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明智光秀の母は、八上城に人質となり磔にされましたが、波多野城主はすでに信長に平伏していたんですよね?信長はなぜわざわざ波多野城主を切り捨てて、光秀の母御前を見殺しに?
光秀を嫌っていたのですか?

A 回答 (4件)

既出の回答に有ります様に、江戸時代に多く生まれた創作話ですね。



丹波の国は国人の力が強く、守護は名前だけで不在状態でした。
丹波の攻略には光秀も難儀しました、攻略の糸口が見つかった処で
波多野氏の裏切りに遇い頓挫しました。
光秀は力攻めを止めて、領民の信頼を得るべく、河川の治水工事を
して、川の氾濫、洪水を防いで、実り有る土地に変えました。
領民の信頼を得て、八上城を落城させ、その後、丹波を攻略して、
丹波の領主になりました。

福知山市に在る御霊神社は、明智光秀に感謝して江戸時代に造られた神社
です、福知山市で明智光秀の事を悪く言っては、いけないのです。
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No1さんのおっしゃっているように、この話は総見記という江戸時代に入ってからの軍記物の本です。

いわば「真田十勇士」などと同様、読み物なのですよ。同時代に書かれて資料的価値がもっと高いといわれている「信長公記」にもそんな記述は全くありません。

それどころか「信長公記」では八上城の状態を「籠城の者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果無体に罷出候を悉く切捨」という状況になっていたとしています。こんな落城寸前の城にわざわざ人質を出す必要などないでしょう。

ですから「八上城に人質となり磔」ということを信じている歴史学者はいません。
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人質を出すほど、下手にでる必要がないと、信長は判断した。

光秀が信長の判断を読み違えた。って説あり。
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そのハナシが出てくるのは総見記という書物で、軍記物と見なされてます。

それを裏付ける他の資料はありません。
つまり、フィクションと思った方が良いと言うこということです。
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