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「墾田永年私財法」の内容と、歴史的意味ってなんなんでしょうか?

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歴史 意味」に関するQ&A: 歴史の授業の意味

A 回答 (3件)

「墾田永年私財法」とは、土地を開墾すればその土地を永年に私有できるという法です。


この法が出来る前に「三世一身法」というのがありました。
「三世一身法」とは、開墾した土地を三代に限り私有できるというものですが、この法律は開墾の奨励にはあまり効果が見られなかったため「墾田永年私財法」ができました。
「墾田永年私財法」と「三世一身法」は政府が土地の荒廃を防ぎ、開墾地から税を集めるために制定した法律です。
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    • 19
この回答へのお礼

ありがとうございました。
分かりやすくて(^_^)
ホントにありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 21:27

墾田永年私財法は、開墾地の永久私有を認める法令で、そのための手続きや占田限度額について定めている法令です。


教科書的には、公地公民制の崩壊=私有地の許可として説明されています。また同じ年に大仏造立の詔が出されていますから、そのための優遇策とする評価もあります。
しかし学説的には、現段階ではより積極的な評価がされています。
そもそも日本律令の規定にでは、墾田をどうするかの規定はない(もしくは明確でない)のです。日本律令の原本は、中国の律令ですが、ここでは墾田規定がありました。しかし日本で中国律令を日本用に作り直したときに、墾田規定は何らかの理由(煩雑など)で削除したのです。このように考えると墾田永年私財法は、日本律令に足りない要素を追加した積極的な政策と評価できるのです。また墾田は輸租田なので、租(稲の納入・地方税)収入の増加という面があったことも重要です。
ごちゃごちゃしましたが、こんな感じですかね。
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この回答へのお礼

細かく、簡潔に教えていただき、ありがとうございました。
分かりやすくて、ほんと、助かりましたm(._.)m

お礼日時:2005/09/11 15:25

律令制による土地所有として、元々は政府(朝廷)が土地を所有するようにしていました(公地公民制)。

班田収授法に基づき、政府から小作人に田を支給していました。

しかし人口の増加や財政需要の増加に伴い、国家収入を増やす必要が出てきました。そこで大規模な開墾を政策として実施するに当たり、促進策としてまず「三世一身法」が発布されました。しかし、開墾した土地がいずれ政府の元に返ってしまうということであまり普及がしなかったのです。

そこで、「墾田永年私財法」が発布され、開墾した土地は開墾者の私有が認められたのです。

このことにより、資本力のある資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなりました。この時に開発・私有された土地が荘園となりました。また、過酷な課役を強いられた為に浮浪・逃亡する百姓が増加した事と、およびそうした百姓を荘園が受け入れたことを背景として、口分田の荒廃が顕著化していったのです。

そして、このような地方豪族が力を蓄えていくことにより(途中で地方管理官である守護や地頭もありますが中略)後の戦国大名へと発展して行ったのです。
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この回答へのお礼

細かく教えていただきありがとうございました。
感謝、感謝です。

お礼日時:2005/09/10 21:29

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Q墾田永年私財法について

墾田永年私財法とは・・・開墾した土地は、永久私有を認めるもの。

何故、班田収授法ではだめだったのか・・・?教科書には班田収授法では、

その後の人口増加や、災害などの口分田の減少のため、とかいてありました。

では、どうして墾田永年私財法で解決できたのか。
何故、班田収授法ではだめだったのか。

この質問に答えてくれる方、大歓迎です!

