プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

思いついたので連荘します。

「わかる」とは、「分かる」「判る」「解る」などの漢字が当てられますが、意味の違いは大体わかりますね。

私の疑問は、言葉にすると「納得する」とか「腑に落ちる」、その状態になったときに手を打ったり、おでこを叩いたり、目がキラキラしたりする状態になるような分かり方のことです。

そのような状態に、あなたはどうやって至りましたか?何が決め手になったと思いますか?

前にも同じ質問したかも(^_^;)

質問者からの補足コメント

  • つまり、十界論とは、十種の心の「状態」をすべての人が持っていて、何らかの縁によってその人の心を支配するものであるという原理のことであります。

    この「状態」と言えるものが、一体どういう「実在」なのか?これが難しいです。

    No.31の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/04 22:47

A 回答 (45件中1~10件)

私はまだ一歩も進めていない、そう思っています。

道に対して後ろに向いていたのが前を向いた様になれた、それだけで私自身大きく変化したと思います。私の事に関しては、ニャンポコさんの励ましは本当にその通りで、よく汲んでくださっているなと思います。ありがとうございます。

また、私に実際にお会いしたいと思ってくださったなら、いつでも、noteの方にコメントください。プロフィールのものはGOOのルールに抵触するので削除いたします。会って話せばまた異なる感覚で、より素に近い状態でお話しできると思います。文字で会話するのとはずいぶん違うでしょう。

詩や小説の方に関しましては、お読みいただけたら嬉しいです。
では。
今回のご質問も、大変有益な会話をしていただきありがとうございました。
ニャンポコさんの様に、常に静かな一線を保てるように、私も成りたいと思います。
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この回答へのお礼

少し先のことになるかも知れませんが、大変に楽しみなことです。

お礼日時:2022/11/17 23:48

文明が急進するにしたがって戦争の規模も大きくなり、次の世界大戦も起こるかどうか分かりませんが、起これば悲惨なことになる。

仏教の教えも、アジアの不思議な教えとして、いわばマニアックなものか習俗化したものか、あるいは歴史としてしか世間一般には捉えられていないかも知れません。

>私だって末法の衆生で、若いときはまあ、勝手な未熟すぎる人間でした。今は少しはマシになったという程度で、とてもじゃないけれど自力で仏を覚知する智慧なんかありようがないと思っています、正直。

私も世間的には悲しいほどにへぼへぼです。
只の衆生に智慧はございません。しかしながら、無い故に生じるのです。
無いと言う事がどれ程素晴らしいかと言うと、労せずして最高の解答(対応)を、最良のタイミングで導き出すことが出来る程です。これを対機の法と言うのだと思いますが、この対機の法を自身に備えていること、これがおそらく覚りです。達人は、後の先を取ると言いますが、そういう事です。
相手にしたら全て見透かされているように感じるけれど、それは彼が無住であり、そこでこころを働かせているからです。

今、智慧が無いことは、覚りの前提があると言う事です。
そして智慧があろうがなかろうが、私はそれを為すと言う事が、決心ある人の態度であると思います。

仏菩薩が立派なのは見たり聞いたりすればわかる事です。しかし自分がそれをしようと思った時に、はじめの一歩はどうなるのか?
その一歩を発心と言うのでしょう。
下手糞で当然。しかしその一歩は決して軽蔑されてはならない。してはならない。
私はそう思います。
はじめの一歩が無ければ道の終わりには到達しないのだから。
その一歩は、真似事ではいけない。
自分自身の、こころからの一歩であるべきでしょう。
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この回答へのお礼

ふむう…

小鉄さんや皆さんと話したいことがたくさんあります。この「わかる」という問題に関してはひとまずここいらで。
別のルートから入って、さらに奥までゆくなんてことはよくあることなので、また、問題提起したいと思います。

私も、20~30年前は社会的にポンコツでした。今はなんとか並にはなれたかなという感じです。
仰る通り、その頃の私は、誇りはあるものの自信がないという状態で、自分を過小評価していました。しかし、曲がりなりにも社会で独り立ちして、社会問題に積極的に関わろうとしてゆくうちに、自信が出てきましたね。

