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江戸時代にキリスト教信者の数が急激に増加しましたよね。
この時代は、士農工商の身分制度により、身分に差をつけられ、慶安の御触書などで農民が厳 しく支配されていました。
彼らが、人は全て平等であるというキリスト教の教えに救われ、信者になったからだと考えられます。

質問なのですが、このとき増加した信者のうち、農民や町人などの身分別内訳はどうなっていたのでしょうか?
苦しんできた農民が多かったのでは、と予想したのですが、グラフや表など、何か数字で身分別内訳を表しているものをご存じでしたら教えていただきたいです。また、だいたいこのくらいの割合という風に教えてくださってもありがたいです。

急な質問で申し訳ありませんが、ぜひお力を貸してください。

A 回答 (5件)

江戸時代初期にキリシタンが増加したことは歴史書にも明確に書かれています。

(日本の歴史・中央公論版)
関が原合戦の慶長5年で30万人、大阪の陣の慶長15年で70万人です。質問者の言うように急激に増えています。秀吉はバテレン禁止令を出しましたが、家康は西洋との交易利益に着目して表立っては禁止していないのです。島原の乱(1637)になってからキリシタンを迫害し鎖国に至ったのです。
バテレン禁止と鎖国に至った原因の経済的一面としてオランダの台頭があります。オランダは東アジアでスペインとポルトガルとの競争に勝ったのです。幕府も鎖国することでオランダ貿易と明貿易を独占しようとしたのです。それまでは各大名が独自に西洋と貿易していたのです。伊達政宗のローマ使節団が有名です。
九州の大名がキリシタン大名になったころは領民はこぞってキリシタンになりました。しかし、支配階級の改宗により武士や商人は改宗しましたが、農民の改宗は上手く行かなかったのです。島原の乱では島原地区の農民の半数が死んでいます。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、ありがとうございます

参考にさせていただきます
ご丁寧にご説明していただき、本当にありがとうございました

お礼日時:2014/09/28 14:31

歴史の研究も年々進んで、定説が変化してきています。

そのうちの一説として回答します。

江戸時代にキリスト教が禁止になったのは、平等を唱える教義が封建制・幕藩体制に合わないからだとする説が一般的ですが、別の解釈があります。

現在のイスラム教との宗教戦争を見れば、ある程度の予想がつくと思いますが、一神教であるキリスト教は(ユダヤ教・イスラム教も)、他の宗教と共存できない宗教です。自分の信じる神だけが唯一絶対なのです。日本には山の神、川の神、海の神、井戸の神、大木の神…、八百万(やおよろず)の神が存在すると信じる伝統があります。神社ごとに様々な御神体が祀られています。そこにキリスト教の神がやってくる余地はあったはずなのですが…。現に仏教伝来の折は、古来の神道との融合がなされ、宗教戦争は起こりませんでした。

キリスト教側は、日本古来の宗教を破壊して、その上でキリスト教を広めるつもりで布教していたのです。各地でお寺を破壊するような蛮行にでたので、民衆はついていけなかったのです。貿易によって一儲けしようと思った、一部の大名がキリシタン大名として歴史に名を残していますが、それ以上に広がることはありませんでした。慈善事業に感銘して信じた訳ではありません。結局ザビエル以下の宣教師も次々と日本から撤退していったのです。地球儀やら鉄砲やらの文明の利器には関心を示し、自国で作り始めましたが、ついにキリスト教の教義を信じることはできなかっのです。

質問の前提として、士農工商の身分制度が書かれていますが、これも20年位前からも従来の説が否定されるようになりました。武士が頂点に立つところまでは正しいのですが、農工商は横一列だったとの味方がされています。もしこれが正しければ、公家、武士は別格としても、農工商の間は平等であり、キリスト教の平等精神を恐れることはなかったといえるのです。被差別民についても、欧米では奴隷は家畜と同様の扱いをしていて、キリスト教でもそれを容認していたのですが、日本ではそこまでの差別はしていません。この点でも日本は、もちろん完全ではありませんが、他国に比べたら平等が進んでいたのは確かなようです。

ちなみに「容認」は聖書にある教えではなく、聖書の解釈の埒外だと考えていたのです。つまり「白人同士は平等であるが、有色人種は白人よりも低位である」との考えで布教していたのです。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、ありがとうございます

参考にさせていただきます
ご丁寧にご説明していただき、本当にありがとうございました

お礼日時:2014/09/28 14:29

>急な質問で申し訳ありませんが、ぜひお力を貸してください。


真に失礼ですが、助力を必要とされておられる理由はどのようなことでしょうか。
もし、学校関係のレポートなどですと、多少説明が必要となります。

>江戸時代にキリスト教信者の数が急激に増加しましたよね
寡聞にしてこのようなことがあった史実は知りません。
キリスト教の信者が増えたには江戸時代の前の信長が存命であった時代です。
安土桃山時代、織豊時代などと呼ばれるおよそ1560年~1600年頃の時代です。
一般に江戸時代と呼ばれるのは1600年以降です。
1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出した以降は信徒の数は増えていません。

