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村上龍、村上春樹の作品を読んだことがあって、嫌悪感を感じた、苦手意識感じたという方はいますか。また、その二人の作家に(苗字、世代、性別以外での)作風や世界観の「共通点」ってありますか。

私は40代女性です。子どもの頃から無類の読書好きで乱読でしたが、中学生の時に、あなたは国語の成績も非常に良く、小説も色々読んでいる様子だから、そろそろ大人向けのも読んではどうか?
たとえば村上春樹、村上龍は面白いし有名作家なので、ぜひ読んでみるといい、と教師に言われて手にしましたが、何か強烈なものすごい嫌悪感を抱いてしまい、とてもじゃないけど読めませんでした。

彼らの作品が好きな方には大変申し訳ありませんが、自分の当時の感触としてはとにかく下品、悪臭がする、生臭い、とにかく生理的に嫌悪感を猛烈に感じて気持ち悪い、脳が全力で拒否する、本を触るのもヤダ!という感じが強烈にあって、何だか全然、冷静に読めず、今まで読んでいた作品と何もかも違ってダメだ無理だ、となってしまったことをいまだによく覚えています。

完読できず途中で放り出した本、というのはそれまでに皆無で、いったん手にして読み始めたら最後まで必ず読むタイプだったので、自分でも何だか悔しくて何度か完読しようとチャレンジしましたが、すごい速さで物凄く、何かが臭い!きもちわるい!!と感じて非常にイヤになってしまい、無理でした。

それまでは子供向け児童書や、神話や民話、大人向けでも椎名誠みたいな娯楽的で柔らかいエッセイみたいなもの、星新一の短編みたいにシンプルで読み切りやすいもの、を読むことが多かったので、大人向けの凝った文体や書き方がまだ子供の自分には時期尚早だったのかもしれないんですが、芥川龍之介や夏目漱石はボチボチ読み始めていて、宮沢賢治の全集などは、やや難解なタッチの詩集も好きで熱心に愛読していました。

長編系では、井上ひさしの「四千万歩の男」とか陳舜臣の「十八史略」は父親の本棚から拝借して読んでみて、すごく好みってわけでもないけど、いちおう全部読んで、まあ読めばそれなりに面白いよなーみたいな感じで、読めないほどの嫌悪感はなかったです。

もともと恋愛小説や性的な露骨な描写はかなり苦手なので、そのような描写が何らかあったせいもあるのはだいたい分かっているんですが、それだけでは絶対にない、もっと総合的な嫌悪感と言うか、受け入れがたさを強烈に感じたので、一体、あの二人の独特の「悪臭感覚」とは、けっきょく何によるものなのだろうか…??と、折に触れて思い出します。

大人になり、ある程度グロイ描写があったり露骨な性描写があっても総合的には面白がれたり、落ち着いて読めるものも出てきたので、あれらを再読してみようか、今なら何かわかるのかもしれない。と何回か考えたのですが、考えるだけで断念してしまいます。

どちらかといえば村上春樹が世間の支持が高いような印象ですが、なぜ世間の人達はあの悪臭が気にならなくて読めちゃうんだろうかと不思議です(ファンを煽ってるわけではないです。好みはそれぞれですし、私はどっちかと言うと少数派の趣味の人だということはよく分かっているので)。

その作品の悪臭の原因多分これですよ、って分かる人いたらおしえてください。

あと、なんとなくですが、日本の男性が書く純文学(?)作品は、程度問題で、その悪臭が必ずと言っていいほどあるような気がしてなりません。夏目漱石にもほのかにあるよね…と思うし、宮沢賢治にも、微細にあるよね…と思うことがあります(宮沢賢治はけっこう巧妙というか、私的にはその感じは希薄です)。女性の作家の作品はそもそもあんまり読んだことないので、何とも言えませんが、よしもとばななは、男性作家の悪臭とはまたちょっと違う感じですが、それのバリエーションみたいな、イヤな臭いはありました。

