限定しりとり

明治維新、太政官布告後、日本の様々な文化が欧米化したようですが、なぜ英会話やキリスト教は広まらなかったのか教えてください。秀吉時代のバテレン追放令の倫理観が継承されていたんでしょうか?その割に、廃仏毀釈や食肉文化が一般的になったりと辻褄が合わずよく分かりません。なんでキリスト教じゃなく国家神道だったんでしょう。

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A 回答 (8件)

標準語の策定中なのに、英会話など眼中に無かったでしょう。


標準語の概ね型枠は決まりましたがそれが普及し始めたのは、
ラジオ放送が始まった大正時代になってからです。

フランシスコ・ザビエルが布教の為に、薩摩に上陸しましたら、
農民達が次から次えと訪れ質問攻めに遭いました、次の周防でも
同様でした、その中で、いくつか農民達を納得させる答えが出来ない
物が有りました。
全知全能の神が悪魔なって者を何故造ったのか?
キリスト教に改宗しない者は地獄に落ちて、そこから抜け出せない
のなら俺たちの先祖は地獄に落ちたままなのか?それでは、情けも、
慈悲の心が無いではないか?
天皇に拝謁出来ない事もあり、仕切り直しで、マラッカに戻りました。
この事は、バチカンに出した、聖フランシスコ・ザビエル全書簡として、
現在も保存されている書籍に記載されてます。
一神教は大和民族には、馴染めないのですね。

廃仏毀釈は憲法にて、天皇を現人神としたので、神格化を強化する為に
興した宗教弾圧です。
八百万の神々を信仰する大和民族は、お釈迦様を八百万の神々として
取り込み、神仏融合として、神社の境内に、寺院を建てていました。

秀吉時代のバテレン追放令は歴史の教科書を読み返られたし。
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あまり知られていませんがw 明治政府はキリスト教を『禁止』していました。

明治の時代になったからと、教会作ろうとか、ウチの家キリスト教やってんとか言ったら捕まっていたのです。
なので明治政府はキリスト教を禁止する高札(立て札)を立てました。キリスト教は禁止やで、勘違いすんな、ってことです。
明治6年に、その高札を撤去する布告をしました。一般的にはこれをもってキリスト教解禁と言われています(実質的にもそうです)が、キリスト教禁止自体は変わらず、ずっと禁止だったりしました。なので昭和になって戦争に負けて、日本国憲法が発せられるまで、キリスト教は禁止だったのです。

あとキリスト教が広まらなかった理由(今もそれほど広まっていない)は、環境でしょう。日本に暮らしていれば(昔は)毎日寺の鐘が鳴り、祭りは神社(昔は寺も神社も同じ)だしで、多くの神様仏様に接する機会がたくさんある環境で育ってきているので、そこで一神教などが来ても周りの人がたくさんの神様を信じているので、一神教どうなん?って思ってしまうのではないでしょうかw
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>明治維新、太政官布告後、日本の様々な文化が欧米化したようですが、なぜ英会話やキリスト教は広まらなかったのか教えてください。



前例があったことと、西洋諸国は日本を占領できなかったこと、当時の日本がすでにかなりの教育の浸透した国だったことです。

 日本の「文明開化」は2度あります。一度目は大化の改新で中華文明を採り入れて改新したこと、2度めが明治維新です。

大化の改新で行われたのは「律令制・儒教の受容と制度改革」で、それまでの王(天皇)と豪族による緩いヤマト王権から、中央集権構造の「日本」に改新しました。

しかし、この時律令も儒教も完全には受け入れておらず《豪族=貴族の身分を壊しかねない科挙は採り入れない・宦官などの日本の実情に合わない制度は採り入れない》という取捨選択が働いていたのです。

明治維新も同じで「文明として必要なものと、必要ないものは分けて受容する」ことをしたわけで、それは前例に学んだことと、他国のように植民地化されていなかったことが大きく影響しています。


>秀吉時代のバテレン追放令の倫理観が継承されていたんでしょうか?

