幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
私はそのとき他人に確認していないのですが、仮に他人が「そんなものは見えない」と言っても、私には見えるのであるから、それだけで幻覚であるとはいえないと思います。他人がうそを言っている場合、他人が見逃してしまった場合、その他、いろいろ可能性はあるでしょう。

私は幻覚が存在してしまっては困るというわけではありません。ただ、幻覚が存在するためには何か条件があるような気がするのです。例えば、私が見たものはすべて存在すると思っている人には幻覚というものが理解できないはずなのです。そして、おそらく多くの人がそう考えていると思います。
幻覚というのは他人が言明するものであって、当人が言明するものではないのでしょうか?しかし、私は他人に何も言われずに、自分で、幻覚が見えたと言ってしまいました。これはどう説明したらよいのでしょうか。私は他人の視点に立てたのでしょうか。

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A 回答 (25件中21~25件)

幻覚に似た言葉に、「錯視」や「錯覚」があります。

それらは、「見間違い、勘違い」という範疇に収めることができると思います。

これに対して、幻覚は、脳内で完結する感覚で、他の回答者様の仰るとおり、『夢に近いもの』と考えることができるかと思います。

視覚のプロセスは、光が目の網膜上に像を写し、その刺激を複数の各神経が脳に送り、その情報を『脳内で再構成』していると考えられています。
その際構成している場所と、夢を見る(思考する・想像する)場所とが同じではないかという実験結果もあります。
ですから、考え事をしていると、ドブに足を突っ込んだり、人にぶつかったりと、視覚前方への注意が希薄になります。

本人にしてみれば、「考え事をしていた。」ということになりますが、これが頻繁に起こると、大変危険なことになります。

これを『幻覚』と呼ぶのか、安全な場所でよく考えてみてください。

この回答への補足

視覚の構成の場所と夢を見る場所が同じところにあるのならば、それを区別するのは何なのでしょうか?
私はまぶたを閉じた状態で顔を動かすと連動して景色が移動するということがありました。まるで、目を開けた状態のようでした。

補足日時:2005/09/18 21:33
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2番の者です。


「実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること。」は1人でも可能です。

幻覚を見ている時は「寝ていないのに夢を見ているような状態」です。

あなた自身、夢の中で痛いと感じたり、深夜でも「昼間にプールで泳ぐ」状況を映像として見ることや、空を飛んだり、自分がロボットになったり、崖から落ちそうになってビクッとすることがあるでしょ?

目が覚めたら実際には何も痛いことはされてないし、昼でもないし、飛んでもいないし、ロボットでもないし、崖から落ちてもない。
ただ寝てただけです。
夢があることを実証するのに他人が必要ですか?

夢は存在しますし、幻覚も同じように存在します。

この回答への補足

それが夢だったとわかるのではなく、それが夢だったと解釈しているのではないですか?それが普通の解釈であることはわかりますが、さっき自分がロボットになっていたのが、今は自分がロボットでなくなっているというだけのことではないですか?ここに夢の登場は必要でしょうか?夢や幻覚は余計なもののような感じがします。しかし、なぜか夢や幻覚を当たり前につかってしまうのが不思議なのです。

補足日時:2005/09/18 21:20
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『幻肢』や、『あるはずの無い四肢の痛み』を訴える患者についての本があります。




「脳の中の幽霊」
        角川書店
V.S.ラマチャンドラン
サンドラ・ブレイクスリー 共著
山下篤子訳

http://www.bk1.co.jp/product/1692847

参考URL:http://www.infoseek.co.jp/OTitles?col=OW&svx=980 …

この回答への補足

それは医者の目から見たものではないでしょうか?医者から孤立した患者は幻肢というものはないとは言えませんか?私は患者自身がどのようにして幻覚がわかるかということに疑問を持っているのです。

補足日時:2005/09/18 21:14
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大辞泉によると「実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること。

幻視・幻聴など。」らしいです。
幻覚は「ある」のだろうと思います。
幻覚は脳内で正常な判断ができなくなった時に現れるのだと思います。
たぶん睡眠不足、疲労、薬などの影響によるものです。

