初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

織田信長が佐久間信盛を追放したのは働きが悪いって理由みたいですが、信秀時代からの重臣だけあってそれなりに成果上げてますよね?
羽柴秀吉、明智光秀には見劣りするにしても追放するほどの理由でしょうか?
まあ追放されてまもなく本能寺の変が起きる訳だから、巻き込まれずに済みましたね。

A 回答 (5件)

それは、水野信元(家康の叔父)に【濡れ衣】を着せたからであり、追放ではまだ手緩過ぎてて【打ち首】となっても良いくらいです。

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この回答へのお礼

佐久間信盛に追放される理由があった訳ですね。
そうなると信長は家康を盟主として対等に扱っていたのですね。
この件が築山、信康切腹事件まで発展し本能寺の変の家康黒幕説の出自になるくらい両者の関係にひびが入る事になったんですよね。
確かに追放でなく切腹ものですね。

お礼日時:2023/07/15 20:03

佐久間信盛への信長の厳しい処分は、恐らく、徳川信康切腹問題と絡んでいると考えられます。


信康切腹に至る一連の事件の最初のきっかけは、水野信元が武田家の秋山信友と内通しているという佐久間信盛の報告を信長が信じて、水野信元の殺害を家康に命じ、家康が石川数正らに殺害実行を命じたことから始まっています。この結果、水野信元の領地は佐久間信盛の所領となります。この水野信元の誅殺に家康の生母である於大の方は激怒します。なぜなら、水野信元は於大の方の兄であったからです。
そもそも水野信元は、今川と織田が対立していた頃から親織田の国衆で、一時今川に降ったこともありましたが、基本的に織田についていました。織田と徳川の清洲同盟も水野信元の仲介で成立しています。しかも家康から見れば水野信元は伯父に当たるため、家康の相談役のような立場にありました。

その兄・水野信元の殺害を命じたのは信長ですが、於大の方としては信長を恨むわけにも行かないので、殺害実行役だった石川数正を最も恨んだようで、これが後の石川数正の豊臣への出奔に影響していると考えられます。更に、この石川数正が徳川信康の後見役だったことから、於大の方の怒りは信康にも向けられたようなのです。

その後、信康は信長の娘である正室の五徳姫との関係もギクシャクするようになっていきます。この頃に信康が鷹狩りの際に坊主を殺したりする乱行を行ったのは、祖母の於大の方と妻の五徳姫という身内の女性たちとの家族関係がおかしくなっていたことからストレスが溜まったためと考えられます。尚、信康と五徳姫とのあいだに男子が生まれないことから、信康の母、築山殿が側室を信康に勧め、この側室が元武田家臣の娘であったことから、武田との内通疑惑説もあります。こうした信康を巡る徳川家内の状況は、五徳姫を通じて信長の元に報告され、信長は家康の思うように事態を処理するよう命じ、家康は信康を切腹させます。

信長は五徳姫を通じて徳川家の内情を知っていたため、於大の方と石川数正及び信康との間にトラブルが起こったことも知っていたはずです。そして、徳川家中がギクシャクするようになった最初の原因は、水野信元の殺害であることを信長自身も意識したはずです。
しかも、水野信元が武田の秋山信友と内通しているという嫌疑は実は冤罪であったことが分かります。戦国の世であるため、不測の事態を避けるため、ろくに調査もせずに水野信元の処分を行ったことが裏目に出たのです。

信長は佐久間信盛の間違った報告をきっかけに徳川家中がぎくしゃくし、ついには徳川信康切腹事件を招いてしまったことを痛感し、大変後悔したはずです。そして、これが佐久間信盛に対する大きな怒りとなっていった考えられます。佐久間信盛への折檻状の中にも、「水野信元の死後、その領地を与えたのに家臣を増やさず、ただその領地を奪い取っただけである。これは言語道断」ということが書かれています。水野信元の殺害を命じたのはあくまで信長本人なので、こういう書き方で佐久間信盛の事件への責任を糾弾したと考えられるのです。

後に織田軍が武田領に侵攻し、水野信元と内通しているとされていた秋山信友の守る岩村城を攻めたとき、城兵の助命を条件に降伏させたにもかかわらず、城兵を皆殺しにした上、秋山信友は一族と共に岐阜に送って逆さ磔にして処刑する、非常に残虐な処分をしていることからも、信長の水野信元事件への怒りが窺われます。
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この回答へのお礼

築山、信康切腹事件は、信長の嫡男信忠より信康の将器が上回っていると見抜いた信長が後々織田家の脅威になる前に消しておこうと武田との内通を捏造し、それを理由に家康に処分を命じたと昔見聞きしましたが、最新の研究結果はかなり変わってるんですね。
佐久間信盛が冤罪で水野を死に追いやり、それが原因で徳川家中が空中分解してしまったなら信長の怒りが佐久間信盛に向いても自然ですね。
その結果追放処分としたが、織田家中では宿老でも用済みになれば切り捨てられると動揺が走ったでしょうし明智が本能寺の変に至るきっかけの一つになったかも知れませんね。

お礼日時:2023/07/15 19:49

前田利家のように、出戻りに成功した人もいます。


秀吉や光秀のように、中途採用組が増えたので、人材整理の一つでしょう。
定年退職に近い形。幹部枠に一つ空きを作って、秀吉たちを競わせるつもりだったのでしょう。
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この19ヶ条の折檻状、なんかすごい言いがかりなんですよねw 隠居させるためにワザと書いたというか、そんな雰囲気がする。


でも実際?には隠居した佐久間は家臣もほとんど居なくて、悠々自適とは言い難いようだし、これを彼が望んだとは考えにくい。

しかしこのことが明智光秀(本能寺の変)に影響を及ぼしただろうことは想像に難くなく、Wで謎というか納得できる説が出てくるとおもしろいのですが。
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結局は虫が好かんということだったのでしょう

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