」によって認められている。このような精神風土が存在していれば、「創造主の元の平等」と「支配者への忠誠」は対立しません。
 しかし、日本には欧州的な「神権政治・王権神授」という倫理観が存在しません。さらには「絶対的なる創造主」という観念が存在していない日本に、「絶対者としての創造主」と「創造主の元の平等」と説けば、神社・仏閣の破壊に象徴される、伝統的秩序の破壊と恐れられたのでしょう。
 つまり現代でも同様ですが、「自分たちの伝統的倫理観・秩序とは、全く異なる、あまりにも異質な思想」に対する嫌悪感。もしもキリスト教が日本人的な宗教観・倫理観・死生観・道徳観とさほど乖離がなければ、どれほど支配者が弾圧しようとも民衆は支持したでしょう。逆に言えばそれだけ支持を受ける思想は弾圧するよりも、秩序維持のために融和政策に転換するでしょう。そうではなく、禁教令に対して多くの民衆は受け入れた。解禁以後もキリスト教の拡大は進まなかった。
 結局、日本人の精神文化とキリスト教的世界観は相容れなかった、また、その溝を埋める機会がなかったのでしょう。
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この回答へのお礼

キリスト教は日本では今でも前途多難ですか…日本社会とキリスト教の違いは思った以上に複雑ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/29 14:45

 どうして誰も指摘しないのでしょうか。


 一度でもキリスト教会の礼拝に参加すれば、すぐに分ります。
 礼拝の途中で、帽子かザルか柄杓(のようなもの)が回ってきます。
 
 つまり、貧富にかかわらず、参列者には献金の義務があるのです。
 キリスト教では(ほとんどの教派が)その場で現金を要求します。
(仏教の葬式では、かならずしも香典を出さなくても参加できます)
 
 江戸時代の鎖国経済は、通貨や財産の流出を許さないのです。
 かりに当時の宣教師たちが布教に成功していたら、ローマ法王あてに
国家予算の数パーセントが(無条件に)送金されているはずです。
 
 わたしは無心論ですが、反キリスト論者ではないので、聖職者や牧師
や信者の恩師や友人がいます。現代日本の信教の自由とは、関税を負担
すれば、自由に海外送金(献金)できるということなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
金銭上の問題もあったのですね。

お礼日時:2005/06/29 14:44

将軍は民衆に対して絶対的な存在でなくてはなりません。

そのためには、将軍以外の『絶対的な存在』を排除しなくてはなりませんでした。

≪将軍のためにはできないことも、神のためならできる≫

では、国はひとつにまとまらずに、将軍に仕える者と神に仕える者に分かれてしまいます。
これでは、将軍は絶対!の世の中の秩序が乱れてしまうと思った幕府は、キリスト教を弾圧・禁止したのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
当時は幕府と将軍があったゆえに仕方ないとは思いますが、それでも信仰しようとした人たちはどのようにして秩序を整えようと思ったのでしょうか…

お礼日時:2005/06/29 00:31

こんにちわ。



「宗教が力を持つとどれだけ怖いか?」を知っていたからではないでしょうか。
一向宗の話が出てきましたが、まさに信長・秀吉・家康は一向宗に苦しめられましたからね。
ですから、最初は南蛮貿易との絡みもあって認めていたのでしょうが、だんだん一向宗ににたモノを感じるようになって禁止したのではないでしょうか。

あと、天皇との問題もあったのでしょうね。
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この回答へのお礼

当時の役人はキリスト教が力を持つことを恐れていたようですね。ありがとうございました。
でも隠れキリシタンや天草四郎氏はそのことを知っていたのでしょうか…

お礼日時:2005/06/29 00:09

いろんな人が答えているので、その補足ですが。



当時日本を訪れていた宣教師の一団は。
どうもかな~り過激な宗派だったようですね。

ご存知の通り、キリスト教には様々な「派」があります。
その中でも、当のヨーロッパなどでは過激さ故に辺境への宣教という名目で流された人たち。
それが日本に来てっていうパターンだったという説があります。

そのため、神の下では人間平等といった考え方も、当時のヨーロッパ社会ではキリスト教と王政が共存していたにも関わらず、日本ではその過激さ故に、性急に進められたといった面があったのでしょう。

また当時の日本のほかの宗教が、多神教が中心であったのに対し、一神教のため、原理的には対立するものであったという面もあるでしょう。
特に一神教が原理的になればなるほど(ここで過激な派だったという意味が強くなりますが)、他の宗教との摩擦も大きくなります。
さらに現政権との摩擦は言わずもがなでしょう。
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この回答へのお礼

今でも摩擦状態ですか…だとすれば当時では禁止も仕方ないようですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/29 00:00

他国を侵略するときに、先ず宗教、次に商人を派遣します。


そこで協力者をつくっておいて、軍隊を派遣します。

キリスト教は、アジアにあった宗教と違って、政治家よりも神を上位に置きます。
国王や大名の命令よりも、教団の命令を優先するようになります。
そこが、当時の政治家が嫌った所でしょう。

死ねば極楽に行けるということで、死を恐れず暴動を起こした浄土真宗の一向衆とも近いものがあります。

当時の日本は、平和な社会が熱望されていました。
国内に平和が訪れたとき、さらなる戦争の危険性を防ぎたかったのでしょう。

ちなみに、今でこそ宗教団体は平和を口にしますが、昔は武力を持つ国家を越える団体だったのです。
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この回答へのお礼

これらの事情があれば、キリスト教排斥から反乱・隠れキリシタンの出現までもが説明できそうですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/29 00:28

隠れてまで信仰しようとする人がいたキリスト教なのになんで弾圧したんでしょうね。


私はその鍵は、幕府がなぜ鎖国したのかにあると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
鎖国との関連性は分かりませんが、きっと秘密のベールにでも包まれているのでしょうね。

お礼日時:2005/06/29 00:24

キリスト教は「人は神の下に平等」ですが、江戸時代は、徳川家康が幕府安泰の為に自らを神とし、神君家康と呼ばれています。

そして、士農工商という身分制度もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
これだけ食い違いがあれば禁止・排除もやむなしみたいですね。

お礼日時:2005/06/28 23:58

こんばんは。



当時のキリスト教の布教活動は貿易と侵略に結びついていました。
(ポルトガルやスペインがそういう国だったわけです)

これを知った時の施政者が禁止しようとしたのは無理も無い話です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
某幼児・小学生向けのコンテンツで、西洋人はキリスト教を広めると称して国を侵略しようとしていたというのは聞いたことがありましたが、その後の鎖国はやりすぎだと思います…

お礼日時:2005/06/29 00:03

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