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 大人になるにつれ恐れることはなくなったのですが、それでもふとした瞬間、自分が存在する世界が不思議でならないことがあります。なぜ人間は存在するのか。この世界は何なのか。いくら言葉を費やしても解明できないし、それに成功した人はいないと思うのです。(ただ、宗教信者の方は、その宗教の教えるところが答えなのかもしれませんが)
 幼いころに、教会に通っていたので宗教に抵抗はなく、聖書などもよく読みます。読むのは古代史実としてよむのであって、神の存在を幼いころのように信じることはできませんが・・。ただ、宗教に、一つの見方としてみると、ある真理が含まれているような気もします。
 皆さんは、この世界をどのように捉えていますか。そして、人生や生、死をどのように受け止めていますか。 
 
 いろんな方に答えていただきたいです。中学、高校生にも、主婦の方、なんらかの宗教を信じている方を問わず。
 観念の遊戯と思われるのは止してください。自分の言葉でわかりやすく、お願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

>死をどのように受け止めていますか。

 

「死」とは何か。
「死んだら終わり」とは、よく聞くことばですが、神のことばである聖書は、そう教えていません。聖書の中では、死とは、分離を意味します。それは、魂が肉体を離れることです。そして、肉体を離れた魂は、神のもとである天国に行くか、それとも、罪の裁きのため地獄に行くかのどちらかしかありません。実に、死とは、終わりではなく、永遠への入り口なのです。あなたは、あなたの創り主であるまことの神が存在されることも、天国や地獄が本当にあることも信じたくないと思われるかも知れません。

しかし、もし神も地獄も存在せず、人は死ぬと消えてなくなるのなら、死は、人を、悩み・苦しみ・悲しみから解放するための手段になってしまいます。「人は死ねば消えてなくなる」と、あなたが本当に信じているのなら、生きることがつらいときに、どうしても生きなければならない理由は、なくなってしまいます。

 しかし、人は、神によって創られているので、心の中では、死後の世界があることを知っています。さらに、自分の中に、「罪」があり、自分がとても天国に行くことができず、むしろ、罪は神によって正しくさばかれなければならないことを知っているのです。ですから、だれでも死を前にすると、自分が地獄に行かなければならないことを直感し、恐れ、何とかして死を避けようとするのです。

「死」に対してどのように備えるか。
 今、神が望んでおられることは、あなたが地獄に行くことでは決してありません。むしろ、神はあなたを天国に迎え、永遠にあなたを愛し、幸せにしたいと望んでおられます。では、人はどうすれば天国に行くことができるのでしょうか。あなたは、どんなに努力しても、がんばってみても、自分の力では、この、死という問題をどうすることもできません。しかし、神のひとり子である、イエス・キリストが、あなたの罪を赦し、あなたを天国に入れるために、この世界に来られました。そして、キリストは、十字架の上で、あなたの身代わりに、あなたの罪の刑罰をすべて受けて、死んでくださいました。さらに、三日後に、死の力をうち破り、よみがえられました。

ですから、だれでも、キリストを自分の救い主として信じるなら、罪が赦されて、もう決して地獄に行くことがなく、天国に行くことができるのです。そしてその人は、たとえ死を前にしても、なくならない希望と、本当の喜びを持つことができるのです。
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>なぜ人間は存在するのか。



それは神が人間を創造したからです。

聖書の一番はじめには、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と書かれています。つまり、世界は絶対者なる神さまが造った(創造した)から存在しているのです。

もし、「自転車が偶然にできると思いますか?」と質問すれば必ず、「偶然にはできない」と答えるでしょう。そして続けて、「時計」・「コンピューター」と質問を繰り返すならば、少々いらいらしながら、「偶然にはできない」という答を返してくるでしょう。しかし次に、「人間の複雑なからだが偶然にできるか?」と質問するとその答は「偶然ではない」と答えるか「分からない」と答える人が多いでしょう。