Aベストアンサー

詳しく述べられているのでかみくだき的にw
班田収受法は国から土地を借りれる代償として納税の義務が課せられます。
じゃこの税はどうやって決めるの?律令に定められていました。低価格で。
税が発生するシステムは
国が種籾を貸す→借りた者は収穫から利息を足して返済する
3俵貸し出して4俵でもどればいいなぁと言うシステム
この貸し出した種籾にかける利息=国の収入(税)となりました
一見すると問題の無いシステムです
しかし、この頃は 長雨、台風、大地震と天災が続き不作の年が連続します。
国は修繕費や無理に復活させた遣唐使の費用やらで増税をします
公式の利率が5割 非公式の利率が8割くらいに高騰し、農民は納税する為だけに作物を育てるシステム。
5俵の収穫があっても5俵とられる悪循環が起こりました
京の街には地方から続々と食べ物と仕事を求めて人が詰め掛けました
辻辻ではのたれじんだ人を煮て食べる凄まじい光景となります。
国は、何も手を打てず律令の精神を守れば全てうまくいく!と無策です
結局、国が無料で食料を配る施くらいしかやりません。これは増税を招きました。
そこで藤原氏が私財を投げ打って私有地に浮浪者を連れて行き、農具や種籾を無償で支給しました。
私有地ですから藤原氏へ土地の使用料を支払えば、国への納税の義務がないのです
しかも、その使用料は低率で日本中のどこよりも安心して生活ができました。
いままでは自分たちで食料を夜盗や役人からまもっていましたが、大貴族が無償で守ってくれます
こうして、荘園ができていきました。
藤原氏としては失業対策と安定した食料生産による経済の安定によって国を安定させたかったのです
しかしこれは、律令の完全な否定でもありました
この現実を突きつけられて律令派が講じた対抗策が墾田永年私財法です。
班田収受法の一番の欠点は、国から貸し与えられる農地が毎回変わる事。
一生懸命肥料を入れて実り豊かな土地にしたのに、それを取り上げられて痩せた土地に変えられることが
よくありました。農民は萎えてしまって本気で働かなくなります。
これを、ずっと同じとこでいいよ。としたのが墾田永年私財法です。
しかし、種籾の貸付利率は下がらず、あまり効果がありませんでした。
大貴族に雇われたほうが豊かな暮らしができるからです。
こうして、全体的な食料生産量は増加し経済が安定した頃、国の財源はほとんどありませんでした。

詳しく述べられているのでかみくだき的にw
班田収受法は国から土地を借りれる代償として納税の義務が課せられます。
じゃこの税はどうやって決めるの?律令に定められていました。低価格で。
税が発生するシステムは
国が種籾を貸す→借りた者は収穫から利息を足して返済する
3俵貸し出して4俵でもどればいいなぁと言うシステム
この貸し出した種籾にかける利息=国の収入(税)となりました
一見すると問題の無いシステムです
しかし、この頃は 長雨、台風、大地震と天災が続き不作の年が連続します。
国は修繕...続きを読む

Q墾田永年私財法を出した理由についてのことですが、

墾田永年私財法を出した理由についてのことですが、

?「人口が増え、口分田が不足したため」と教科書に書いていたのですが、何故人口が増えたから口分田が不足したのですか。人口が多いほど、人々に多くの口分田を与えることができると思うし、口分田が不足したら、新しく開墾すればいくらでもできると思うのですが・・・。

?「人口が増え、口分田が不足したため」墾田永年私財法を出したのはいいけど、それで口分田の不足は補えるのでしょうか。

?墾田永年私財法を出してしまったら、もう口分田じゃなくなってしまうと思うのですが。


分かりにくい説明ですいません。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>?「人口が増え、口分田が不足したため」と教科書に書いていたのですが、何故人口が増えたから口分田が不足したのですか。人口が多いほど、人々に多くの口分田を与えることができると思うし、口分田が不足したら、新しく開墾すればいくらでもできると思うのですが・・・。

