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浄土真宗の駆け出し僧侶です。
人は命終わる時に阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。
その救われる主体というのは何なのでしょうか。

煩悩具足の凡夫である「私」のこの体を離れて、
私の中のなにが浄土へと生まれて仏と成るのでしょうか。

A 回答 (32件中1~10件)

私は門徒の家に生まれ、小さい頃から祖母に連れられお説教を聴きました。



結論から言います。真面目にそのようなことを考えるなら、浄土真宗の既存寺院を離れなければなりません。

職業僧として生きるなら、そのようなことを考えてはいけません。苦しむだけです。

浄土真宗の教義の真の意味を(教団の解釈ということではなく)知ろうとすれば自己矛盾に気付くでしょう。

俯瞰的に見なくてはいけません。鈴木大拙の真宗に関する記述は大変参考になりました。

いわゆる葬式仏教である現在の寺院形態は残って行くでしょうが、だんだん経営的には大変になると思います。

そういうしがらみのある地方では過疎化でお寺の上がりは減っていくでしょうし、都市部ではしがらみがない分、自由な葬儀形態が取れます。中には病院から火葬場に行く直送とかも増えているそうです。なにかで読んだのですが都市部のある地域では葬式仏教ですら成り立たなくなってしまっているということです。

街行く看板でも”格安家族葬”とかの看板が目に付きます。

格差社会が進み葬儀の時に大枚をはたくことができる人も減ってきていると思います。

一番の問題は浄土真宗の教義の肝は葬式とはなんら関係ないのに(親鸞は自分が死んだら川にでも流し魚のエサしてくれと言っていたそうです)収入の大部分は葬式関連費に頼らざるを得ない自己矛盾です。

質問の答えになっていませんね。

ご質問の答えになるかどうかわかりませんが、

http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/hozobosatsu …

曽我量深 著作でググれば最初に出てきます。

これに関して鈴木大拙により私が知った妙好人浅原才市の言葉も参考になるでしょう。

”法蔵の修行の場所はどこにある?みんなわたしの胸の内。南無阿弥陀仏・・・”この言葉が特に印象に残っています。

参考になれば幸いです。
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曇鸞大師「論註」に甲が往生したならば、浄土に生まれても同じ甲か。

それともちがった別の人になるのかどうか」という問題を提示して曇鸞大師は「「(穢土の仮名人甲)、(浄土の仮名人甲)一に非ず、異に非ず」」と述べています。

変易生死していたものが分段生死して浄土に新たな身心を得るということです。

一旦は死ぬが即、浄土に誕生します。

死後直ちに次の生の身心を得るのです。分段生死


以上桂利釼師、稲垣瑞釼師の著述参照いたしました。
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先の投稿で、間違いがあったことに気がつきました。

一段落だけ訂正させてください。

  カントの言う自由[自己保存、私利私欲、幸福の追求に無関係であること]は、常に失敗に終わる危険に晒されている。いつ快楽、すなわち病的な動機[自己保存、私利私欲、幸福の追求など]が紛れ込むかわからない[※註]、もしかしたら主体自身[人間]が[自己保存、私利私欲、幸福の追求に無関係に正しいことをすることを選択したことで]死んでしまう[従って、結果が出せない]かもしれない。この障害を「飛び越える」こと、その先に進むことを可能にするものが、[...]「幻想」、魂の不死ならぬ肉体の不死の要請である。[通常の]時間・空間の外に[生まれる前や死んだ後の]時間・[どこにもない]空間の座標軸を立てることにより、この要請は、「道徳的に低次の段階からより高次の段階へ」[有限である人間が]果てしなく前進することを可能にするのである。[...]

※註: 自己保存、私利私欲、幸福の追求などに無関係に、自由に選択したつもりの行為を、後から反省してみたばあい、人間は、いつでもつねに、実は、自己保存、私利私欲、幸福の追求などの動機による行為であった…と反省するものである
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[続き]