今まで、物が偶然にできないということを面倒くさそうに答えていた人が、今までの物の中で最も複雑な構造を持つものを指し示した時に、「分からない」と答えるのです。これは“理論的に人間が偶然にできない”という理性と “神様が造ったなんてあり得ない”という感情とをてんびんにかけ、感情が勝った答えです。もちろん「分からない」と答えた人も、人間のからだの方がはるかに複雑で難しいことは知っているので、「もし人間が偶然にできたと信じたいならば、少なくとも人間のからだよりもはるかに簡単な自転車ぐらいは偶然にできたと本気で信じなければならない。そうでなければ、人間のようなものが偶然にできたと信じる資格はありません。」と話した後に、「自転車が偶然にできたと本気で信じている。」と言った人は誰もいません。

「人間というものは、自分の望んでいることを、とかく信じたがるものだ」(ジュリアス・シーザー)

世界についても全く同じです。世界が偶然に出来るなどということは絶対にありえません。

 人間とは勝手なもので、「理性」と「感情」が対立した時、どちらを取るかというとそれは「感情」なのです。進化論に関しても例外ではありません。人間は事実だから進化論を信じているのではなく、人間の好みに合うから信じているのです。その証拠に、もし教科書に、「人間は神様によって造られた。」と人間の好みに合わないことが書いてあるとすれば、どれほど大勢の人が目の色を変えて学校に文句を言い、そのことが本当かどうかのあらを探すでしょうか。しかし進化論は今まで批判すらされずに受け入れられて来ました。

 進化論が人間にとって好都合な理由の一つは、唯一まことの神様の存在を否定できるからです。そうすれば人間がすべての中心となり、人間は罪を犯しても最終的なさばきはなく、もちろん地獄もなく、勝手気ままに、良心を痛めることなく何だってできるからです。

そしてもう一つの理由は、人間は進化するのだから人間には無限の可能性があると信じることができるからです(逆にアフリカの黒人を進化途中の人間以下の物として、奴隷売買も正当化もされたのです)。ですから産業革命以降の能率至上主義を背景として、進化論はダーウィンが1859年に「種の起源」を出版後、またたく間に世界中に受け入れられたのでした。しかし進化論というのは仮説にしか過ぎません。

世界のすべてのものは私たち人間も含めて絶対者なる神さまが造った(創造した)のです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2005/09/10 19:40

この世界は「ある」というのが本当です


ただしどのように「ある」のかそれは一人一人の違いです。人は生まれたからには死ぬというのはお分かりでしょう。
それに意味を持たすのか、持たさないのか、
それは各人の違いですね。
「あなたはあなただけに特別に造られた者」
考える必要はないでしょう。答えはあなたの中にあります
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 04:29

不思議とは何でしょうね(^^


「分からないこと」が不思議でしょうか。
不思議なことはたくさんあると聞くけれど、じつは不思議はそこにあるだけで、中身を少しづつ、掘り出しているから、不思議の鉱脈より、数多の「発見」があるのかもしれません。 
世界って何?
とても不思議です。
存在と言う鉱脈を掘り尽くすと、トンネルは、山の裏手に抜け出てしまった。
自分を穴が空くほど見つめたら、穴になってしまった。
私は、その穴や、トンネルを、道と呼びます。
不思議の通り道です。

何故存在するのか?
と言う題は、存在が不思議なんだ。
という肯定文に置きかえれます。

でも、なんで不思議なんだろう?
と題を立てると、目の前の存在よりも、不思議のほうに目が映ります。
なんで不思議なんだろう。
質問者様は、存在の解明を求めていると同時に、なんで不思議なんだろう?という、探求も込められておるのではないかと、ふと思います。
 
何で不思議なんだろう。
と、
何で在るのだろう。
と、
を、実感してみると、
ずいぶん違うように感じられませんか?
私の場合、なんで不思議なんだろう、という考えは受け入れられそうですが、何故在るのか?という考えは、スルーしてしまいます。
在ると感じて居ないからです。  

己にとって重い存在、軽い存在、または、影の濃い存在、薄い存在、あることによって、存在たちがブレてしまうことは考えられないでしょうか。己よりも、濃い存在や、薄い存在と接触すれば、己や、相手がぶれてしまう。それは、存在そのものについても同じことが言えます。
はっきりは言えませんが、存在と言うのは、そんな、水中に解けた塩のようかもしれません。自分や、世界と言うのは、濃度の違いで分かたれていると考えられないでしょうか。濃度の違う他存在と接触し続けておれば、自己と言う部分的な存在も、安定することなく、常にその濃度を揺らし続けます。変化し続けると言うことです。濃度が一定以上を越えてしまうと、また異質な、自己ではない存在となりえます。
 
