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映画バトル・ロワイアル2の劇中で‘人の命は平等なんかじゃありません!!‘と竹内力が叫ぶシーンがありますよね。
たまたま日本に生まれたから赤の他人から1億円の寄付をたった一人の為に集めて海外で臓器移植が受けさせられる一方、たまたまアフリカに産まれたため100円の予防接種も受けられず死んでいく多くの子供たち・・・。
自分はどう考えても人の命は平等だとは思えませんが皆様はどう思いますか??

A 回答 (26件中1~10件)

人の命は、全く平等ではありません。



宗教家が「神の目から見たら人間は皆平等です」などと言いますが、その神様は目が悪いんでしょう、きっと(笑
どこも平等じゃありませんからね。
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 平等であるべきだと思うのですが、現実平等ではないと思います。



 環境?により運命が左右されているような気がします。(日本で生まれて、アフリカで生まれてなどのように)

 ただ、実際問題「生きている価値あるの?」と思うような人間がニュースなんかの特集で、人に迷惑をかけている行為を見てると、こういう連中には平等である必要はないのではないのだろうか?と過激派みたいなことを思ったりもします。

 話がずれて、とりとめもなくなりましたが・・・
平等ではないと思います。
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私の考えでは、「命」は「ある・生きている」か「ない・生きていない」のどちらかであり、平等でしかありえません。



不平等がでてくるのは「運命」や「生活」などに関してであって、「命」に関することではないと私は考えています。

この考えでいくと、母親と胎児は一対一の平等な命をもっているため、妊娠中絶は殺人と定義することになります。同じ命しか持たない人間が、別の人間の命について決定する権利はないということになるからです。「でも色々な事情があるではないか!」となりますが、それは「運命」や「生活」に関する議論であり、本質的なところで「命」からは外れていると思っています。

同様に、誰かの死が他の誰かの死よりも重要視されるのは「命」に差があるのではなく「運命」などに差があるからだと思います。
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面白いご質問ですね。

ひとこと参加させてください。

「人間は誰しも自分自身の命を、何よりも最優先する権利を持つ」
という意味でのみ平等と言えるかもしれません。

そして、自分自身の命を最優先する権利がある以上、他人に対して自らの命を完全なる平等な立場におく事は不可能に近いと思います。
結論としては、

「人の命は平等であるが、他者が介在した時点で平等性は必然的に崩れる」
と言えると思います。

「一億の寄付」も「100円の予防接種」も他者の介在を前提にしています。
(他者の金が必要という意味で)
つまり、他者の意志です。
意志は自分を守る為(他人を救いたいという自己の欲求を満たす為)に働きますから、
地球上全ての人が天寿を全うするまで、恒久的、且つ
確実に保護できる方法が確立できない限り、
救う対象を他者が選択するしかないでしょう。

「一億の寄付」は、その意志が、ある対象に対して行使されたというだけです。
他の状況と比較しようとすれば、どんな事とでも比較できますが、無意味な事ではあるでしょう。
(例えば5千万円で救える命が2つあったかもしれないので)

1億あれば、確かに100万人のアフリカの子供の命が救える計算になるのでしょうが、
平等、不平等というよりも、人間の生活空間に対するキャパシティの問題になるように思います。
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この回答へのお礼

皆様多くのご意見ありがとうございます。
アンケートですので甲乙はつけられませんので
ポイントは付けられませんが感謝致しております。

お礼日時:2005/08/11 18:24

こんばんは



生まれた場所、親などはその子の運命、もしくは宿命かと。

しかしながら何かしら因果関係はあるのではないかと思います。

”憎まれっ子世にはばかる”これは今のところピッタシです。いい人が亡くなり、最悪な奴が生き残る。
こればかりは、憎い。

平等ではないかなと思います
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人に限らず命は平等だと思います。


ただ、生まれた環境や運や時代はとてつもなく不平等だと感じます。
すべてをひっくるめて、その人の縁というか運命なんだろうなと思います。
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・客観的に見れば平等


