ウシャニパッド哲学、梵我一如のことを学校の倫理の授業で習って、
テストに出すって言われたんですけど、いまいちうまく理解する事ができません。
わかりやすく教えていただければ、とてもありがたいのですが・・・。
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。


補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態を解脱というのです。さて、
問2.梵我一如ということが判ると何がおこりますか。

yamanoyu2858さんの示してくださったURLもお読みください。
いかがですか?

梵我一如ということを理解したとき、アートマンであるあなたはブラフマンと一体化します。どんなにいろいろなものに生まれ変わったとしてもアートマンであるあなたはブラフマンなのです。あなたはもはやブラフマンであり変化しないもの、輪廻の罠から逃れ出たものになっています。つまり解脱したのです。

前の私の答えと重なりますが、これを納得する必要はありませんよ。古代インド人はこう考えていたということが判れば良いのです。ただ、この考え方は仏教の開祖ガウタマ=シッダールタも前提としていたことですから、仏教の基礎になる考え方です。で、日本にも仏教は伝わり現代まで繋がっていますから、そのつながりの中である種「普通」の「当たり前」の考え方とされていますが、冷静に考えれば奇妙な考え方です。余談の方が長くなってしまいましたが、納得ではなく理解をしていただきたいと思います。
    • good
    • 1

確かインド哲学だったと思います。


昔ならいましたよね、懐かしいです。
さて、内容ですが・・・
人間の生死についていっているような感じでしたが。
こちらのURLをとりあえず読んでみたらどうでしょうか。
むずかしいかもしれませんが、きっかけはつかめるでしょう。

参考URL:http://home9.highway.ne.jp/timeway/kougi~21.html
    • good
    • 0

倫理を教えているものです。

ご質問にお答えしようと思いますが、最初に一言。
「ウシャニパッド哲学」ではありません。正しくは「ウパニシャッド哲学」です。

それと、倫理の授業で習うことを「正しい」ものとして納得する必要はないと私は考えています。人間はその歴史の中でさまざまな考え方を持ち、残してきました。長い時間というフィルターにかけられて残ってきているのですから、それなりの意味があるのですが、基本的には「そういう考え方があるのか」と思うようにして、「自分はどのような生き方・考え方をするべきか」ということをご自分で考えるようになさっていただきたいと思っております。

さて、ウパニシャッド哲学のウパニシャッドとは「奥義」「秘教」という意味で、紀元前7世紀から前4世紀頃の古代インド人によって形成されたものです。その奥義とは単純に言うと、「梵我一如の境地に達して輪廻から逃れる」ということです。(「輪廻」はお判りですね)

梵(ブラフマン)とは宇宙の根源にある最高原理、万物の本体のことです。(と古代インド人が考えたので具体的にどんなものかを考える必要はありません。そういうものがあると考えて「ブラフマン」という名前をつけたのです)
我(アートマン)とはわれわれのうちにある本来の自己のことであり、生命・精神の根源です。(これも同じで、そういうものとして名前をつけました)

で、梵我一如とは、宇宙の根源であるブラフマンと自己の本質であるアートマンとは実は一体のものであるということで、これが真理であるとされます。

これに「輪廻」と言う言葉の意味が分かれば、この部分はおおむね理解できたと言えるでしょう。試験、頑張ってくださいね。

以下は余談です。
「梵我一如」とはどうして一体なのかとか、これがどういうことを意味するのかとか、本当に真理なのかということを真剣に考え始めると、私のように哲学の道を何十年か彷徨うことになりますのでお勧めいたしません。(笑)
あ、もちろんそのような覚悟があるならお好きにどうぞ・・
ここで大事なことは、「宇宙の本質とは何か」とか「自分とは何か」と考えてみることであり、特に後者の問いは重要です。古代インド人は「結局、宇宙と自分とは同じものなのだ」という答えを出したわけです。

この回答への補足

それと、梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
自分で考えると、結局同じ所に戻ってきて結果まで達しないんです。
やはり、奥深いものですね。

補足日時:2001/10/08 19:10
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高

【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高校で習って知っているんですか?

梵我一如の意味を高校の倫理の授業でどのように習うのか教えてください。

梵我一如ってどういう意味ですか?

Aベストアンサー

ウパニシャッド哲学(インド哲学)の、バラモン教(教典ヴェーダ)の中で学習すると思います。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一だと言う事を自覚する境地を「梵我一如」と言う言葉で表現します。(バラモン教の場合は、これにより輪廻から解脱できると考えます)
梵は、宇宙の根本原理を意味します、我は不変の自己(輪廻する自己そのもの)を意味します。
仏教(原始仏教)の場合は、正覚、正道により、一切の執着を捨て、悟りの境地に至る事により解脱出来るとしているのが、違いです。

Qイデア論と梵我一如の違いについて。

梵我一如とイデア論の違いとは何でしょうか?
それとも両方とも同質なのですか?

