1. カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。
▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~~~~~
( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。
(レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70
Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. この主題は じつはすでに問うたことがあります。
【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4958074.html?pg=3
したがって 賛成票を入れつつですが その後に展開される議論に 茶々を入れます。その派生する別様の見解を批判して問います。
3. まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。
▼ (K.レーヰット同上・承前) ~~~~~~~~~~~~
( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。
☆ (引用者註) すなわち 《私》が各自の実質的な固有名詞である。
( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(☆ ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。
( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。
☆ 「〈私〉なるもの」は すでに〈私〉〔の個別の個人としての実存〕
から離れた(?)
( e ) 或る者自身にとっては その呼び名(☆ =《誰の誰兵衛》)もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず(☆ 誰の誰兵衛ではなく)「私」(です)と答えてしまうという事情である。
( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名(☆ 《私》)で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名(☆ 誰の誰兵衛)では知られていない(フレムト)からである。
( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。
☆ 子どもが自分のことを指して 《誰兵衛》と言うのは 固有の名で
ある《私》がまだ確立されておらず 三人称の《誰兵衛》でみづから
を名乗っても 自己の同一性が侵されない。
( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえ(☆ 誰の誰兵衛)を使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。
☆ おのおのの名前である誰の誰兵衛は 自己にとって他者のようであ
る〔と感じる〕。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
4. ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての誰の誰兵衛または《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するようになるとき そのようなかたちでマジハリを持つ《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。(⇒6)
5. ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が それぞれ何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることが社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性そのものではなく その接点を成すような《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか?
これを問います。
6. 共同存在および中立についての説明は つぎです。
▼ (承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
( i ) 他者とのこのような(☆ それぞれ何の何べえという名で呼び合う)生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。
( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・
( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。
☆ ん? 《互いに社会共同の存在となること》と《それが中性化す
ること》とは 別ではないか?
《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の一部分
であって それは いわば他者との接点としての縁側のような側面
であるに過ぎないのではないか?
( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。
☆ 生は 《ダス レーベン》というように 中性の名詞だという。
( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7. 引用の途中( k )に差し挟んだ疑問(すなわち 5) について 問います。どうでしょう?
8. すなわち重ねて述べるなら:
▼ ( i ) ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった
☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。その根っ子は生きている。中立化された縁側としての生が薄くても・つまり そこにとにかく何がしかの者としてあるなら――社会にあって とにかく同じ空気を吸って人びとと共にあるなら――それは 《にんげん》の生である。のではないか?
9. すなわち たとえすでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。《わたし》という実質的な固有の名の成立において。
10. シーチンピンもプーチンも わたしたちと互いに共同相互存在なりや? 縁側――相互主観性 Intersubjektivität ――といった中立性を介してなら そうだというのではなく それぞれ存在じたいとして。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
共同相互存在はブーバーのいう我と汝の関係ですか? 私・他者・世界は、各々や互いに我と汝という実存関係であることが大切と言います。
その逆は固定的狭義的記号化され疎外されたそれとそれ、我とそれ、それと汝の関係かもです。実存・具象は可変的多義的記号群としての非記号のようなものかもです。5 発生のしかたは、我と汝の関係が先行するので、根源的です。社会的中立化はその後なので表層的(縁側)です。
社会にあって部分的に中立化・記号化しても、なおさら疎外に抗するためにますます我と汝であることは重要になります。
その理念や態度を持たず、全人的に中立化・記号化・疎外した状態になると我と汝の関係が成立しません。
ご回答をありがとうございます。
★ 共同相互存在はブーバーのいう我と汝の関係ですか?
☆ 我と汝 おもしろかったのですが(そして その初めのところで いろんな捉え方を考えて楽しんでいたのですが) 途中で放っておく結果になったままです。
★ 私・他者・世界は、各々や互いに我と汝という実存関係であることが大切と言います。
☆ 実存関係 たしかに。
★ その逆は固定的狭義的記号化され疎外されたそれとそれ、我とそれ、それと汝の関係かもです。
☆ 番号のみになると極端なのでしょうね。
★ 実存・具象は可変的多義的記号群としての非記号のようなものかもです。
☆ 《わたし》という・これもシルシが どちらかと言うと 誰の誰べえといった記号化した呼称よりも 実存に近い・・・かも。ですかね。
★ 5 発生のしかたは、我と汝の関係が先行するので、根源的です。社会的中立化はその後なので表層的(縁側)です。
☆ だと思います。
あとで考えたのですが レーヰットなんかに言わせると 縁側のごとき中立・中性の間主観性をその背後に控えるおのおの《わたし》が 統御する(したがって統御の競争になる)といった意味合いが あるんでしょうかね。??