はい、継承されていた部分はあると思います。実際今でも「明治政府はキリシタン禁教令を解除していない」という説があります。

実は明治政府は「伴天連追放令は継続する」として、各地の切支丹は抑圧を続けていました。しかし同時に「開国」とはキリスト教徒が日本に入ることを許すことですから「五榜の掲示の撤去」もしました。

これは世界各国(つまりキリスト教国家)が「日本がキリスト教を解禁した」と伝えたのですが、明治政府の見解としては「高札を廃止しただけ(つまり高札に書かれたロール自体は継続」ということだったらしいのです。

詳細はこちら(2P以降に説明があります)
https://gendai.media/articles/-/56354?imp=0


>その割に、廃仏毀釈や食肉文化が一般的になったりと辻褄が合わずよく分かりません。なんでキリスト教じゃなく国家神道だったんでしょう。

明治政府が目標としたことは「文明開化」と「富国強兵」です。
文明開化は西洋の法律や制度を採り入れて、日本を近代化することで、これは最初に書いたように「大化の改新に習って、入れるものは採用し、不要なものは採用しない」という方針であったといえます。

文明開化については、近代的な学校制度を採り入れ、軍隊を西洋化し、福沢諭吉などが西洋言語を日本語(漢字語)化して普及させました。

江戸時代には、日本各地に寺子屋があり、文字の普及率は世界的に見て高い国でしたので、近代学校制度はかなりうまく機能したのです。これにより「西洋言語を普及させる必要性」は無かったわけです。

廃仏毀釈や上記に書く「キリスト教禁止の継続」は「富国強兵のために日本人を国民にすること」が関係しています。

富国するためには資本主義社会にする必要がありました。王族や貴族が富を握っている社会では、個人の資本を流動させることはできないからで、四民平等政策を取ったのはそのためです。

ただ、西洋国家の「市民平等」はキリスト教的な啓蒙主義、つまり「どんな身分だろうと、神と契約した個人はお互いに差はない(つまり平等)」という哲学から生まれています。

しかし日本でキリスト教を布教させるわけにはいかないし、また布教しても「神の前ではみな平等」という概念を浸透させるには時間がかかりすぎます。

なので日本は日本的に「神の前ではみな平等」というやり方を選びました「神」とは《現人神=天皇》です。つまり「日本人は階級差があっても、貧富の差があっても、みな等しく天子の御子」というやり方です。

元々、日本には厳密な階級差は無かった(ヤマト王権の時代から差は非常に少なかった)ので、割とすんなり浸透し《市民平等で自由資本主義》がスタートしていきます。

ただ、これを全国に浸透させるには、幕藩体制時代の仏教寺院の権威が邪魔になるので、それを壊していきました。これが廃仏毀釈なのですが「やりすぎ」だと思ったのか、早めに収束しています。
 
また肉食に関しては「仏教の倫理」なので、神道には関係ありません。日本各地で食肉が流行ったのも「仏教を押さえて、神道が有利になる社会」を知らしめる効果があったのかもしれません。

以上のように「日本で英語化(西洋言語化)しなかったこととキリスト教化しなかったこと」には日本の歴史にいくつかの偶然と必然があったことです。

なによりもまず重要だったのは「日本が西洋列強に植民地化されなかったこと」そして、中国の洋務運動と日本の文明開化を比べると「日本は中国よりも近代化する土台ができていた」こと、さらに中国などのアジア各国に比べて「キリスト教を使わなくても、市民平等を達成するメカニズムがあったこと」です。
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この回答へのお礼

すごい勉強になります。ありがとうございます。

お礼日時:2024/08/04 11:11

昨年亡くなった大阪生まれの母の思い出話ですが、


遠い親戚のいる鹿児島に出かけたとき、言葉が通じなかったとか、
太平洋戦争の末期、造船所の近くに大きな家に住んでいた関係で、造船所の作業にきた東北の人たちに部屋を貸していたけど言葉の微妙なニュアンスが通じにくかったって笑ってました。
 昭和の初めでもそんな状態だから、明治維新の頃の日本政府が、標準語の難しい文語体で布告を出しても、北は東北や北海道、南は鹿児島、日本列島の真ん中辺りの大阪でも庶民には理解できなかったんじゃないですか。
 一つの言葉で国を治めるために、先の回答者さんが仰るとおり、標準語を広めるのが最優先だったんだと思います。

 キリスト教について言うと、明治維新後の日本政府は天皇家を軸にした政府ですね。天皇家の権威を支えていたのが神話に繋がるほどの長い皇統です。
 いっぽう、キリスト教は、キリスト教の神だけが正しいと考える宗教ですから、天皇家の権威を犯す教えを持ってます。
 また、日本政府の政治家や知識人たちは、アヘン戦争など列強の強引な海外進出を知っていて、キリスト教がその強引な侵略の手先になっていることも知っていた。
 だから、明治政府にとって宗教の自由は守るけど、キリスト教の拡大には消極的だったという側面もあると思います。
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明治政府は、衣食住のすべてについて、欧米化を進める必要を感じていました。