>彼らが、人は全て平等であるというキリスト教の教えに救われ、信者になったからだと考えられます。
キリスト教の教義に感化されて入信した人よりも南蛮貿易の利権獲得を目的とした人々が数多くいました。
特にキリシタン大名と呼ばれる人の多くが南蛮貿易目当てでした。
一般の人々は当初は仏教の一宗派程度の受け取り方でした。
天主教と呼ばれゼウスも大日と訳されました。
詳しくは下記のサイトをご覧下さい

日本キリスト教史 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日本キリスト教史

信者数や内訳をお知りになられたいようですが、非常に難しいかと思います。
江戸時代は戸籍制度が厳格に運用されていた時代です。
目的はキリスト教徒の摘発でした。
戸籍の管理はお寺がやっていました。
寺請状(てらうけじょう)、宗旨手形(しゅうしてがた)などと呼ばれるいわばお寺の保証書が無いと、住むことも職に就くこともできませんでした。
現在は本人であることを証明するために、免許証やパスポート、健康保険証、学生証などの提示を求められますが、これと同じ役割を果たしていました。
これを取得するためには宗門人別改帳と呼ばれるいわば戸籍登録をする必要がありました。
結果としまして、正式なキリスト教徒というものは存在しなくなってしまいました。
当然資料がありません。
それでもキリスト教を信じる人々は隠れキリシタンと呼ばれる形態を取りました。
いわば秘密結社でしたので、正確な資料は残されていません。
明治以降になって各教会が名乗り出てきた人を登録してあれば分かりますが、全ての教会が記録していた訳ではありませんでした。
更に、隠れキリシタンのままで、教会へ名乗りでることを拒否した人々もいました。
詳しくは下記のサイトをご覧下さい。

隠れキリシタン - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/隠れキリシタン

信仰の内容も、大量祈願、豊作祈願、病気平癒祈願、安産祈願、航海安全祈願、幼児の成長祈願、船・家・墓石・仏壇等の魂入れ、田・畑・山・沼等の悪霊払い等を含むもので現在のキリスト教とは程遠いものでした。

隠れキリシタンに日本人の宗教意識を見る - 出雲大社紫野教会
www.izumo-murasakino.jp/yomimono-025.html

以上がザットした状況ですので、再度補足で質問の趣旨を御説明願います。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、ありがとうございます

いろいろと誤解したまま理解していたことが多かったようです
学校のレポート目的と関係ではありません
ご丁寧にご説明していただき、本当にありがとうございました

お礼日時:2014/09/28 14:28

> 江戸時代にキリスト教信者の数が急激に増加しましたよね。



戦国末期から江戸初期に激減し、以後江戸時代を通じてキリスト教徒はほとんどいませんが。

キリスト教徒が増えるのは明治期に入ってからですが、明治末期でも信者数がカソリック・プロテスタント合わせて10万人位(0.2%位)ですね。この時期の信者は高学歴層が中心ですから、質問者氏の考えているののとはかなり隔たりがあるようです。

因みに現在では大体100万人位(1%位)ですから、現在の方が広まっているといえるでしょう。


また、士農工商の身分制度自体も既に回答があるようにそれほど厳格ではありません。
例えば坂本竜馬も3代遡れば武士ではありませんし、勝海舟などもそうです。新撰組・近藤勇などは農民ですし、江戸中期でも近松門左衛門は武士から町人になっています。
厳格なのは上級武士とそれ以外位ですが、例えば増山氏(三代家光時代に農民→藩主)のように、例外もいない訳ではありません。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、ありがとうございます

戦国末期から江戸初期に激減したとは知りませんでした
ご丁寧にご説明していただき、本当にありがとうございました

お礼日時:2014/09/28 14:26

質問に対する答えにはなっていないので申し訳ない


のですが、どうしても指摘しておきたい箇所が
ありましたので・・・。




"この時代は、士農工商の身分制度により"

誤解している人が多くてイヤになるのですが、
士農工商という身分制度は存在しませんでした。
これは中国の思想であって、制度ではありません。
この誤りが判明したのは1990年代からで
2000年代からの教科書では削除されています。


”慶安の御触書などで農民が厳 しく支配されていました”
    ↑
慶安の御触書については、実施されたのか疑問視
されています。
また、農民はそれほど厳しく支配されていた訳では
ないことが判明しています。
農民が厳しく、てのは、実証研究が進む前の都市伝説
の類いです。
マルクス史観にねじ曲げられていたのですね。
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この回答へのお礼

回答いただき、ありがとうございます

そうなんですね、わたしの知識不足でした
士農工商の身分制度がなかったとは驚きです
ご丁寧にご説明していただき、本当にありがとうございました

お礼日時:2014/09/28 14:24

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