★ 社会にあって部分的に中立化・記号化しても、なおさら疎外に抗するためにますます我と汝であることは重要になります。
☆ あっ。これですね。いま前項で触れたことは。
ただし そこから《統御競争》にすすむとなると こまったことにもなりかねない。
★ その理念や態度を持たず、全人的に中立化・記号化・疎外した状態になると我と汝の関係が成立しません。
☆ ううーん。組織の中の役職や地位――その権限関係――までの中立化・記号化にとどまるのがよい・・・でしょうか。
☆ いやぁ けっこう面倒なお話だったですね。(いえ 過去形ではなく)。
No.3
- 回答日時:
記号としての私(社会適応)と、実存としての我は、片方だけだと生きにくいので、競争関係というより相補的関係に近いかもですが、実存が根源的で重要なら、実存としての我が記号としての私を統御するべきかもです。
★ 記号としての私(社会適応)と、実存としての我は、片方だけだと生きにくいので、
☆ そうです。しかも 両者を――仮りに分けた場合ですが―― 並存するかのように扱のも おかしい。
やっぱり 実存のほうが 根源になるでしょうね。
★ 競争関係というより相補的関係に近いかもですが、
☆ 相補関係が もし並存ということなら どこか――実存から見て――さみしそう。
★ 実存が根源的で重要なら、実存としての我が記号としての私を統御するべきかもです。
☆ ひとまづ こうなるかとわたしは 思います。
そして そのあと 統御をめぐる競争が展開するかも知れない。
記号としての私は 相互主観性の場に出ているわたしであり 互いに自分がイニシアチヴを取ろうとはするでしょうね。
あっ。記号としてのわたしが わたしの縁側であったなら あんがい奥に控えるわたしは 余裕をもって相手とのやり取りに臨むことができるかも。・・・(いや 甘いかなぁ)。
No.1
- 回答日時:
人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、
すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つの コスモス(内的調和)哲学的にいうならば、意味連関の構造を成している。
ユングの「集合無意識」普遍的無意識はその一部分を証明しようとした理論です。
ご回答をありがとうございます。
★ 人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、
☆ ですが――そうなんですが と例によって 問い求めを長引かせますが―― そのように共同性を持ちつつさらには社会をつくる場合もあるとき それゆえに・むしろ 個々の存在は 他から自由に独立しているという場合はないですか?
独立しているからこそ 社会にあって共同性を互いに持つ――といったことが?
★ すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
☆ それはそうです。なぜなら 有限の寿命の相対的な存在でしかないものどうしが 互いに縁起共生することは 当然ですから。
★ すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
☆ しかし 独立した主体性に立つ個人であるからこそ 関係性を持ち 互いに助け合うということも起きる――ということかも。
★ 一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つの コスモス(内的調和)哲学的にいうならば、意味連関の構造を成している。
☆ 社会的な独立性だとすれば その個の尊厳のもとに コスモスを形成してゆくかたちを採りうる。
★ ユングの「集合無意識」普遍的無意識はその一部分を証明しようとした理論です。
☆ つまり 独立主体を想定した場合でも その個々の主観性が社会的共同のもとに或る種の連帯性を織り成していることは 可能――なのでは?
☆ この質問としては レーヰットの場合 社会的共同性が 相互のあいだの主観性として成り立つというときそれは 個人としての存在や人格の全体では必ずしもなくて その《中立的な中性の部分》で互いにつながっている――と言っているのだと思います。
あたかも《縁側》どうしで結ばれている――とレーヰットは言う。
質問者は いや そうではなかろう 人びとのつながりは 全存在・全人格的なものであるはずだ――と物言いをつけています。
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