ひとつには、幕末に徳川幕府が結んだ不平等条約を、日本が近代国家であることを示して是正すること。
もうひとつは、欧米列強に植民地化されないための富国強兵を、欧米が持つ工業技術と経済システムなどを迅速に導入するためです。

そのためには、ふたつの方法があったでしょう。
ひとつには、ご質問者が考えたように、国民全体に英語とキリスト教を広めることで、欧米の先進技術と文化を浸透させていく方向。
もうひとつは、明治政府がやったように、一部の優秀な人材に英語などの外国語を学ばせ、その国の技術と文化の知識を日本語に翻訳し、それを国民全体に浸透させていく方法です。

明治政府は、後者のふたつ目の方が現実的でおカネもかからず、キリスト教を国民全体に浸透させる手間も必要ないと判断したのでしょう。
もちろん、英語教育は重要事項だったでしょうが、まずは読み書き中心の英語教育中心という判断だったのでしょう。なにせ、英会話教育は必要な数の教師を育成することが非常に難しかったので、後回しにせざるを得なかったのでしょう。
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学校では教えませんけれど、秀吉が何故バテレン追放令を出したのかご存知でしょうか?


日本史は世界史と並べて判断しないといけません。

秀吉が天下を取ったあの時代は、当時スペイン、ポルトガルが無敵艦隊と言われる兵力をもとに世界中に植民地を増やしていた時代でした。
彼らの手口は、先ず宣教師を布教のためと称して送り込み、現地の民衆を洗脳し、いざ艦隊が征服に訪れる時にキリスト教徒の集団が神のご意志との号令で国内で内乱を起こし、その混乱に乗じてその国を占領するという手口だったんです。
それを秀吉はキリスト教内での対立する宗派の例えばオランダ人から聞かされた。
そこで禁止令を出すと共に明国を征服しようとした。もし、スペインが先に明国を占領したら、スペインは自国の兵を出さずに明国、朝鮮の兵を日本と戦わせて、双方疲弊したところで中国、朝鮮、日本を丸ごと手に入れる事になります。だから、先に明国を取ろうと秀吉は迅速に対処した訳です。でも、その途中でスペインはイギリスの艦隊に負けてその目論見は実現しませんでした。だから、その後清国はアヘン戦争でイギリスに負けた。つまりスペインの目論見はイギリスに引き継がれた訳です。
そして、次にイギリスが日本に仕掛けたのが明治維新です。イギリスは、長州、薩摩に内乱を起こさせた。そこで幕府軍と戦わせて疲弊したところをイギリスが占領すると作戦でした。ところが、ご存知の通り江戸城無血開城です。イギリスの計算は狂った。そこで、次は日本を欧米化させる事で日本を隷属させる作戦に切り替えた。そこで、イギリスは日本からたくさんの富を得た訳です。特に日本で栽培された良質のアヘンは、イギリスの世界征服に大いに役立ちました。
現在は、日本はアメリカに隷属して金ヅルとして大いに役立っています。(笑)
日本人は教育水準が高いから、英語なんて自由に話されたら世界経済は日本に牛耳られてしまうじゃないですか。だから、戦後、当初は日本の標準語をフィリピンなどの様に英語にしようと計画されましたが、日本人が世界で勢力を伸ばす事を恐れて日本の英語教育は英語が話せない文法中心の教育方法が取られました。つまり、明治維新以降、日本は欧米より優位に立てない様に、常に隷属させておける様に操作されて来たのです。それを、日本の威信を取り戻すべく、唯一何とかしようとされていたのが安倍総理でした。だから、暗殺されたのかもしれませんね。
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言語については、外国語より何より、まず日本語を全国共通化する必要があったからでしょう。


中央集権体制で富国強兵・殖産興業政策を進めるには、江戸時代のまま地域や身分職業によって言葉が違うのは大きな支障になります。
お雇い外国人や商人は英米仏独など各国から入ってきていたとしても、居留地に押し込めておけば一般庶民とはほとんど接点もなく、外国語を全国民に広める必要はなかったわけで。

宗教は、天皇を奉じて政権を奪い取った薩長勢力が、天孫降臨以来の神話の世界を精神の柱にしたかったのでしょう(憶測)。
天皇家も元々は仏教を信仰・擁護していたはずですが、薩長政府が取り上げてしまった形です。
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ごく一部の裕福層を覗く一般人はその日の生活で精一杯だったからです。

当時は一般人が英会話を覚えてもそれが仕事に役に立つ訳でもなく、そんな余裕はなかったと思います。
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