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和歌といえば小倉百人一首が抜きん出て有名なのは何故でしょうか?
古典だの平安だののイメージ代表のように扱われがちですが、成立は鎌倉時代で、収録されているのは飛鳥時代からですし、史実上の事件等になぞらえて有名人の歌を並べる事に注視されているが故に和歌集として見たらかなり乱雑で偏りがあって、万葉や古今の趣を台無しにしてると言っても過言では無い。
業平の歌なんて本当にあれで良いのですか…??筒井筒や「身を知る雨」など、もっと定家の好みそうな歌があるはずなのに、なぜあんな竜田川の歌を取ってしまったのでしょうか。
鎌倉当時の斜陽貴族がかつての宮廷人の歌に触れて懐古するためのアンソロジーだとしても、それぞれの歌人の代表歌がどれもショボイのばかりで、これほどまでに百人一首が現代でも持ち上げられ続けているのが不思議で仕方ないです。
百人一首が嫌いです。

A 回答 (7件)

「小倉百人一首」は和歌集では無いですよ。


主に、古今和歌集、新古今和歌集、から藤原定家が100首選んだのです。
定家の弟子の源実朝の和歌が選ばれている様に、個人的趣向が色濃い
選定になってます。

抜きん出て有名なのは、庶民に広がり、歌留多取り大会が江戸時代に
盛んになったからです。

何れにしても800年以上の永きに読まれていますので秀歌なのは、
違いが無いのです。

この場は、討論する場ではないので、個人的な批評を書き込むのは
如何なものかと。
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wikiに次の解説があります。


室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。

一般に知られ、遊びに利用され、まとめて出版され、容易に入手できる歌集や歌が、他にはないでしょう。
そうであれば、群を抜いて名を知られているのは当然です。
現代でも、ネットや書籍が大量の歌をアクセス可能にしていても、百人一首以外をヒットさせることすら難しいです。 歌人の名で検索するとか、歌そのもので検索し探す人など、滅多にいないでしょう。
普及してない歌が広範に賞されるなどはおきないです。
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個々の歌の価値については、人によって様々でしょうが、基本的には勅撰の歌集に選ばれた歌ばかりですから秀歌が揃っていると観て宜しいでしょう。



小倉百人一首が抜きん出て有名なのは、それは歌道の第一人者と評される高名な藤原定家が選んだ百人一首だからです。

恐縮ですが、宮本純子さんが選んだ百人一首と、藤原定家が選んだ百人一首のどちらが多くの人に選ばれるか?
という話になれば、間違いなく藤原定家が選んだ百人一首を選ぶ人が圧倒的に多いでしょう。だから藤原定家が選んだ小倉百人一首が抜きん出て有名になったのです。
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現代の子どもたちもほぼ同様だと思いますが、私が小学生の頃、最初に出会った和歌と言えば「百人一首」でした。



昭和の時代ですから、高学年になり、正月に子どもっぽいかるたにいい加減飽きてくると、親から「百人一首」の話が上がったものです。
うちには「百人一首」のセットはありませんでしたが、すぐお隣さんが持っており、坊主めくりから親しみ始め、次第に読み札の和歌にも興味を持っていったと思います。

今の子なら競技かるたを描いて大ヒットした「ちはやふる」が一番取っ掛かりやすいでしょうね。
世界に誇るJapanese Anime&Mangaですから、外国人にも裾野が広がって興味を抱く人たちも結構増えています。なので、彼らにとっても初めての出会いとなるのは「百人一首」なのです。

しかしながら、私もあなたの意見に少なからず同意します。
もちろん、出来のいい和歌がない訳ではありませんが、在原業平などは私は以前「世の中に 絶えて桜…」の和歌が好きだと書きましたし、紀貫之や小野小町にしてもいい和歌が他にたくさんあります。

それについて、私の高校時代の百人一首読本の編集をされた宗政五十緒氏(龍谷大学名誉教授)が書かれていた文章に次のように載っていました。

「百人一首」は「名歌のアンソロジー」であることは確かだとしても、その端緒となっているのは定家が小倉山荘の襖の装飾に張り巡らした色紙に書いていたもので、当初定家自身は表に出すことを考えていなかったようです。
あくまでも個人に依頼されて、上代から中世の和歌を色紙にして作成したもの。
それらは各時代の代表的な和歌を収めたのではなく、あくまで晩年、定家好みの和歌ばかりを集めただけの歌集なのだ、と書かれています。

なので、定家晩年から没後も100年余りは殆んど人々には知られることがなく、室町時代中期からようやく人々に注目され始め、当時の連歌師で古典研究者であった宗祇が普及に預かり、広めていったものだと言うことでした。

彼は中身が代表的でなくとも、このまとめられた百首が歌道入門者にまず読まれる書として研究され享受されることで、最適な書となることを期待したため、それが脈々と受け継がれて、今日に至っているとのことでした。

ここにはっきりと「時代を代表する歌ではない」と書かれているのですから、その内容は個人の趣味の範囲であることは明白です。

定家が自分の好みだけで選んだ和歌が、現代に至るまでこれだけ大々的に表に出て愛唱されていることを、彼がどう思っているのか一度尋ねてみたいものです。
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定家が百人の歌人の歌から一首を選んだわりには、専門家によると優れた歌でないのもあるんだね、もっと他にも優れた歌があるはずなのに、それが謎みたいなんですね。

その歌を選ばなければならなかった定家の思惑があったんじゃないか?
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かるたになっていて知名度が絶大だからではないかと。

それに百人一首と言えば「坊主めくり」と言う形で和歌に関心がない人でも触れる機会があります。そもそも興味がある人でなければ歌の内容なんてどうでもいい(と言う以前に意味なんて分からない)と言う人が大半だと思います。
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個人的見解は相手にされへんで…

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