口分田=農地は簡単に開墾できるものではなかったようです。723年の三世一身の法が出される前年の722年に、百万町歩開墾計画が出されます。当時80~90万町歩ほどの耕地だったところに、百万町歩開墾ですから最初から無理な計画ではあったのですが、それでも農民を夫役(強制)に駆り出し、国司、郡司などを動員しても凡そ現状の一割程度の拡大に過ぎなかったとされています。そもそも、この計画が出されたのは、人口の増加にともなう食糧不足が背景にあります。一人あたりの口分田の広さは決まっていますから、人口が増加すれば口分田も人口増加分増えなければならないはずです。しかし、人口の増加に口分田の増加が追いつかず、口分田をもらえない人口が増え、失業状態のようなものですから、逃亡・浮浪(本籍から流浪するが、所在がはっきりし、庸調は納める)が増えるようになります。人口の増加→口分田の不足→食糧不足→逃亡・浮浪の増加をもたらすわけです。そこで政府=官主導で開墾地を増やそうとしたわけですが失敗に終わり、民間主導に切り替えて、耕地を増やそうと図るわけです。そこで出てきたのが、三世一身の法です。しかし、一時的な私有は認められても、最終的に収公されては開墾意欲が湧かないとの理由で、20年後の743年に墾田永年私財法が出されたわけです。
開墾は一人で出来るものではなく、多くの人間を動員(強制ではなく賃金を支払い)し、開墾道具、食料、資金も必要です。そのため、実際に開墾を主導できる層は限られています。地方では郡司などの国造の系譜を引く豪族や有力農民、中央では院宮王臣家と呼ばれる皇族や貴族、大寺社などです。また、院宮王臣家等が開墾したからと言って口分田が増えるわけでもありません。私有地が増えるだけですが、その私有地を逃亡人、浮浪人や口分田農民を集めて耕作させなくてはならないので、開墾は耕地の拡大は逃亡人、浮浪人に耕作の機会を与え、食糧不足の解決にもなったわけです。これを裏付けるものとして、私有地に口分田の班布を受けた農民を、口分田から切り離し、囲い込む(耕作に従事させる)ことを禁止する法令がたびたび出ています。耕作をさせるために口分田より有利な条件(賃租で耕作させるのが一般的)で農民を集めていたようです。
つまり、743年の墾田永年私財法が出された背景には、722年の百万町歩開墾計画から引き続く人口の増加、口分田(耕地)不足、食糧の不足があったのです。
ここで注意しなければならないのは、これらの土地が自墾地係荘園・初期荘園と呼ばれるものですが、租は納めていたことです。有名な不輸と言われる言葉がありますが、これは正確には不輸租=祖を納めない(権利・特権)と言うことです。奈良時代では寺田・神田を除いて不輸はほとんど認めていませんから、祖は納めていたことになります。逆に言うと私有地と言えども祖を納めるのが原則だったのです。
ですから、墾田永年私財法は律令政府の土地政策の一環であり、開発された耕地も掌握され、税も徴収され、私有地とはいえ、後の荘園のように不輸・不入の権を持ち、政府・国司などの公的権力を排除する性格は持っていません。律令の不備(開墾した土地の扱い)を補完し、土地政策を実情に合わせて軌道修正したと考えられています。
なお、墾田永年私財法の発布は、同年に出された大仏造立の詔と関連し、大仏造立に郡司などの有力者を協力させるためであったとか、院宮王臣家や郡司層・有力農民の開墾意欲が強く、それらの勢力との妥協であるとの考えもあります。

以上長くなりましたが、参考程度に。

>?「人口が増え、口分田が不足したため」と教科書に書いていたのですが、何故人口が増えたから口分田が不足したのですか。人口が多いほど、人々に多くの口分田を与えることができると思うし、口分田が不足したら、新しく開墾すればいくらでもできると思うのですが・・・。

口分田=農地は簡単に開墾できるものではなかったようです。723年の三世一身の法が出される前年の722年に、百万町歩開墾計画が出されます。当時80~90万町歩ほどの耕地だったところに、百万町歩開墾ですから最初から無理な計画...続きを読む

Qアルトリコーダーの運指を教えてください

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○ ○○○ ○
ラ … ◎   ●●● ●●○ ○
シ … ◎   ●●● ○●○ ○
ド … ◎   ●●● ○○○ ○

レ … ◎   ●●○ ○○○ ○
ミ … ◎   ●●○ ●●○ ○
フア … ◎   ●○○ ●●○ ○


親指(裏の穴)
◎じるしは、少し開ける

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○...続きを読む

Aベストアンサー

全てバロック式のアルトの指使いで合っています。

それからこれは余計なことですが、「◎じるしは、少し開ける」とご本人が書かれているように '少し開ける’で正しいです。
昔、リコーダーを小学校などで教わった時に「半分あける」と教わった人も多いようですが、実際には1~2ミリくらいのものです。

リコーダーを始めるに当たって、アルトを選択し、しかもバロック式で始められたというのは最良の選択だと思います。がんばってくださいね!