言葉に革命がおきればいいのですけれど(^^;
語る言葉にも、生まれ変わることがあると思います。言葉により、挑戦し続けてきたのは我々です。何故存在するのか?
そんなことにも、言葉で挑戦しつづけることは、無意味ではないと、私は思います。
きっといつか、解決すると、思いませんか?
大きな宗教の流れ、文明や科学の潮流、それらの源流をさかのぼっても、まだ五千年ほどしかたっていません。
まだまだ、言葉には未来がある。私たちの言葉はまだ成長する。
世界って何であるの?
この質問は、言葉自身が、自己を問うているような、そんな風な、言葉の思春期のように思えてなりません。
言葉は友。
我々の、友であると思います。
友と歩んでゆくことは、楽しいではありませんか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 04:29

こんな所感です(やや不快な表現があります。



人生
1.生まれても、すぐには始まらないもの。
2.本人が死んだ後、他人に定義してもらうもの。

死(やや不快な表現があります。)
1.心停止から、やる気喪失に至る、病的&心理的状態
2.自分自身の死後、自分を記録している媒体の消滅、自分を記
憶している他人の消滅、自分の臓器を移植した人の死の状態で
文頭にある程、確実に訪れるもの。

自分にとっての、この世の中
日本の他県にある実家の方が、アメリカよりも遠く、
自室の四畳半の方が、北海道より広い、と感じる認識。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/10 04:20

大人になるにつれ恐れることはなくなった…それでもふと瞬間、自分が存在する世界や不思議でならないことがある。

なぜ人間は存在するのか。この世界は何なのか。いくら言葉を費やしても解明できないし、それに成功した人はいないと思うのです。

ならば僕は、言葉を費やすべきではないと思う。
キリストも釈迦も実際にいたかどうかは知らないけど、彼らの素晴らしいところは、言葉を綴り、文字を書いたわけではなく、実際に行動したことにこそ、本来の価値があると僕は思います。弟子たちが勝手にその偉業を綴り、それが宗教になったのだと僕は思っています。

愛について考え、それを言葉で表そうとしても、僕はとても出来ない。出来ないからこそ、芸術があり続けると思うし、愛は語るものでなく、感じるものとさえ僕は思う。

逆に考えてみて、大人になるにつれて恐れることはなくなったとは、感性が鈍ってきたとも言えないこともないと思います。つまり、子供のときは、誰だってシッテいた。この世界のことも、人間が存在することも。初めてみたこの世界は、太陽が浮かび、それが沈むと星が瞬き、虫は鳴いて、雨が降る。全てが不思議で驚きの世界です。子供の心はそれに敏感に反応する。不思議であるゆえに、興味の対象であり、関心です。それが科学の始まりでもあると僕は思っています。この世界の不思議を解明したい。そのような子供心がある人は、大人になってもこの世界は不思議で、興味に絶えない世界だと思います。

大人になるにつれて、どんどんワカラナクなってしまっている。恐れる感性も失ってきている惰性。わかったつもりになっている賢い?頭脳。子供は頭でわかっていたのではなく、生きるということを、身体全体で感じ取っていたのだと思います。子供はシッテいた。ゆえに子供は語ることができない。宗教だって必要以上に語ってないはず。

僕にとってこの世界とは、即ち自分であり、人生や生は、死へ向かう過程自体であり、つまり死と一体です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

キリストも釈迦も実際にいたかどうか・・・・
>この文脈で言うと、キリストよりイエスの方が適切なような気がします。キリストは「油注がれたるもの」、つまりメシアの意味ですから。イエスはいたと思います。イエスがメシア(キリスト)なのかどうかはわかりませんが。