どのような状況、環境も運命と思う

・主観的に感じるのであれば平等でない
少しでも人より不幸と思えば平等と思えなくなると思う
大金の寄付をもらって手術が行えても、その本人は、病気になったことが平等でないと感じているかもしれないし・・・
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マスコミの報道からして、平等ではないです。



何年か前、アメリカでジョンベネちゃんという美少女が殺されたとき、日本のワイドショーは何ヶ月も特集を流し続けました。

インドや中国で災害が起こると、何千人単位で死ぬのに、新聞に数行しか出ません。
アフリカなんかもっと悲惨な現実があるのだろうと、想像するしかありません。
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しかし、死ぬ分には皆平等に死にます。


どれだけ生命を分類しても、どれだけ人をカテゴライズしても、死は生命を選びません。
死において、全ての生命は平等でしょう。
人の命は平等か、それを考えることで、人類が少しでも賢くなれるなら、死命という観点を提示しようと思います。
命は躍動します。そう、生命がそれです。その躍動に踊らされることなく、冷静に、人類の抱える命にまつわる問題を解決するには、死命という命の考え方でもって、己の命と他の命は何処で交わるのか?ということを考えればいいのではないでしょうか。
戦争、テロリズム、近隣他殺、遠隔障害、すべて他との係わり合いの中で起きています。
それを、死と言う観点から解釈します。
命は沈黙します。それが、死です。しかし、命は消えたでしょうか?死命(死としての命)は、生命をクリアにクリアに顕していったその底に、波のない泉としてあるのではないでしょうか。
水面に起きる、波紋と波紋の干渉が、生命の躍動であるとするならば、巨大な波紋に小さい波紋はかき消されてしまいます。そしてそれに、沈黙はけして干渉しません。冷徹と思われるかもしれませんが、無慈悲な大波に非力な子供が掻き消え去ろうが、死命という観点は、それを冷静に見ています。だから、なぜそのように不合理な大波が発生するのか、読めて来ます。
私は、皆が平和を望んでいるのに、、というのは、半分嘘だと思います。
だれしも、本当の平和と言うものは望めていないのではないか?そのようにさえ思えます。
かならず、大方の人類が抱えている思考パターンがあります。それが、波の干渉を起こし、同じ周波数の思考パターンによって導き出された小さな行動が積み重なり、世界の秩序を大破させる大波に化けているのだと考えています。
人間は、知恵に優れたために、生に対して不誠実になってしまったのではないでしょうか。誰しも全力を出すことなく、のうのうと暮らしている。他の命を搾取して。そのような事をしているのは人間だけです。
その上、生きることが味気ないんだと、愚痴をこぼしてしまう。かといって、命をかけて生きる勇気があるかと言うと、大半はそうでない。このような個々の抱く歪が、余りにも同種のものであるので、それが互いに乗じて、大波となってしまっていると、言いたいのです。人の抱える悩みはそれぞれある。というのは表面的な話で、本質はそう多くはないでしょう。二、三種類の悩みに大別し、それらを一つ一つ諭し、報じてゆくことが、世界の不和を解決することになると思います。
一つは、命をあまらしていることの不幸。
大概の人間は、ぎりぎりの生活をしていません。精神的にも肉体的にも、過飽和の状態です。自分の弱さがかわいい余りに、蒙昧な贅肉をつけすぎている。そしてその余った贅肉を、助け合いだと言うことで、他人に押し付ける。何も持たない人から何かをしてもらうと、その心意気に打たれるが、有り余った持ち物のうちから少しを分け与えてもらっても、ありがたくはない。先進国が、過去に命をかけて人類社会に貢献してきたものたちの功績をむさぼり、そのわずかばかりのおこぼれを、後進国に分け与える。非常に嘆かわしい。ということで、人類が平和になるために。
・己の命は余らすな。
余裕ばかりを求めてはいけない、ということです。安心を求めすぎると、それは贅肉になって己を苦しめる。あえて、自分の弱点はこれですよと、手に持って示すくらいの勇気を、皆にもって欲しい。ちょっと危機を感じながら暮らすぐらいで、ちょうどいい。
たまには晩飯抜きもいいじゃない。