Q夏休みの宿題 税についての作文

夏休みの社会の宿題で、
「税についての作文」というものがでました。
一応、書いてみたので時間がある方は読んでいただけないでしょうか?
枚数は3枚以内ということで、これだと2枚とちょっとくらいです。
題名がまだ決まっていないので、もし何かあればお願いします!


 私は、正直に言うと、今まで「税」というものについてよく知りませんでした。
自分が払っている税金と言うと、消費税くらいしかないし、
その消費税は、何かを買うと付いてくるし、
「税金なんかなくて良いのに。なんで払うんだろう。」と思ったこともありました。
 そこで、税金の使われ方について調べてみました。
すると、税金は、私たちが毎日学校で勉強するために使われていたり、
私たちの生活や安全を守るために使われていることが分かりました。
また、税金によって、医療費が安くなっていたり、ゴミ処理がされているということも分かりました。
 もし、誰も税金を払わなくなったら、どうなるだろうか。
と考えてみると、
私たちが今まで当たり前のように通っていた学校には通えなくなってしまうし、
私たちはこれから安心して暮らしていけません。
税金がなくなっても、毎日学校で勉強をしようとすると、
私たち中学生は、月々約7万9千円、つまり年間94万3千円を払わなければなりません。
他にも、税金がなくなれば、警察・消防費として、国民一人当たり約4万5百円、
ゴミ処理費用として、国民一人当たり約1万7千9百円を払い、
医療費は今よりも高くなります。
これらは、税金を払っている今は、税金によってまかなわれているのです。
そう考えると、税金は私たちにとって、とても必要なものだと思います。
 今まで、「税について知りたい!」とか「税金は必要だ。」と思ったことは
一度もありませんでしたが、今回調べて、税についてよく分かったし、
税金は必要だと思いました。
私たちは、いつも「勉強したくないなあ。」と思いながら学校に通っていますが、
こうして、当たり前のように毎日学校で勉強ができるのも、
税金があるからできるのだと分かりました。
 私たちはまだ、税金を払う立場ではなく、税金を使う立場の方です。
税金によって、私たちは色々な面で支えられています。
日本全国の人々が、税金を払い、
その税金によって、私たちは支えられています。
だから私も、将来、もっと税金を払うようになったら、
他の人たちを支えたいと思います。

夏休みの社会の宿題で、
「税についての作文」というものがでました。
一応、書いてみたので時間がある方は読んでいただけないでしょうか?
枚数は3枚以内ということで、これだと2枚とちょっとくらいです。
題名がまだ決まっていないので、もし何かあればお願いします!


 私は、正直に言うと、今まで「税」というものについてよく知りませんでした。
自分が払っている税金と言うと、消費税くらいしかないし、
その消費税は、何かを買うと付いてくるし、
「税金なんかなくて良いのに。なんで払うんだろ...続きを読む

Aベストアンサー

>消費税くらいしかないし、
>よく分かったし、

この「~し、」というのを書き直しましょう。
作文ではあまり使いたくない言葉使いです。

税金というと、一番身近なのは消費税でしょうか。
良くわかりました。

>だから私も、将来、もっと税金を払うようになったら、
>他の人たちを支えたいと思います。

この部分が???となる文章でした。
税金を払うことに支えるとありますが、何を支えるのかを書く。
または最後の〆の言葉自体を変更してもいいかもしれません。


これくらいでいいと思います。
中学生なので十分ではないでしょか。

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Qパーセントの計算がまったく出来ません…

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○円で、65%オフ!?ということは○○円ですね!?」などとパッと暗算で計算しているのを見るととても驚きます。

暗算とまではいかなくても計算機(ケータイにもその機能はありますし)があればいいので、どういう計算式でその%オフされた数字を出すのか教えて下さい。

また、今のバイト先で、商品の売り上げ目標というのを作るのですが、先輩たちのミーティングを見ていると「目標○○万円でしたが、××円しか売り上げがなく、△△%の達成率となってしまいました」と報告をしているのですが、この場合もどのような計算式で計算しているのでしょうか?