  さらにカントはつけ加える――「理性的かつ有限な存在者[人間]にできることは、道徳的に低次の段階からより高次の段階へと果てしなく前進しつづけることのみである」。
  この「演繹」やその前提に読者は困惑する――理性的かつ有限な存在者[人間]にとっては、果てしなき(無限の)前進のみ可能である。この逆説については、ルイス・ホワイト・ベックが指摘している通りである。もし魂が不死であるならば、肉体が死んだ時、これはすでに空間・時間の世界の住人ではない。このように時間的条件の下から脱した魂が「継続的に、果てしなく前進する」とは、いったいどういうことななのか?また、次のように問うてもいいだろう。「肉体という鎖」から解き放たれた魂に、なぜ前進が必要なのか?この場合、神聖性[最高善]は瞬時に達成されるのではないか?もしそうでないなら、もし魂の永遠性の中に継続的変化があるのなら、これは、永遠の存在様式ではなく、時間的な存在様式であるはずだ。変化という概念は、時間の中にあって初めて意味をもつものである。我々は、魂の不死の要請を導く際に提示されるこの逆説について、どう考えればいいのだろうか?
  これらの問いは、我々を必然的に次の結論へと導く――カントが本当に要請しなくてはならないのは、魂の不死ではなく、肉体の不死である。カントの言う「道徳的に低次の段階からより高次の段階への果てしない前進」から導かれるのは、不死の魂ではなく、不死の、けっして破壊されることのない、崇高な肉体である。この肉体は時間の中に存在し、時間とともに変化し、そして漸進曲線を描きつつ、果てしなくそのゴール、つまり死に近づいていく。断言してしまおう――魂の不死の要請とは、「純粋実践理性の幻想」[...]である[人間が人間的に生きているという事実の前提、必要条件であるところの幻想である。人間が現に人間的に生きているということは、このような幻想を人間がもっていることを前提としている]。[...]
  カントの言う自由[自己保存、私利私欲、幸福の追求などからの自由]は、常に失敗に終わる危険に晒されている。いつ快楽、すなわち病的な動機[自己保存、私利私欲、幸福の追求など]が紛れ込むかわからない[たとえば、義務に服従することに、固執すること、それ自体に、一種の病的な快楽が生じる可能性がある]、もしかしたら主体自身[人間]が死んでしまうかもしれない。この障害を「飛び越える」こと、その先に進むことを可能にするものが、[...]「幻想」、魂の不死ならぬ肉体の不死の要請である。時間・空間の外に時間・空間の座標軸を立てることにより、この要請は、「道徳的に低次の段階からより高次の段階へ」果てしなく前進することを可能にするのである。[...]
  カントは、最高<善>の実現が、道徳律によって必然的に決定される意思の対象であるとする。まさにこれは、[...]無限の尺度の実現である[最高善、すなわち、意思と道徳律の一致を、意思が欲するというのは、いわば、有限に無限を折りたたんでいる]。[...]カントにとって[...]、問題は何か善なるもの[あれやこれやの対象、目的]を実現することではなく、最高善を実現すること――意識に上る何らかの目的の達成ではなく、意思と道徳律を完全に一致させること――である。この最高善を可能にするために、カントは、魂の不死の要請を導入して死後の世界を切り拓き、そして主体が第二の死[死後の死]、言わば<最後>と関係することを可能にする。この<最後>の視点に立ってのみ、我々は[最終的に]最高善が実現されたか、あるいはされていないかを見ることができる。第二の要請は、このような視点――我々の存在を全体として見渡せるような地点、ある種の裁きが行われる地点――を、すなわち神の存在を、導入するわけである。[...][通常の死とその死後の死の]二つの死の間にある[...]「煉獄」、そして<最後の審判>の視点……。[...]
  [最終的に]実現するためには、死の中に時間という次元を導入しなければならない[死がある一時点の出来事であってはならない]。最後に嘆くための[時間外の]時間、そして[どこにもない]場所――つまり、幻想の枠組み――が必要なのである。

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 ( 1) 死後の世界や神の存在は、理性では証明できない。
( 2) しかしながら、死後の世界や神の存在は、人間が人間として実際に生きていることの前提である。人はみな、何らかの死後の世界や神の存在を、そうとは知らずに、無意識の裡に前提して生きている。
( 3) 死後の世界や神の存在は「幻想」であるが、人間誰もが、無意識の裡に持っている前提である。
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 あるカント『実践理性批判』解釈から引用