Aベストアンサー

イデア界に相当するものを梵として
イデア界が投影されれた我々の世界を我
というように対比させることはできると思います。

梵(イデア界)が投影された我(現実)の世界において
それらが一致する感覚を持つことが梵我一如の状態。
そんなものかもしれませんね。

イデア論はイデア界というものの存在の主張
梵我一如はイデア界的な梵と現実存在としての我が
一致した状態ということで
前者は世の中の現実、後者は現実の中の一つの状態
くらいの違いがあるんだと思います。

Qみんなが仲直りする秘密のナゾ:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)

3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け
容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る
自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如という呼び方を借りるとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=これは 無神論である)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその分身としての自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ




 ☆ 以上が 標題についての仮説であり 仲直りの妙薬です。
むろん仮説であり 問い求めのためのたたき台です。
吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をお俟ちします。

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画...続きを読む

Aベストアンサー

「唯物論」も、おそらく、「非思考の庭」 「受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性」にはいりますね、、、。

自分:物質の複雑な構造のうち、五感の感覚と動きで統合されたもの
物質:対象すべて

Q梵我一如とは

梵我一如とは

Aベストアンサー

No.1様の云う通りと思います。その事を知識で捕らえようとしてもそれは『机上の理論』が分かった、というに過ぎません。本当に分かったという事は、体が分かった。『体得』という事にならないといけません。それが悟りです。悟りの原理を書いてみますので、ご自分で体得する事お勧めしたいと思います。

人間は自我意識で考えています。それは左脳の意識です。顕在意識です。自我意識は『言葉』で考える意識です。言葉には限界が在ります。他の言い方をするなら、自我意識の考え方にも限界があります。如何云う事かというと、物事を割り切ってゆくという分別心に限界が在ると言う事です。

何故なら、割り切れる事を『有限』と定めて在るからです。従って左脳に在る『分別心』で考えている間は『有限の壁』は越えられないという事になります。それで禅坊さんは『分別を捨てろ!』と言います。

人間を苦しめる事になる『漠然とした不安、或いは有限の壁を越えられないじれったさ、或いは自分は何ものか?、或いは自分は何処から来て何処へ行くのか?』と言った悩みや、生き難さや、根本的な疑問が湧き上がってきます。

この疑問や悩みが何処から湧き上がってくるのかが『宗教の目的』となって来ましたが、その解決が『悟り』という事になります。或いはキリスト教的に云うならば『神に会って和解する』という事になります。何故ならばこれ等の問題の、全てを解決してくれるからです。自分自身を脅かせていた者、或いは自分自身を不安におとしめていた者、或いは自分自身に疑問を抱かせていた者が『誰』であったかが分かるからです。その者と和解が成立する事で『全ての不安や、疑問が』氷解するからです。

『意識の根底』からの疑問や、不安が『意識の根底から』分かるという事になります。それが『心身脱落、脱落心身』という事になります。それが『真理を体得した』という事です。この事を理論的に書いてみます。

天国に一番近い存在は『幼子』と聖書に書いてあります。それは脳の機能が『未分化』だからです。子供から大人になってくる過程で脳は成長してきます。この脳の成長とは左右の脳の機能が『分化』してきます、この事が『失楽園』という現象になっています。つまり心が二つになってくると言う現象の事です。

人間の苦しみとは『心の矛盾や対立や、分裂』という事になります。人間の心が二つ在るところに人間の苦しみが存在していると言う事になります。思春期頃から昔の宗教家は『無情』を感じて出家しています。今の時代は宗教家のところには行かないで『医師』の元に通うようになっています。医師は、薬を出して、クルト.シュナイガーの言葉{内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。}としながらも、『薬を出しておきます、治療をすれば治ります』と言っています。

原因が特定できていなくとも『治る』という事には、合点が行きませんが、今の医学の限界が『寛快』というものかと思います。

本当の意味での心の病い、精神疾患、神経症、自律神経失調症などは『心の矛盾』が原因です。人間には『識られざる神』が内在しています。それは右脳の意識です。『無意識界や潜在意識界』を統率しています。その意識は人間の体の調節や、ホルモンの分泌や、呼吸や心臓の速さも自在に替える働きがあります。正に『命の働きそのもの』という役目があります。

その者は誰の脳の中にも内在しています。右脳の意識として、無意識の意識として、仏性として内在しています。その者は自我意識と常に一緒に行動をしています。その者は言葉を持っていません。気配や、言葉によらない情報で自我意識に常に働きかけています。その働きの一端を書いて見ます。

誰の心にも湧き上がる感情の中で、その感情を湧きあがらせる『者がそれ』です。高い所に上がった時、納期が迫った時、スピードを出しすぎた時等です。急ブレーキを掛ける時には『自我意識に替わって』体を働かせています。その証拠が『思わずに』体が動いています。自我意識が関与しない時にも、体は反応します。

誰もいない野原で歩いている時には、歩いている事さえ『意識』していません、が自由に歩けます。大勢の人の前で話をするとなったら、壇上に上がるために歩く時には、歩く事さえ『自我意識』が出た場合には自由になりません。この事が関係しています。

もう残りの字数に限りがありますので、結論です。人間には『自覚できなくとも』もう一つの意識が存在しています。その意識は目の前の事を『自我意識』には分からなくとも、事実を事実として認識をして『言葉によらない』情報で自我意識に絶えず教えています。事実と一体となっている者です。その者とかけ離れた時が、人間の障害となります。その者と一体となる時が『無病息災』の時です。