それは、人を馬鹿と思うから出てくる自信とか、社会で認められるから出てくる自信ではなくて、自分にはこういう長所があるということを認めることができた自信だと思っています。

小鉄さんこそ過小評価されているのではないかと感じています。また言いますが小鉄さんは頭がいいと思います。その才能と、現実社会との間に心理的な夾雑物があるんだと思います。私がそうでしたし。

ああ、それから、詩とか小説なんかを書く才能は私にはないので、羨ましいなと思います。ゆっくり読んでみますね。

お礼日時:2022/11/15 22:22

言葉とその対象のイメージとを紐付けする事で人は理解します。


例えば
リンゴという言葉とリンゴと呼ばれ果物とを紐付けする事で理解するという事です。これは言葉が先で対象のイメージが後だけではなくてイメージが先で言葉が後でも同じです。 
よって理解を突き詰めると「繋げる」ということになります  
要するに紐付ける=繋げる事が理解するということです
これは言葉だけでなく文章においても変わりません。つまり言葉で書かれている文章を言葉を用いない絵や音や匂いや味といったイメージと紐付ける事が理解するという事です  
ここで重要なのは思考パターン
言葉で思考する言語思考の他に 
絵で思考する
音で思考する 
味で思考する
匂いで思考する
等の思考パターンがあります 
つまり言語思考の他にそれらの思考パターンをしてかつそれを言語思考と紐付ける事によって理解するという事です 
よって理解する上で重要なのは常日頃から言語思考以外の言葉を用いない思考をしてそれを言語思考と紐付けるという作業をすることです
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この回答へのお礼

「紐づける」と言葉で言えば分かり易い気がしますが、そういう事を脳内で無意識的に行っている、ということで一般的には理解されているのでしょうが、天邪鬼である私には、「紐づける」ということで処理することが曖昧に思えるんです。

ベルクソンが「物質と記憶」の中で、ややこしいことを言っていて、大変興味をそそられています。追々、勉強しようと思っています。

お礼日時:2022/11/15 21:54

お返事ありがとうございます。


行学のお話し、なるほど、それはその通りだと思いました。むしろその考えは実践的です。

ここで一つ、詩的なことを申し上げたいと思います。
「我々は、一滴の海。この身一つで道を歩むわけですが、その本性は無数の仏のそれと何ら変わるところがございません。学んで仏になるのではなく、行じて仏になるのでもなく、そもそもが仏の本性を備えているが故に仏になるのでございます。」

決心によって頑なになると言うのでは、それはやはり誤ったことであるでしょう。しかし決意失くして放逸を正すことは難しい。
素直であって、道に随い、しかも、時に適って誓願を立てる決心に辿り着いたなら、道は完成する。

>私は凡夫ですから、・・・

そんなことはございません。ニャンポコさんは仏子でしょう。
出来ると信じなければならないし、私も自分を信じたいと思います。
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この回答へのお礼

以前申し上げましたが、病気や早死になんかはありますが、物凄い身体を持っているということは、我々の生命が「仏」の力で成り立っていることの証拠だと考えます。

ですから、誰でも仏を覚知する可能性は持っていると言えます。

しかし、釈尊は大集経の中で、五の五百歳ということを説いていて、その五番目を闘諍堅固と言い、「闘諍言訟・白法穏没」であるとしています。
即ち、争い事が絶えず、釈尊の仏法が力を失ってしまうということです。その時を「末法」と言い、貪瞋痴の三毒が充満した時代であるとしています。

時代を見ても正にその通りではないですか?私だって末法の衆生で、若いときはまあ、勝手な未熟すぎる人間でした。今は少しはマシになったという程度で、とてもじゃないけれど自力で仏を覚知する智慧なんかありようがないと思っています、正直。

お礼日時:2022/11/13 21:49

>法華経の「文底」ということをご存じなのですね?