お礼日時:2005/09/10 04:19

  私は、一方でキリスト教世界にいながら、他方で科学(社会科学)の世界で学ぶものです。


 この二分で考えるのはちょっと問題かもしれませんが、分かりやすくということなので、キリスト教世界と世俗世界ということで述べてみたいと思います。
 キリスト教世界というのは、宗派で考え方は異なるとはいえ、基本的に1つの真理だけが存在し、その意味で人間の存在理由は極めて明確です。それはもちろん聖書に基づいています。少なくとも聖書上では、すべての理由は明確です。私たちが生まれてから死ぬまでのあらゆるプロセスには意味があります。ですから、単純化すれば、世界は神と悪魔の闘いの場であり、その戦場はわれわれの心です。その闘いには、終焉があり、われわれが生きる理由も、その闘いに打ち勝つためである、と要約できるでしょう。そこでは、真理は唯一であり、その真理にとどまるか、そこからそらされるかのいずれかになります。
 他方で、現代社会は(社会)科学の世界です。そこで支配的なことは、真理など存在しないということです。哲学的発端は、近代以降です。ニーチェあたりですね。それ以降、価値とは多元であり、それゆえ人間の存在理由もまた多元であるという見方が一般化されるようになりました。ですから、そこでわたしたちの社会が行き着いたのは、市場社会であり、現代になるにつれ快楽主義を徹底する方向へ向かってきました。快楽主義というと、聞こえが悪いですが、ようは自分が好きなように食べ、のみ、オシャレをし、恋愛し・・・という自由主義思想の徹底です。ここには真理はありません。正確には、公共的価値は現に存在しますので(平和、人権など)、真理は闘争の場に置かれたといえます(議論されるものとなった)。
 この2つは、かならずしも矛盾関係とはなりません。なぜなら、科学の真理(つまり真理は1つではない)ということは、キリスト教真理(真理は唯一である)を含み込むからです。ですから、今日宗教の自由が存在するわけです。私はあくまで科学による地球の生まれの話(ビッグバン説等)は全く信用できないので、あくまで生死観はキリスト教的です。
  

 



 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/08 16:41

私の考えではありませんが、養老孟司さんの唯脳論はお読みですか。

養老さんは自己言及の矛盾という言葉を使っていますが、存在を考えている主体は、自分自身は考える対象にはならないというような意味と理解しています。簡単に言うと自分だけはわからないということなのかなと思います。
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この回答へのお礼

 「唯脳論」、今まで聞いたありませんでした。読んでみます。
 
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/08 16:40

世界の捉え方ですが、私は、世界について考えているときの世界と、世界について考えていないときの世界は違っていると思います。

また、死について考えているときの死と、死について考えていないときの死は違っていると思います。私は考えることがおそらく好きなので考えるのですが、本当に私が知りたいのは私が考えていないときの世界や死のありかたなのだと思います。そして、世界や死を忘れているのが幸せなのだと思います。
私は椅子に座るときも今椅子に座っているという意識を持っていたこともありました。これはかなり苦しいものでした。意識を持つことは苦しいことです。私は世界を遊びの場であると考えたいです。世界に戯れることが理想です。これはみな子供のときの世界観だったのではないでしょうか?時間というのもそれを意識してしまうと苦しいです。子供のころは時間など存在していなかった。
私は結局、世界を意識の対象にしているのだと思います。少なくも私が意識を持っているあいだは。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/08 16:38

[なぜ人間は存在するのか。

この世界は何なのか。]
何でも理由があるからね。原因がないと結果はないので全て理由はありますね。
人間といっても二つの事柄がありますね。霊体としての人霊、と霊体を宿した肉体としての人間ですね。霊体は、はるか昔に根本仏(あるいは全知全能の神)によって創造されたということですね。だから、霊体が本来の姿ですね。霊体が住んでいる世界が本来の世界です。これを天国と称していますが本当はもっと複雑で多様な世界です。これは肉体の目では見えませんね。霊体が更に心の修行する場所として特別に作られたのがみんなが認識している三次元世界、つまりこの世界ですね。だからこの世界は厳しいのですね。釈尊は苦の世界と言い切っています。イエス様も苦労しましたね。でも苦しい修行は高々の人生80年ぐらいでしょう。霊体は不死なので創造されて以降何億年も生きているのですね。別の世界から生まれてがんばるぞといって80年辛抱すればいいだけのことなんですよ。その後また気楽な世界に戻れるのですからね。まあ、たまには厳しい環境で修行しようといって出てきているだけですね。いろんな人に会いいろんな経験をすればいいだけですね。そんな世界ですね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/08 16:37

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