消費税を出す場合につきましても教えて頂きたいのですが、今現在の税率は5%で、その計算をする場合は「定価×1.05」で出ますよね。なぜ、1.05をかけるのかわからないのです。

本当にお恥ずかしいのですが、どうか教えてください。まったくわからないので、出来る限り丁寧で細かい説明をして頂けると本当に助かります。よろしくお願いいたします。

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○...続きを読む

Aベストアンサー

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場合ですが、「オフ」=値引きです。
つまり、1000円の30%分を値引きします、ということですよね。
だから、元の値段1000円から1000円の30%分である300円を引いた
残りである700円が答えです。
でもそれを計算するのは面倒なので、ちょっとテクニックがあります。
30%オフということは、元の値段の70%分を求めればよいと考えます。
つまり、1000円の70%なので700円、となります。
ここまではいいですか?

次、達成率の計算ですが、、
目標100万円に対して売り上げも100万円だったら達成率は100%なのは
感覚的に分かりますよね?
つまり、達成率=(実際の値÷目標値)です。
%で表現する場合はこれに100を掛けます。(●%=●÷100だから)
たとえば目標50万円で売り上げ35万であれば35÷50×100なので70%になります。

最後、消費税。前述のオフとは逆で、消費税5%分を上乗せする、と考えます。
つまり、税抜き●円であれば、●円と●円の5%を足した金額が税込み金額です。
式にすると●+(●×5÷100)です。
これが基本ですが、先程のオフの計算のテクニックと同じ考え方が適用できます。
5%上乗せした額ってことは、元の値段の105%分を求めればよいと考えます。
ですから●×(105÷100)です。
ここで出てくる(105÷100)は1.05ですよね。
つまり、元の値段●に1.05を掛ければよいのです。

おまけ。暗算を早くするためのテクニック初級編として3つだけ書いておきます。
1.計算式に掛け算と割り算しかない場合、もしくは足し算と引き算しかない場合、
  順番を無視しても答えは一緒です。
  上の例でいくと35÷50×100は35×100÷50でも答えは一緒です。
  で、100÷50を先に計算して、それに35を掛けます。
  これならすぐに暗算できますね。

2.割り算の場合、前後の数字に同じ値を掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば35÷50であれば、前後に2を掛けて(35×2)÷(50×2)でも
  答えは一緒です。
  35÷50の暗算は一瞬悩むけど、70÷100なら簡単ですよね。

3.掛け算の場合、前後の数字を分解して細かく掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば25×32を計算する場合、32は4×8なので25×4×8を計算しても
  答えは一緒です。
  25×4は100、100×8で800ということで25×32=800です。
  これなら暗算できそうですよね。

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場...続きを読む

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

QWould you like~?とWould you~?の違いは

相手に何かをお願いするときに、
Would you like~?
Would you~?
と両方の言い方があると思うのですが、likeをつけるかつけないかはどのように判断するのでしょうか?
また意味はどう変わるのでしょうか?

Aベストアンサー

Would you~?「~していただけませんか?」は丁寧な依頼表現、Would you like~?「~は如何ですか?」は丁寧な勧誘表現です。

依頼表現で使われるwouldやcouldは、「条件節(if節)の内容を言外に含めた婉曲用法」なのです。つまり、「(もし~できるのであれば)~していただけるでしょうか」と丁寧で控え目な調子を出すことができます。Will you~?やCan you~?はただの助動詞の勧誘表現ですから、wouldやcouldのような婉曲用法はないのです。

Would you like~も同じ婉曲用法で、「(もし私が~を勧めたら)~をお気に召すでしょうか?」という丁寧で控え目な調子の出る勧誘表現なのです。I would like to~「~したい」(~することをできればしたい)という表現もこの用法からきているのです。

Would you like~のlikeは「~を好きである」という他動詞でlikeの後に名詞を目的語として持って来ることができます。例:
Would you like another cup of tea?「もう一杯紅茶如何ですか?」
Would you like going on a picnic?「ピクニックに出かけるというのは如何でしょう?」
Would you like to go on a picnic?「同上」(このto不定詞は名詞的用法)