いえ、文底と言う言葉は初めて聞きました。文底と言う言葉を検索してみましたが、寿量品の文底ということのようです。
しかしながら、寿量品には顕著ですが、それに限らずとも、法華経で説かれている功徳の源と言うのは、法華経に書き切れないものであると言うのはそのままの意味です。いえ、功徳というものを語るなら、その源は筆舌には尽くせぬところなのであり、それゆえに無住心だとか、素直な心とか、言われることになるのだと思います。

ニャンポコさんもそうだと思いますが、もうここからは、知識の領域ではないと言う事です。”頭で分かっている”だけのことは役には立たない。やる(乗る=行ずる)しかないと言う事でしょう。

>そして、禅宗では、四乗という考え方を否定していて、小鉄さんはその考え方を是としているということですね?

そうですね。慧能の見解には同じです。
人はそれぞれにこころに”眠れる仏”を宿しています。それを見るなら、無瞋恚になれる。私はそれを目指しています。

>禅宗では「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」が教えの根本とされているようですが、それらを是としているということですね?

そう言うわけではありません。教えの全貌、道の全貌とは、地上地下の大小様々の河川を海が統一しているようなものであると私は考えています。海だけを示すことが、真実の教えなのではなく、すべての水の循環のシステムの基幹としての海の存在を示してこそ、真実の教えだと私は考えます。道の入り口は、人の数だけ、状況の数だけあります。歩みも同じく。辿り着くのもまた、広大な、無尽蔵の智慧の在り処であるということです。

画家の数だけ素晴らしい絵と個性があります。それに応じて絵を描く道具や技法もさまざまに開発されるでしょう。
教えも同じです。何が正しいと論争すること自体が、藪蛇と言えるでしょう。素晴らしい絵(=素晴らしい人生)がそこにあるなら、それは正解だったと言う事です。
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この回答へのお礼

そうです、寿量品の文底に秘沈された法が「南無妙法蓮華経」だということです、結論を言えば。

行動することが重要で、考えることが二の次であるというのが世間一般の考え方であると思います。小鉄さんの言っていることはそうではないと思いますが、日蓮は「行学の二道を励み候」と言っていて、行と学を両輪とする考え方を持っています。

全くその通りだと思います。とにかく行動だ、実績だ、という方針は必ず惰性に陥りいつしか成果主義のような手段と目的を入れ替えてしまうことになることがままあると思います。
常に学ぶということは、何のためかと言えば、知識・知恵の習得もさることながら、「確信を得る」ということに最大の目的があると考えています。

信仰ということだけでなく、何にしても、確信を得たときの行動というものは、何十倍、何百倍、命がけの行動というものが可能になってくると思うからです。

しかし、この「確信」というものは主観的なものであるゆえにやはり、数値化はできそうにないですね。けれど、確信が深まれば深まるほどに、何がどうあっても動かないものになると思います。反論されて怒るようではまだまだで、たとえ殺されようとしても動かないものが本当の確信で、それが「わかる」ということの究極で、その究極が「涅槃」なのではないかと思います。

河と海の比喩を借りて、私なりに考えを述べますと、海に行くはずだと考えていたものが湖に流れ着くこともあるでしょうし、途中で枯れてしまう河もあるでしょうし、汚染されてしまう河もあるでしょうし、まして気象が(思想が)異常である現在においては、無事に海にたどり着くことは難しいと言えるでしょう。

一人で開拓するということが男冥利に尽きる道であるとは思いますが、私は凡夫ですから、それは無理だと思っています。

お礼日時:2022/11/13 14:23

そう仰っていただけて、心が澄む思いがいたします。



>結論から申し上げれば、私にとっての一仏乗は法華経ではなく、南無妙法蓮華経です。

わかりました。法華経に記載されていることは、法華経には記載しきれないことです(事実、法華経は大乗です)。その記載しきれないことも含めての南無妙法蓮華経と言うお題目と言う事なのだと私は思いました。