 [カントの]『実践理性批判』において、[...]本来の意味での要請とは、魂の不死と神の存在の二つだけなのである。[...]
 [純粋実践理性の要請、すなわち、魂の不死と神の存在の二つ、は、]さらに高次の概念、意思と道徳律の完全なる一致としての「最高善」をもつ[...]。最高善は、意思の決定要因ではなく、意思の向かう対象である。魂の不死、および神の存在は、この最高善の「実現」を可能にするために要請されるのである。
 ここで重要なのは、最高善が魂の不死や神よりも上位に位置づけられていること、そしてこれら二つが同時に要請されていることである。最高善――これこそ神と不死が要請される唯一の理由である――との関係において、これら[魂の不死と神の存在]の要請は二つ揃っていなければ全く意味がない。これら[魂の不死と神の存在]は、互いがあって初めて要求された役割[最高善の「実現」]を果たすことができる。[...]
 図式的に見てみよう。魂の不死は、意思と道徳律が完全に一致するという理想、すなわち最高善への無限の前進を可能にするために要請される。我々がこの理想[最高善の「実現」]に到達しようとしても、人生はあまりにも短い。だから我々は、永遠につづく改善の可能性[魂の不死]、道徳的前進の継続を可能にする「人生の後の人生」[魂の不死]といったものを要請するのである。しかし、ここにおいて二つの視点、神の視点と人間の視点の差異が問題となる。主体が永遠に存在[魂の不死]したからと言って、最高善の[最終的な]実現が可能になるわけではない。これを可能にするためには、神の視点[神の存在]がなくてはならない。なぜなら、神の視点[神の存在]から見た時にのみ、この永遠の前進[魂の不死]が全体として、統一体として、現れるからである。[...]
 主体[魂の不死]は、永遠の道徳的前進の過程、「一連の道徳的行為」を創り出す作業に没頭しており、自分の道徳的行為を全体として見渡すことができない。[...]神[神の存在]のみが、主体による一連の道徳的行為[魂の不死]を全体として見ることができるのである。[...]
 
  時間的な条件に左右されない<無限の存在者>[神の存在]は、われわれにとって終わりのないこの連続[魂の不死]の内に、道徳律に合致する統一体を見る……。[人間は]この時点において、また予測可能な将来のあらゆる時点において、神の意思に完全に合致することができない。これが人間に可能となるのは、神のみ見渡すことのできる、無限につづく人間の努力[魂の不死]においてのみである。
 
  面白いことに、ここでは<無限の存在者>[神の存在]と存在者の無限の存在[魂の不死]が、はっきり区別されている。<無限の存在者>[神の存在]は「時間的な条件に左右されない」とカントは言うが、これは、不死の魂が依然としてこの[時間的]条件下にあることを意味している。つまり、純粋実践理性の要請する魂の不死とは、超感性的なものではなく、「時間的条件」下にある感性的なものの無限の持続なのである。
 
  意思と道徳律の完全なる一致と定義される最高<善>の前提条件として、カントは魂の不死の要請を導入する。まず、この不死の要請が「演繹」される過程を見ていこう。
 
  意思と道徳律の完全なる一致は神聖性[最高善]と呼ばれ、これは感性の世界に住む理性的存在者[人間]には達成しえない完全なる状態である。しかし、それが[人間の]実践においては必然的なものとして要求されるというのであれば、これは、完全なる一致[最高善]に向かう[人間の実践において]果てしなき前進というかたちをとらざるをえない。……しかし、この無限の前進が可能であるためには、ある同一の理性的存在者[人間]が無限に存在しつづけること、そして無限の人格性をもつことが必要であり、これが魂の不死と呼ばれるものである。最高善は、魂が不死であることを想定して初めて実践的に可能となるのであり、このように道徳律とわかちがたく結びついているものとしての魂の不死は、純粋実践理性の要請であると言える。
 
 [続く]
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まず、西方浄土というもの自体が架空の話であり、そこで仏になるとか、ならないとかの以前の話で、元々、念仏の依経である無量寿経や阿弥陀経は釈迦の本意である法華経へと人々を導くための仮の教え、つまり、方便として一時的に説いた架空の話であって、いわゆる化導というものです。



これも結局は法華経へと至らせんが為に、その人々の機根(きこん)、つまり、理解力や性格、あるいは欲するものや慣習等に合わせるように種々様々な形で説いて行ったのですが、これを随他意と言い、金光明経や大日経、般若心経等はすべてその類であり、早い話が法華経以外はすべて人々の機根に沿うように説かれた随他意であり、逆に本意、真実を説いた法華経は隋自意となります。

ともかく、駆け出しとはいえ、僧侶であられるなら念仏だけでなく、できれば一切経を調べられて釈迦の本意が、八万法蔵のどこにあるのかを見極められた方がよいかと思われます。もし、自宗の依経のみで仏教というものを捉えていたとしたら、まさに『木を見て、森を見ず』ということになるかと思われます。

それと仏になるという点ですが、仏とは元々、サンスクリット語のブッダに漢字の仏陀を当てたもので、ブッダの本来の意味は『目覚めた者』ということであり、つまり、仏とは、ある真実に気が付いた者ということで、その真実とは、本来、我々誰もがその胸中にとても偉大なる性分を持ち合わせていて、これを発揮さえすれば、いわゆる『生老病死』という四苦を難なく克服して悠々たる境涯になれるということで、その性分の力用を分かり易く説くために、それらを擬人化したものが文殊菩薩や普賢菩薩、薬王菩薩や観世音菩薩等で、つまり、我々の中には本来、それらが持つとされる功力、効用が自ずと備わっており、それらの働きを自在に使って行くことができるというものです。