ご参考になりましたでしょうか。

Would you~?「~していただけませんか?」は丁寧な依頼表現、Would you like~?「~は如何ですか?」は丁寧な勧誘表現です。

依頼表現で使われるwouldやcouldは、「条件節(if節)の内容を言外に含めた婉曲用法」なのです。つまり、「(もし~できるのであれば)~していただけるでしょうか」と丁寧で控え目な調子を出すことができます。Will you~?やCan you~?はただの助動詞の勧誘表現ですから、wouldやcouldのような婉曲用法はないのです。

Would you like~も同じ婉曲用法で、「(もし私が~を勧め...続きを読む

Q誰か教えてください

まずは次の問題を見てください

Q藤原氏はどのようにして、摂政や関白の地位につき政治の実権をにぎったか。40字以内で書きなさい
A他の貴族を退け、娘をきさきにして、その皇子を天皇にたてたりし た。

これは公立の高校受験にでた過去問です。このような問題は今まで学習をするなかでたくさんありました。
次の答えじゃダメでしょうか?
「自分の娘を天皇と結婚させたから」
とても短いし、上の回答を見ると間違ってるように思うのですがどなたか教えてください。また上の回答よりも簡単で覚えやすい解答がありましたら教えてください。
あと、鎌倉幕府の開かれた年について質問です。1192年と学校では習いました。ごろあわせと一緒に。しかし、最近テレビを見てる中で
「源頼朝が征夷大将軍になった年が鎌倉幕府が開かれた年」
というふうにあってました。
そこで疑問に思ったのですが、もしもテストで出た場合どのように答えればいいのでしょうか?学校の先生に聞いたこところテストには絶対にでないといわれましたが少し心配なので回答お願いします。

長くなりましたけど誰か教えてください

まずは次の問題を見てください

Q藤原氏はどのようにして、摂政や関白の地位につき政治の実権をにぎったか。40字以内で書きなさい
A他の貴族を退け、娘をきさきにして、その皇子を天皇にたてたりし た。

これは公立の高校受験にでた過去問です。このような問題は今まで学習をするなかでたくさんありました。
次の答えじゃダメでしょうか?
「自分の娘を天皇と結婚させたから」
とても短いし、上の回答を見ると間違ってるように思うのですがどなたか教えてください。また上の回答よりも簡単で覚えやす...続きを読む

Aベストアンサー

No2です。根拠をはっきりと示しませんでしたので資料を利用しながら追記します。
中学の模擬テストの問題に関することとが前提ですので、本来は中学の教科書を基本にすべきなのですが、手に入れることが出来たのが山川出版社の高校日本史教科書「詳説 日本史」ですので、その記述を参考にしながら考えて行きたいと思います。(「詳説 日本史」は都内の書店で買えますのし、問題になるほどの権威ですので)

摂関政治の成立の時期を考えるときに、天安2年(858)の良房の摂政就任から、治歴3年(1067)の頼通引退までを一般的には想定されますが、良房・基経の二代または忠平を含め前期摂関制として摂関政治に含めない考え方もあります。
この件については、『詳説 日本史』では、安和の変までを「藤原氏北家の発展」として、次の「摂関政治」の見出しで、「摂政・関白が引き続いて任命され、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろの政治を摂関政治とよび、…」しています。これは、他氏排斥を前期摂関制での出来事とし、摂関政治に含めない考え方からです。この部分の記述は「藤原氏北家の発展」に、「村上天皇の死後の969(安和2)年に、左大臣の源高明が左遷されると(安和の変)、藤原氏北家の勢力は不動のものとなり、その後は、ほとんどつねに摂政または関白がおかれ、その地位には藤原忠平の子孫がつくのが例となった。」としています。
前期摂関制を摂関政治に含める、含めないはともかくとして、前期摂関制がその後の摂関政治の展開と違いがあることは確かです。そのためにも、良房以来頼通に至るまでに12名の摂政関白が誕生しますが、その最初の摂関任命時の身内関係および任命直近の官職を見ていきましょう。次に一覧を作ってみました。( )内は任命直近の官職ですが、直前に摂関就任のために官職を急に上昇させた場合はその官職も記述しました。数字は序列の番号です。(道長については実質的な摂関としての内覧時)