四つの乗り物について:
教えには四つの乗り物があり、小さな乗り物を求める者、中くらいの乗り物を求める者、大きな乗り物を求める者、最上の乗り物を求める者、とがいて、このうち最高の乗り物について慧能に尋ねた修行者がおりました。
彼が慧能から得た答えは、「乗ると言う事は行ずると言う事。自分で考えなさい。私が教えることはない。」
というものです。小~大の教えは即ち二種の聖者と菩薩の事です。教えを聞く者、教えを説く者(解説できる人)、教えの体現者(菩薩)となるでしょう。
そして、最高の乗り物とは仏の乗り物と言う事になる。すなわち仏行です。
前者三者と、後者一者の決定的な違いは、既に存在する教えに依っているのが前者三者であり、後者一者は、むしろ教えの源であると言う事です。

今手元に六祖壇経が無いので、https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rokusodannky … から拝借しました。以下です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また智常という僧がいた。師に礼拝して、四乗の意味を尋ねて言った。
「和尚に申し上げます。仏は三乗の教えをお説きになり、
また最上乗をお説きになっています。私にはわかりません、どうか教えてください。」

 師は言った。
「君は自分の心に向かって直視しなさい。外がわの教義などにとらわれてはならぬ。
四乗の教えなどはなく、人の心のほうに四等の別があるだけだ。
見たり聞いたり、経典を読誦したりするのは、小乗である。
教えを悟り、教義がわかるのは、中乗である。
教えに従って実践するのは、大乗である。
あらゆる教えにみな精通し、一切の修行が完全にそなわり、何物にもとらわれず、もろもろの教えの型をもぬけ出て、何物をも得たということがなくなったのを、最上乗という。乗とは実行するという意味であって、論争することには関わりはない。君は自分で修行せねばならぬ。私に聞いてはならぬ。
いついかなる時にも、自性はあるがままの真実であること、これが四乗の意味である。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本来乗り物に別はございません。ただ一つの乗り物があるだけです。


>もう一つは、自分の考えを検証できるということだと思います。だから、全くの平行線であっても、意義がある場合があるし、逆に間違いを生んでしまう場合もある。

お互いに道を志す者同士が話した場合は、誤解さえも後の功徳に結び付くと聴きます。事実、私とニャンポコさんの話はそうなっていると思います。話している途中では心配もありますが、ニャンポコさんとなら大丈夫だと思います。私たちの歩みの交わるところに会話が生まれます。話が平行線になったとしても、それはそれで良いのでしょう。

さて、ニャンポコさん。もしニャンポコさんがよろしければ、私のプロフィールに、noteのアドレスを貼り付けておきますので、そのnoteの記事、詩を書いていますが、そこにコメントでも残してください。note上でお返事することが出来ます。

私とお話しいただきありがとうございます。
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この回答へのお礼

>法華経に記載されていることは、法華経には記載しきれないことです

法華経の「文底」ということをご存じなのですね?

「四乗」という考え方は、中国の学僧である法雲が「法華経義記」と説いているものということですが、この法雲という人はいわゆる「南三北七」という派の人だと思うのですが、そうであるなら天台とは考え方を異にしています。天台がこの「四乗」をどう位置付けているのか、ちょっとそこまでは分かりませんが(^_^;)

そして、禅宗では、四乗という考え方を否定していて、小鉄さんはその考え方を是としているということですね?

禅宗では「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」が教えの根本とされているようですが、それらを是としているということですね?