ただ、油田や金鉱脈と同じで、たとえ持っていたとしても、それに気付かず、その価値を発揮させない限りでは、いわゆる『宝の持ち腐れ』状態のままで、何らその人生に活用できない、実に勿体ない話かと思われます。ですから、このことに目覚めた釈迦は、我々にこの重要な点を気付かせ、発揮させ、その人生に活用させるために仏教を説き、そして、その根幹となる法華経こそが、その開発の方途を教えている最重要経典なのです。ともかく、成仏というものを志向するのであれば死後ではなく、現世で、しかも他力本願ではなく、自力本願で為されることこそが、仏教の本来あるべき姿かと思われます。

なお、念仏の僧侶の中にも『法華経最勝、最第一』という点を把握されている方もおられるかと思われますので、一度詳しく聞かれるとよいかと思われます。
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お答えになるかどうか分かりませんが・・・


時々法要に参列していて感じる事があります。
僧侶の方の仏への唱号を聞いていて、あ、入った、と思うのです。
仏様の大きな慈悲心の中に入った、という感じです。
思い込みといえばそれまでで、実際にはその僧侶の方に聞いてみなければ分からないのでしょうが
何となくそんな気がするのです。
一心に唱えて呼びかけるところに、仏様との感応の世界があるような感じがいたします。
法要の時に、こういった感触を持たれている方は案外多いのかもしれません。
故人に対して如来の大悲の橋渡しをされる僧侶の方の尊さを感じる一時でもあります。

信じる心が、如来の大悲に入る時こそ、即浄土であり成仏でもあるように思われます。
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> hayata_ 、ここまで回答を得られて、


> 納得される何かがありましたでしょうか?
> 私自身は一時納得できたようで、
> 投稿を次々読めば読むほど結局納得できなくなり、

私は、私以外の方の投稿はどれも、なるほどなぁ、と思いました。

大変に勉強になっています。

ただ、同じことを逆に言えば、
どのご意見もある意味、なるほどなぁ~と思う
=どれも、100%完璧な回答ではないという、
見方も仰るとおり可能だと思います。

頭で考えたら分からない、生きてみるしかない
ということがあるというのも仰る通りだと思います。

元々のご質問が、言語化が非常に難しいご質問なのだと思います。

そもそも主体とは何か?が難しいですね。

たとえば、「本当の私」というものを、一生、本気で真面目に、全力投球で探し続けるということを考えてみると、何かつかんでも、まだ、100%これではないな、ということがあるからこそ、人生の途中で、もう見つかったから、もう生きている気力はなくなった、死んでも良いや…とならないからとなります。

けれども、だったら最初っから、本当の私なんてない、と頭で考えられるから、よって、生まれたときに、即、死んで良しともなりませんよね。

ある意味、本当の私なんてどこにもないということを知らないで、アホだから一生懸命探しているわけではないですね。

ある意味、本当の私なんてどこにもないということを知っているが、一生、全力投球です。

すなわち、本当の私というのは、必死で、一生探し続けるが、見つけることにいつでもつねに反復して失敗し続けるという、必死に生きる、生き抜くというプロセスの効果として「ある」わけです。

主体は、自分の内部に内属しないことになりますね。
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 「理」の世界に遊んでいても“信仰”にはならない。


 「情」の世界のみでは“イワシの頭”でさえも信心の対象になりうる。

 やはり両輪が必要なのでは。

 物事には三要素があります。
 心の働きの三要素は、

 「知」と「情」と「意」

 馬車にたとえれば、両輪が「知と情」。
 馬が「意」

 ・・・・・・なんてことも考えてみました。

 
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 阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する、


 その、主体とは。

 煩悩具足の凡夫である「私」だと思えませんか。
 私の中のなにが、ではなく「そのままの私」が、浄土へと生まれて仏と成る、のだと。

 私の中の“なにが”に疑問を持つなら、それなら、「禅」の世界に回答を求めるのが良いのではないでしょうか。
 阿弥陀仏は、「理」の世界の仏ではありません。煩悩具足の衆生をその身そのままで救おうとしている「情」の世界の仏なのですから。

 たぶん我々は、仏と成る、という表現に迷わされてしまうのでしょう。

 阿弥陀様の心は、命と云うものに、あるいは、すべての「生命」の姿を見て、心を砕き、涙しているのです。
 それゆえ、すべての命そのものを、救いたいとの思い「本願力」、を「すべての命」に降り注いでいるのです。

 hayataさんの今回の質問は、「情」より「理」によって、納得しようというもの。
 
 一輪車では、不安定。
 二輪車で行きましょう。
 

 

 
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