良房は娘の明子の子、清和天皇の外祖父として摂政に。(太政大臣(1))
基経は妹の高子の子、陽明天皇の外伯父として摂政に。(右大臣(2))
忠平は姉の穏子の子、朱雀天皇の外叔父として摂政に。(左大臣(1))
実頼は近親ではなく、冷泉天皇の関白に。(左大臣(1))
伊尹は妹の安子の子、冷泉天皇の外伯父として摂政に。(大納言(5)→右大臣(2))
兼通は妹の安子の子、円融天皇の外伯父として関白に。(権中納言(11)→内大臣(3))
頼忠は近親ではなく、円融天皇の関白に。(左大臣(1))
兼家は娘の詮子の子、一条天皇の外祖父として摂政に。(右大臣(3))
道隆は妹の詮子の子、一条天皇の外伯父として関白に。(内大臣(3))
道兼は妹の詮子の子、一条天皇の外伯父として関白に。(右大臣(2))
道長は姉の詮子の子、一条天皇の外叔父として内覧に。(権大納言(7))
頼通は姉の彰子の子、後一条天皇の外叔父として摂政に。(権大納言(7)→内大臣(4))
これを見ると、天皇の外祖父であるもの2名、外伯叔父8名、その他2名です。圧倒的に外伯叔父としての摂関就任が多いことが分かります。中学では使用するかどうかは不明ですが、天皇の母方の祖父・伯叔父=外戚であることになります。
さらに、良房・基経の二代または忠平を含め三代は官職において最高位にあり(基経については実質と言うべきですが)、政治権力を握っています。さらに良房の承和の変・応天門の変、基経の応天門の変、時平の道真左遷、実頼時の安和の変などのています。
また、大分専門的になりますが、前期摂関制においての摂政・関白の任命には、最高の官職でありながら職掌がはっきりしていなかった太政大臣の職掌の明確化という問題(関白と言う言葉が最初に現れるのが、官職名ではなく「関わり白す-かかわりもうす-」という職務内容を表す動詞であったことにも表れます)。陽成天皇の廃位と、光孝天皇の擁立、臣籍にあった宇多天皇の擁立などの擁立の臣である基経の処遇(阿衡の紛議など)。以上のような律令が想定していない事態への対処という面もあり、摂関制度が定着するまでの時間と考えられます。
前期摂関制についての条件節ということについてまとめるならば、摂関制度が定着するまでの時期であり、外戚であり、政治権力を握り、他氏排斥が行われ、というようなことではないでしょうか。

