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「博多五町」とは 今の福岡市の何処何処の町を指すのでしょうか?
昭和ヒト桁生まれの父と 天神で生まれ育った母の意見が微妙に違っています。
指折り数え上げた私の意見も 両親から却下されました。

「博多七堂」?「博多七筋」??などについても御存知のかたがあれば教えて下さい。

A 回答 (3件)

Morozoffさん こんにちは!



長文すみません。
博多部在住のものです。「博多五町」はバス停の名前が残っているだけにどこのことだろう?と不思議に思う方も少なくない割には正解がわからないので、博多部に住む子どもや学校の先生に出す常套のクイズです(笑)

正解はNo.1さんが引用された九州製鏡さん(いわば博多五町当事者)がおっしゃるとおりです。

少し補足しますと、
かつて百を超えた博多の町名は昭和41年2月1日で現在の大きな新町へ整理されました。それまでは京都や金沢のように、小さな町では十数件から構成され、現在とは違い、道路を挟んだ向かい同士が同じ町内という、道や通りを基本として成り立っている町でした。

「博多五町」を構成した五ヶ町も、いわゆる旧町(含む通称)です。
また「博多五町」という名称は五ヶ町の商店が一体となって「博多名所」として一九六○年代頃まで宣伝した名称でした。当時の資料によると
「麹屋番」「川端町」「ツナバ町」「川端通」「寿通」と記載されています。(場所は前出と同一)

「番」とは、昔、役人や倉があった町内を通称で○○町といわずに○○番と呼ぶ習慣があって、行政上の名称は麹屋町であっても親しみを込めて「麹屋番」と呼んでいたそうです。(麹屋町には江戸期までの博多の自治の長「博多年行事」の役所があった。であるから「麹屋番」であり、現在も山笠の追山廻り止めは、かつてのその場所になっている。)

>「博多七堂」?「博多七筋」??などについても

秀吉の博多復興の際に「四水、四応、四神相応の計画を立て、博多の町を七条の袈裟になぞらえる七七四九願をあらわし、博多を一山の七堂伽藍にたとえた」(九州経済史論集)そうで、
江戸期の博多の百科事典ともいうべき「石城志」には
「七小路」「七厨子」「七堂」「七口」「七流」「七観音」が載っています。

「博多七筋」!うーん「博多六町筋」なら判りますがー(東から、官内町、中石堂町、中間町、綱場町、掛町、麹屋町。箱崎側から石堂橋を渡って博多の深部や福岡部へ貫く目抜き通りで、かつての商業の中心地だった=前出の博多五町につながる話。)

あと、七△□の内容・場所は、さらに長文になりそうなので内容は割愛します!リクエストありますようでしたら再記しますー

とりあえず、こんなところで如何でしょう?

また、これらの場所・位置関係・旧町名は、
参考URL「大黒流総合サイト」>大黒流とは>大黒流の地図、
で、アニメーション表示でご確認下さい。(ここのサイトの出来はたいへん素晴らしく、この地図作成のご苦労を考えると頭が下がる思いです)

ではではー

参考URL:http://www.daikokunagare.com/index.html
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この回答へのお礼

 (^_^)/ ありがとうございます!

 詳しか解説に ものすご恐縮しとります。
博多に生まれて ン十年になりますばってん、曾祖母が 通称「中の番のおばしゃん」やったこと、住まいは現在の天神三丁目、等々 僅かなことだけしか あたきは判っとりましぇん。
知ることが 自分のルーツば辿る作業のごたぁもんで、興味津々です。

 厚かましかごとありますばってんが、「七△□の内容・場所」、お手すきのときに 是非ご教示つかぁさい。
よろしくお願い致します。<(_ _)>

お礼日時:2005/08/31 00:49

NO.2です。



>、「七△□の内容・場所」、

No.1さんのリンク、中洲流さんのHPにありますように

七流  呉服町流、東町流、西町流、土居流、須崎流、石堂流、魚町流
七小路 一(市)小路、中小路、金屋小路、奥小路、古小路、浜小路、対馬小路
七厨子 奥堂厨子、普賢堂厨子、瓦堂厨子、萱堂厨子、脇堂厨子、観音堂厨子、文殊堂厨子
七堂  辻堂、奥堂、石堂、普賢堂、瓦堂、茅堂、脇堂
七口  浜口、象口、瀧口、川口、堀口、蓮池口、渡唐口
七観音 大乗寺観音、妙楽寺観音、観音寺観音、聖福寺観音、乳峯観寺観音、龍宮寺観音、東長寺観音
七番  竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、釜屋番、麹屋番、倉所番