次に、人を殺すことについてです。
自分が生き残るために、他を殺す、というのは、フェイクです。自分が生き残るためには仕方なかったのよ、というのは、半分嘘だと思います。
たしかに、生命は躍動するものですから、その生命の観点に立ち続けるなら、永遠に生き続けなければならないほど、生に執着してしまいます。しかし、一つ、個人の生命というのは、無限の虚空に広がる死命の泉で起こるたった一つの波紋ですから、完全に消え去ることはないけれど、限りなくゼロに拡散してゆきます。それを、己が波立つことばかり考えるから、そういう方向の思考回路をしているから、他人の波紋をかき消そうとしてまで、自分が生き抜こうとするのです。そうではなく、対立する二つの生命があるなら、お互いに死に時を知りましょうと言うことです。そうすれば、お互いに冷静になり、二つの波紋は美しく融和し、さらなる生命の躍動を得ることになります。一人だけででも生き抜こうとすると、全滅します。しかし、お互いに死に時を見つめれば、対立は融和となって、生命を盛んにします。
ということで、
・自分を生きようとするな。死から逃れようとせずに、死を見つめて、そこに入る準備をしよう。ということです。むしろ、死に浸かってしまえ、くらいの心持で。
 具体的には、たまには黙って殴られてやるよ、ってことです。
爽快なものです。
個人的にはこのレベルなのに、社会、または、人類社会のレベルにまで波が干渉しあい、高くなると、殺人、テロリズム、戦争、と言う風に、破壊的な大波になります。
そうすると、個人の力ではどうにもできません。
爆弾一つぐらい受けるよ、っていうのは無理な話です。国にできることは、お金、利権や土地を、堂々と譲ってやることです。せこせこと、何々島はうちのものだ、二百海里がなんたら、なんて小賢しいことは言わないように。国家にとっては、晩飯がたまに抜けるくらいのことです。堂々と譲ってやりましょう。
パレスチナは確かに貧しいですが、ユダヤ人の国を認めてあげましょう。日々の食にも困る人々を抱えるパレスチナが、大金持ちの漂流者のユダヤ人に、もしそのような行為を果たしたなら、パレスチナ諸国は聖なる国と言ってもいいかもしれません。ユダヤ人は、お金持ちだから、私にできるのはこれくらいしかありません、なんてお金をどかっとパレスチナにくれてやれば、民族の清楚さを表現することになるわけです。それは、土地の売買ではけしてないんですね。ビューティフルマネーです。
 
で、まぁ、夢はたくさん見れますし、現実を酷く嘆くこともできます。で、我々の世界を平和に導くために、個人的にできる心構え。
その一
少し危機を感じくらいの生活感で、暮らそう。明日、ちょっと準備たりてないなぁ。今日の晩飯は?ごめん、抜きやねん。え?あやまることないよ。くらいで。贅肉が落ちて、生に活力がよみがえります。
その二
たまには殴られてもかまわんってくらいの腹持ちで。
女の子だから顔は、、お腹は、、って言う人は、びんたなら許す、と言ってください。まぁ、傷つく事を怖れなければ、たいした傷にはならないということです。人に攻め立てられても、黙って全て聴いてみる、くらい。痛みをまじまじと享受することが、懐を深くするのです。例えそれが、不当な仕打ちでも。かすり傷を受けましょう。
 
と言うことで、歪な波の干渉を減衰できるのではないでしょうか。精悍、清楚、やや太っ腹。
実に健康的です。余裕を捨てて、人間らしく生きましょう。
PS.あと、たまには殴らせてくれ、と、お願いしてもいいかもしれません。
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この世で唯一平等なのは「人は必ず死ぬ」ということだけだと思います。

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