次の時期の伊尹(実頼は外戚でもないので除外しておきます)以降を見ると、摂関就任前の官職が大臣ではなく、納言が多いことが目に付きます。序列1位は誰もいません。政治権力を握って摂関に就任するのではなく、摂関に就任することにより政治権力を確立していった時期といえます(摂関になってしまうと権力は安定します)。また、外伯叔父であること、安子・詮子・彰子の兄弟と言うことも目に付きます。安子・詮子・彰子は「国母」と呼ばれる立場にあり、絶大な影響力を子である天皇に持っていました。伊尹・兼通・兼家は安子の同母兄弟、道隆・道兼・道長は詮子の同母兄弟、頼通は彰子の同母兄弟なのです。当時は多くの妻と、その間に多くの母が違う子供がいましたが、子供は生母の身内-祖父母や伯叔父など-が面倒をみる習慣があり、母親を含め母方の影響力が強くなる背景でした(天皇家の場合も同じで、摂関制度の成立の背景でもあります)。ですから、母が違うと同じ父親の子供と言えども一体感は持ちづらかったと言われています。逆に、母方は夫を含め子供の面倒を見ることになります。母方の(国母を含め)摂関が天皇の後見(うしろみ)として天皇を支えることも、この関係の中で理解されます。摂関は摂関家から選ばれ、摂関は常置される中で、誰が摂関になるかは、外祖父がいない場合は外伯叔父となり、同母兄弟間の争いが激しくなります。「兼通・兼家」と「道隆・道兼・道長」の同母兄弟間の争いがこれに該当しますが、これ以外に道長と甥の伊周(道長の兄道隆の子)の争いも有名です。これに決着をつけたのが国母と言われた安子・詮子です。兼通が自分より官職で上位にあった同母弟の兼家を抑えて摂関に就いたのは、亡き同母妹安子の「摂関は兄弟の順に」と言う遺言の存在であり、道長がやはり官位上位の甥の伊周を抑えて摂関に就いたのは、同母姉詮子が一条天皇に強力に圧力をかけた結果であることは有名な史話です。国母を中心とする母方が重視され、母方が夫や子供の面倒をみるという時代背景(前期摂関制でもこの傾向は同じとは思います)の中での摂関の常置ですから、前期摂関制とは違った面が出てきます。天皇-国母-摂関の相互関係が大切だと言うことになります。
伊尹以降の条件節を考えると、国母を中心とする母方の影響力と、同じようなことではあっても外戚であることということになるのではと思います。この部分の『詳説 日本史』での説明は以下のようになっています。
「摂政・関白が引き続いて任命され、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろの政治を摂関政治とよび、摂政・関白を出す家柄を摂関家という。摂政・関白は藤原氏のなかで最高の官職を持つものとして、藤原氏の「氏長者」を兼ね、氏全体を統率し、絶大な権力を握った。
摂関家の内部では摂政・関白の地位をめぐって争いが続いたが、10世紀末の藤原道長の時におさまった。道長は4人の娘を皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権威をふるった。後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇は道長の外孫であり、道長のあとを継いだ藤原頼通は、3天皇の50年にわたって摂政・関白をつとめ、」摂関家の勢力は安定していた。
当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居を構えて住むのが一般的であった。夫は妻の父の庇護を受け、また母方の手で養育されるなど、母方の縁がひじょうに重く考えられていた。摂政・関白は、もっとも身近な外戚(母方の親戚)として天皇に近づき、伝統的な天皇の高い権威を利用して、大きな権力を握ったのである。とくに摂政・関白は官吏の任免権に深くかかわって…」
このように母方重視の時代背景こそが摂関政治の母胎と考えられるのです。
「ウィキペディア」の関連部分の記述は以下の通りです。
「それは摂関政治に代わった院政に関しても同じ事が言える。院政の形態は存在しなくても律令政治初期の頃から、上皇が「天皇家の家父長」として天皇の保護者・後見者を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来るのである(藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は偶然では決して片付けられないものである)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
本来歴史は流れですから、後の時代の変化にも留意しながらの記述が求められると思っています。とくに摂関政治と院政の違いは、天皇の母方、父方重視の違いですから、記述には外せないのではないでしょうか。


次の鎌倉幕府の成立ですが、『詳説 日本史』では守護・地頭の設置までを記述した後、「武家政権としての鎌倉幕府が確立した。」とし、奥州征服、右近衛大将就任の記述の後に、「征夷代将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実ともに成立してから…」として、成立を1つにまとめていません。

「ウィキペディア」の関連部分の記述は以下の通りです。
「かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C

鎌倉幕府の成立年については説がいくつかあって、それぞれが有力で、一つに決められないのが現状です。ですから、「学校の先生に聞いたこところテストには絶対にでない」ということに結果的になります。

以上長々と述べてしまいました。参考まで。

No2です。根拠をはっきりと示しませんでしたので資料を利用しながら追記します。
中学の模擬テストの問題に関することとが前提ですので、本来は中学の教科書を基本にすべきなのですが、手に入れることが出来たのが山川出版社の高校日本史教科書「詳説 日本史」ですので、その記述を参考にしながら考えて行きたいと思います。(「詳説 日本史」は都内の書店で買えますのし、問題になるほどの権威ですので)

摂関政治の成立の時期を考えるときに、天安2年(858)の良房の摂政就任から、治歴3年(10...続きを読む


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