そのような悪臭が全くないなと感じるのは、自分がパッと思いつくのは、日本だったら星新一だけで、他には思いつけない感じです。

星新一は本人曰く「残酷な描写をしない、性的な描写をしない、凝った文体を作らない」という3つのマイルールを延々と遵守していた稀有な作家なので、私の感じる悪臭の元は、その3つってことなのかな?と思ってもいますが、でも何だか、村上春樹、村上龍に感じた猛烈な悪臭というか嫌悪感は、それだけのせいでもないような気がしています。

感覚的なものなので、伝わらなければすみません。自分のまわりには読書家があまりおらず、感覚でもいいので、誰かこの気持ち、ちょっとでも分かる人いないかな…と思って質問しました。

海外の作家だと普通に読める作家が結構いるので(トルストイとかは、その悪臭は全然しません)日本人に特有の何かなのか…?という気もしています。

A 回答 (1件)

話がそれてごめんなさい。

私はアスペルガーの傾向があるんですが。アスペルガーって、文字や言葉などではなく、映像やイメージで頭の中の情報処理をしているんだそうです。

 私も村上龍、村上春樹さんの作品は苦手です。その反面、司馬遼太郎さんや純文学なら川端康成さんの作品など好きでよく読みます。アスペルガーの立場で苦手とそうでない作家や作品を比べると、
・司馬遼太郎さんや川端康成さんなど、私が読みやすいなと感じる作家さんって、描くシーンの光景(映像)やシーンに漂う雰囲気を完結で分かりやすい言葉で描写しておられて、私の頭の中でええい像やイメージに変換されてスムースに読めます。
 一方で、
・村上春樹さんの文章など、難解な言葉や凝った比喩などが多用されていて、頭の中で映像に変換するのに引っかかってしまって受け付けられないんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私はASD(旧称アスペルガー症候群)の人です。
確かに言語を視覚化する癖は私も結構強いです。周りの人からもよく指摘されます。

ただ、私は視覚優位と同等かもしくはそれ以上の言語優位型のASDでもあるので、言語は言語として読解する、という感覚も強い方なのです。

W村上の文体は(ハッキリ覚えてるフレーズとかは何もないんですが)クセが強かった印象はありますね。でも自分の場合、癖つよい凝った文体の作家は好きな方な気もするので、なんであの二人に関しては、特別ヤな感じなのかがイマイチ自分でも分からずです。

たぶん作家の書き癖にもいろいろなベクトルがあって、自分が特に嫌悪感を持つ「書き癖のベクトル」みたいなものがあって、そこを自分でもうまく自覚できてないのかもしれません。

あとなぜか、W村上や、ある種の作家の作品は「悪臭が強い」という感じがすごくするのですよね。視覚でもなく「嗅覚」にめっちゃ変換されちゃうみたいな…日本語の慣用句で「鼻につく」と言う慣用句がありますが、まさにそんな感じです。鼻につくどころか、鼻がもげるわ、みたいな強烈な感じなんですよね…比喩というよりも、五感の実感として。

司馬遼太郎はあんまり読んだことないですが、部分的に読んだ印象ではそんなに嫌いじゃなかった覚えがあります。歴史ものなど、史実を踏まえてキャラクターやストーリーを作家が多少アレンジしているような小説は、文体自体、割とフラットなものが多い感じですね。

川端康成の名前を忘れていましたが、私は実は川端康成も結構ダメなんです…。ただ、強烈な悪臭って感じではなかった気がします。でも何となく、作品世界の底の方には、私の苦手な悪臭の元、みたいなものがあるのかなって感じですね。そういうのはもしかしたら、人間誰でも持ってる醜悪さ、みたいなものなのかもしれませんけど。

好き嫌いって何が理由でそうなるのか、正確に解析しようとすると案外難しいものですね。私と似たASD傾向を持つ方の読書の感覚を教えていただいて、面白かったです。ありがとうございます。

お礼日時:2024/10/12 06:39

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