などですが、「七番」以外は前出の「石城志」出展によるもので、場所が不明なのもあり
筑前の伝承をまとめた「筑陽記」には、七厨子について異なり
奥堂厨子、普賢堂厨子、瓦堂厨子、萱堂厨子、赤間厨子、桶屋厨子、芥屋町厨子 になっているそうです(残念ながら原本未確認)。

>天神三丁目
旧町は、鍛冶町、万町、材木町、下名島町ですね。
>中の番
「下名島町は名島城下の中町の人たちが移り住んだ所で、名島中町または中名島町といい、俗に中ノ番といった。」(福岡町名散歩)。町の北側に福岡藩の名島町会所という迎賓館のようなものがあったそうで、役所があったということで、あえて「番」と呼んだと思われます。戦前であれば、この旧町の位置は6.19福岡大空襲で大半が昭和通りに埋没したことになります。戦後は区画整理で町が北側へシフトしました。

博多に六町筋(前出)があったように、福岡部にも「福岡六町筋」<福岡藩が博多に負けないような町筋を作るために都市計画的に創造した通り、下名島町、上名島町、呉服町(博多の呉服町ではない)、本町、大工町、簀町>という目抜き通りがあって、下名島町はその1町として賑わっていたようです。従って、Morozoffさんの曾祖母さまは、きっと裕福な家筋にお生まれになったのでしょう!
かつて天神は、天神町「てんじのちょう」と呼んでいました。<博多では「ん」を読み飛ばす習慣と「の」を入れたりする習慣があり、(例)「薬院(やくい)」「銀杏(ぎなん)」「奥堂(おくのどう)「魚町(うおのまち)」、ともに法則なし=>覚えるのみ>この言い方はご年配の方には懐かしいと思います。お試しあれ。
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この回答へのお礼

 すごい!ありがとうございます!
郷土史を何冊も買い込まなくても 探している答を得られたことに感激しております。

 「よろず町」「なじま町」は母の言葉によく出てくる町名です。
母が姉弟げんかの末、ほうきを振りかざした弟に追い掛けられて 新天町商店街を全力疾走した、等々の昔話は「戦後は区画整理で町が北側へシフト」で、細かいところも納得出来ます。

 裕福な家筋であったかどうかは不明ですが、祖父の従兄弟に「明治の博多」を描いていた「祝部至善」という画家がおります。(親族唯一人の有名?人)

 これをきっかけに 私ももっと自分の住む「博多」を勉強したいと思いました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/09/02 00:47

こちらのサイトによると


「上川端通り(旧上新川端)」(かみかわばたどうり)
「下川端通り(旧下新川端)」(しもかわばたどうり)
「寿通り(旧新道)」(ことぶきどうり)
「麹屋番」(こうじやばん)
「綱場町」(つなばちょう)
だそうです.
http://www.qsk21.com/yomoyama8.htm

博多七堂は
普賢堂、石堂、奥の堂、辻の堂、萱(かやの)堂、脇堂、瓦堂

七筋についてはわかりません.
こちらのサイトの「太閤町割り」がご質問に関連しているかと思います.
http://www.nakasu.org/yama_history.html
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この回答へのお礼

 (^_^)/ おおきに!素晴らしか回答です。

 一所懸命 ネットで検索したとですが、探し方が悪かとか さっぱり行き当たりましぇんでした。
「七筋」は あたきの何かの勘違いかも知れまっしぇん。

 我が生活に直接関わることでんなかとに、正確に判らん…となっと 博多っ子としては モヤば掛けられたごたあ気分やったとです。
ばってん、おかげさまで すっきりしました。

ありがとうございました。(^_^)/~

お礼日時:2005/08/31 00:26

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