うむ、概ね分かってきました。

お礼日時:2022/11/12 23:04

この本心は空ではない。


本心をただひたすらに実行すること、人生を賭して。
その不動心が、真に到達するための礎となる。
真を発現して、その人の全ては完成し完遂される。
これは世間に現れ得る四つの徳を内包し、出世間に現れる二つの徳を完全に修める。

ニャンポコさんの人生において、ここで述べたことが具体的に何になるのかは私の知るところではないのですが、ニャンポコさんの決意が道に通じ、そこで為される決心が、ニャンポコさんを真へといざなうことを願っております。私もやります。
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この回答へのお礼

対話の意義って、一つは自分の考えを相手に伝えることで、それにより相手の考えが変わる場合がある。

もう一つは、自分の考えを検証できるということだと思います。だから、全くの平行線であっても、意義がある場合があるし、逆に間違いを生んでしまう場合もある。

お礼日時:2022/11/09 22:54

正しさの感覚にレベルがある。

なるほど。
確かにそうかもしれません。それならば私は、まだ歌も歌えないド素人のレベルだと言う事になるでしょう。これは謙遜ではなく、事実です。
今の私は、正しい道を歩いているかと言うと、ほとんど歩けておりません。
正しさの感覚は掴んでいるのですが、ほぼ止まっている状態です。
ただ、0地点には立っていると思います。なぜなら、
私はしあわせではないし、勇気もないし、明るい人柄でもないし、充足しても居ない。ニャンポコさんはそんなことないと仰ってくれるかもしれませんが、賢くも無いのです。
ただ、自己についてこのように正しく認識しているがゆえに、”間違ってはいない”のです。自己欺瞞で、自分はしあわせだとか、賢いだとか、偉いとか、思うことが無くなっている。
言うなれば、借金をすべて返済した、綺麗な状態と言う事になります。
文無し、力なしの無し無し尽くしですが、もう借金を背負う事もない、不退転と言う事になる。
後は、もう心配することは特にありません。縁に運ばれ縁を運び、然るべき出会いを果たして成道するだけです。

実は世の中の少なからずの人々と言うのは、+の資産を持っていながら、-の負債をも持っているものだと思います。一方で賢く、もう一方では愚かであると言う二面性を常に抱えており、一なる纏まりを欠いているのです。右向きにはこう言い、左向きには別のことを言う。一なる様相を欠いているので、その人生の方向は定まっておらず、結果、迷いの人生と言われることとなっています。良いこともあれば、悪い事もある、そういう人生です。

私は転じた。暗い夜(=自己の殻)から抜け出した。それは苦の終わりなのでしょう。ニャンポコさんの言うような、妙喜(大歓喜??)に至ったのではないのかもしれないですが。昨晩私は、一つの灯台になったような気がしました。また別の灯台を見つけては、交信するのだろうと思います。

今回の回答は、ニャンポコさんからすれば、ともすれば小乗的見解に聞こえるかもしれません。しかしながら、小乗には本質的に、縁や一乗は存在しません。自分一人で覚る道だからです。

大乗を標榜する法華経ではありますが、そこにははっきりと、仏の道は一仏乗(=一乗)であると書かれています。小乗でも、大乗でもなく、一乗であると言う事の意味を理解しなければ、交響曲を奏でる楽員の一人になることは出来ないでしょう。交響曲を喩えに取るなら、一乗とは、一つの楽曲と言う意味です。各楽員は、全員で一つの楽曲を演奏しているのです。そこに観客はおりません。何故なら観客と演者(指揮者も勿論)は一体だからです。
仏の立場に第二はなく、まして第三などあろうはずもない。ただ菩薩のみを教化して、声聞などいない、と。
故に一なる他の立場(ニャンポコさん風に言うなら、全員で、宇宙という一つの交響曲を演奏すると言う立場)、即ち一仏乗が説かれることになります。

出しゃばり気味に申し上げるわけではありませんが、この点は是非ともご理解いただけたらと思います。ニャンポコさんは、理解は鋭いが、その抱えておられるご自身の現状は、その鋭い理解よりも一歩退いた地点にいるように見受けられます。それはどういうことかと言うと、大乗に誇りを持つがゆえに、自己を過小に評価して退いてしまい、かえって一乗に至ることが出来ていないのではないか?と言う事です。