梵我一如です。

No.1様の云う通りと思います。その事を知識で捕らえようとしてもそれは『机上の理論』が分かった、というに過ぎません。本当に分かったという事は、体が分かった。『体得』という事にならないといけません。それが悟りです。悟りの原理を書いてみますので、ご自分で体得する事お勧めしたいと思います。

人間は自我意識で考えています。それは左脳の意識です。顕在意識です。自我意識は『言葉』で考える意識です。言葉には限界が在ります。他の言い方をするなら、自我意識の考え方にも限界があります。如何云う事...続きを読む

Q梵我一如と一念三千の違いは

梵我一如も一念三千も、個人の内に宇宙を含み個人は宇宙と一体であると説いていると思いますが、違いがよく分かりません。

ある仏教系宗教団体の人から勧誘を受けたときに、その人は仏教以外の宗教の教えは外の道ゲドウと言って、仏教の教えは内の道ナイドウと言う。ナイドウに比べたらゲドウは低級な教えと言っていました。この人に梵我一如と一念三千の違いを尋ねましたが、梵我一如は知らないと言っていました。

梵我一如と一念三千の違いを教えてください。
よろしくお願いします

Aベストアンサー

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する、ということを踏まえておかないといけません。抽象的なものを実体的で具体的なものとして理解する、と言ってもいいでしょう。

例えば、「樹木」と「杉」は、普通ならば「類」と「個」という別個の概念に属するものです。西洋哲学ならば大きな問題になるこの両者の関係も、インド人の論理形式では、「樹木」は「杉」の本質であるとされて、この意味で両者は同一関係にある、とすら表現されてしまいます。インド的思考においては、個物の本質というのはそれが担っている普遍の本質である、とされて、いわば論理の階層を飛び越えるようにして、個物や特殊を普遍に属するひとつの例と考えるのです。

こういう考えに規定されたサンスクリット語では、ある属性と、属性を保持するものの区別があいまいになります。例えば、バラモンという階層の人々は、サンスクリット語ではbrahman、つまりブラフマンと呼ばれます。ブラフマンとはもともと「梵我一如」の「梵」で、いわば宇宙の統一原理です。本来は宇宙の統一原理をいう言葉であったブラフマンが、やがてそれと交感するための呪術をも指す言葉になり、さらにそれを操る特定の階層の人達の名称となったのです。

こんな例は沢山あって、「覚者」を意味するbuddhaがお釈迦さまを意味するようになったり、「勝者」を意味するjinaという言葉がジャイナ教の開祖を表す言葉に転化したように、ある性質を意味する一般名詞が横滑りして具体的な固有名詞にもなる、というのがインド的思考のひとつの典型なのです。

「梵我一如」も、このようなインド的感覚のうえに自然に生まれたもの、という風に理解しておかないと、言葉だけの理屈を言葉でなぞるだけになってしまいます。

梵我一如は、上に書いたような感覚が世界と個人との間に適用された時に、必然的に生まれた思想だと言えるでしょう。現象世界の種種雑多な相の根底に「梵」という最高原理があり、すべての存在や現象はそこに由来しているはずなのですから、当然、杉が樹木の本質であるように、自我という「個」もまた、究極的にはブラフマンであるはずなのです。迷いのせいで普段その一体性ははっきりとは自覚できませんが、その合一を体得することがウパニシャッドに説かれる聖なる目標なのです。「チャンドーギャ・ウパニシャッド」に挙げられている例によると、その合一は、例えば塩が水に溶けた時に、味を残しながら水に一体となるような状態に喩えられたりしています。

こういう感覚と比べてみると、「一念三千」との違いもなんとなく感じられるのではないでしょうか。誤解を恐れずにあえて書くと、違いのひとつは、現実世界の強度にあるといっていいでしょう。三千とは、現前世界の多様性一切を表現しているわけで、そもそも、「一念三千」とは、理であれ事であれ、縁起をベースにした現実肯定の思想である「諸法実相」が下敷きになっています。そこには、この現象世界の多様性に軸足をおいたうえで、その中に存在する「私」がこの世界とどのように関わるのか、という問題意識があります。

あまり単純に比べてもいけませんが、一方のサンスクリット語で「三千」や「諸法」、「万象」といった多様な現象世界のもろもろは、イダム・ヴィシュヴァム、「この全て」という単数表現で表されます。ここにもやはり、我々日本人には理解しがたい、背景の抽象性の強度ゆえに現象世界が閑却されがちなインド的思考が表れていることがうかがえますし、それは仏教思想との異同を語るうえで、実はかなり重要なことではないかと思います。

質問者氏は、恐らく本門の一念三千をご承知なのだと思います。この回答では、久遠実成の釈迦とブラフマンの違いには触れていませんから、肩透かしのように思われるかも知れませんが、まずは思想の背景にある違いを知ったほうがいい、というぐらいの意味にご理解下さい。

尚、関係が薄いかもしれませんが、以前梵我一如について回答していますので、よろしければご参照ください:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1106940 「梵我一如と仏教の悟り」

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報