一乗に至ると言う事は、立場を超えた立場に至ると言う事です。年齢や、社会状況、或いは属する集団の事は超越すると言う事です。そこをして出世間と言われる理由が伝わるかと思います。それは現実離れすると言う意味ではなく、全ての現実に応じられると言う事です。むろん、世間一般で言う、名声や社会的地位、能力、富などは関係がありません。なので、人の身で決めると言う事が大事になって来る。仏菩薩など関係なく、まして声聞縁覚など出る幕も無く、この人の身において一大事決心を為すならば、すべて解決するでしょう。ニャンポコさんが決めたというのは、大事なことであるのです。


追伸:
意識して述べたことでは無いですが、西方の極楽浄土に対して、東方には妙喜国と言う仏国土があるそうです。(維摩経に出てきた記憶があります。)
話の流れ的に、縁があるかも知れないと思いました。
西方浄土が”楽”を強調しているのに対し、東方妙喜国は”静”を基調にしているような雰囲気ですね。少し調べてみると。今私は、妙喜国に着いたのかも知れません。

先ほどの言では、妙喜と大歓喜の区別がはっきりしていませんが、現在の心情を見るに、それは妙喜と言う方が良さそうです。
19歳の時の出来事には確かに大歓喜があった。
ですが現在地点において抱いている感覚は、妙喜と言う方が相応しいように思います。
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この回答へのお礼

それを0地点と仰ることから、小鉄さんの誇り高さとか人生観が見える気がします。

「飢えている」と誰かが言っていましたが、飢えていないと男はいい仕事はできません。私も飢えていますよ。
私も、自分は正しいと思うし、賢いとも偉いとも思わない。すべては「現当二世」、今以降にあります。

「一仏乗」とは、成仏するための教法。
「小乗」とは、声聞あるいは縁覚の、機根の整った衆生が成仏できる教法。
「大乗」とは、六道を含めた一切衆生を成仏させることのできる教法。

という風に理解しているので、このあたりのところは理解できません。言葉の定義がまるで違うようなので、根拠となる仏説などの説明を加えていただければありがたいです。

それから、結論から申し上げれば、私にとっての一仏乗は法華経ではなく、南無妙法蓮華経です。

お礼日時:2022/11/09 22:36

連投ゴメンナサイ


余談です
私は以前量子論を理解するために量子論で言っている事をイマジネーションする作業をしていました
それが「観測する前の不確定な状態」です
当然ですが観測する前の状態を観測することは出来ないのでその状態=情報を如何なる感覚器を通しても得る事は出来ません
ですから色々とイマジネーションしてみました。全くの想像ゆえにその状態=文言となかなかシンクロ出来なかったのですがある時偶然シンクロしその瞬間にその状態を理解しました。
この他にもそうして理解出来た事はいくつか有ります。
この事が示唆しているのは言葉だけでは理解出来ないと言うことです
私がニャンポコリさんに伝えたかったのはこの事です
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この回答へのお礼

仰ることよくわかります。

お礼日時:2022/11/08 23:06

生物は感覚器をを通してえた情報をもとに現状を把握して理解に繫げていく。


但しどのように把握して理解に繋げいくかについてはご指摘のとおり不明な点があるのは確かでそれはなぜかと言えば情報処理が人とは違うためです。そのため人の脳細胞ではそれを再現出来ないからです
それはそれとしてここで重要なのは多くの生物種で見られる感覚器を通してえた情報をもとに現状を把握して理解につなげていること。
人も同じです
それをふまえて
言葉は対象のラベリング。故に言葉は何かと紐付けされることで意味を持つのです。いいかえるならば言葉の意味を理解するという事は言葉がその対象と脳内で紐付けされかつそれが想起されるということです
いいかえるならば紐付けされていないが故に想起されない言葉は理解出来ないと言うことです
紐付けされていないがゆえに想起されない言葉を理解するならその理解出来ない言葉から何らかのイメージを想起できるようにイマジネーションする事です 
そうして何らかのイメージと言葉が紐付けされた瞬間に理解できるようになります
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この回答へのお礼

ふむふむ。

お礼日時:2022/11/08 23:06
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