普通、幻覚は1人で見るものなのだと思います。
数人で幻覚を見るのは、雪山で遭難して全員が極限状態になった時とかぐらいじゃないでしょうか。

昔、何時間寝ないでいれるかというギネス記録にチャレンジした人は最後、幻覚を見ておかしくなったのでチャレンジを止めたらしいです。

この回答への補足

「実際に感覚的刺激や対象がないのに」というとき、それはどのようにして「ない」と判断できるのでしょうか?誰が判断するのでしょうか?少なくとも当人ではないはずです。「あるように知覚すること」というのは当人が判断することだと思うのですが。

補足日時:2005/09/18 17:38
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この回答への補足

錯覚と幻覚については多少区別されると思うのですが、どうでしょうか?

補足日時:2005/09/18 17:08
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Q錯覚?幻覚?共感覚?

19歳女です、先日不思議なことがあったので質問させていただきます。

天気がいいお昼時、ベットで寝ていました。
私の右には窓があって、太陽の光が気持ちよいです。
ぼんやりしていると、窓の方向、右から左へと、
小さな透明のつぶつぶがひゅんひゅんととめどなく、とおりすぎてゆきます!
光に形ができたものを目で見ているような感覚でした。
目の中のゴミでもないし、ホコリとも違いました。

それをずっとみていると、限りなく透明に近い青い何かが
視界の左から現れ、うようよしはじめました。

それが消えたかと思うと、

目の前から、黄色いもやのようなものが広がってきて
それにつつみこまれてまた透明になる、そしてまた黄色いもやが広がってきて
つつみこまれる。っていうのが何分間もの間くりかえされました。

こんな感覚はじめてです。だけどどこか懐かしいような‥?

とても抽象的でほわほわした感覚でした。

これは一体なんなのでしょう!?
ちなみに体も精神も健康で、熱もなく、
とても冷静に、リアルにそれを眺めていました。

Aベストアンサー

こんにちは、

要求の階層説を提唱したことで有名なアメリカの心理学者、
アブラハム・マズローの着目した体験に「至高体験(peak experence)」と呼ばれる体験があります。

この至高体験とは、日常生活の中で起こるとても幸福感を感じる体験ことで、
色々な定義があるようですが、7461345さんの体験も、
広い意味で至高体験にあたるものと思われます。

至高体験には、日常生活、非日常的感覚(=超常的な視覚や音・触感覚)、
幸福感、覚醒感(リアルさ)、時間(数分~十数分間つづく)、このような特徴があります。

残念ながら、私には、その体験の解釈はできませんが、
貴重な体験をされたのだと思います。悟りなどにつながる体験と言う人もいます。

もしかすると「目に見えているモノだけがこの世界ではないよ」と
いうようなメッセージだったのかも知れませんね。

こういった体験を話すと、幻だとか、身体的な不調などと関連づける人もいるかと思いますが
もちろん、別の意味で健康診断は、当然必要なものだと思いますが…
他人が何と言っても、7461345さん自身の感性と感覚を大切にして戴きたいと思います。


マズロー、至高体験、トランスパーソナル心理学、などで検索されて見てください。

参考URL:http://blog.livedoor.jp/elma0451/archives/50841101.html

こんにちは、

要求の階層説を提唱したことで有名なアメリカの心理学者、
アブラハム・マズローの着目した体験に「至高体験(peak experence)」と呼ばれる体験があります。

この至高体験とは、日常生活の中で起こるとても幸福感を感じる体験ことで、
色々な定義があるようですが、7461345さんの体験も、
広い意味で至高体験にあたるものと思われます。

至高体験には、日常生活、非日常的感覚(=超常的な視覚や音・触感覚)、
幸福感、覚醒感(リアルさ)、時間(数分~十数分間つづく)、このような特徴があります。

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Q嫌なものも良いものも この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。 生きて

嫌なものも良いものも
この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。
生きてる間ではなく転生してからってことです。(順番に全ての人間とか生き物になる)

同じ時間軸にあるからそんなこと有り得ない、と思っても時間というものは本当に存在するのかもわからないと思うんです。

宗教などは進行しておりません...
高校生です。

考えれば考えるほど
悲しくなって辛いです...
もし悪い運命が決まっている人になったらとおもうとこわくて。

意見を聞かせてください。

Aベストアンサー

「高校生です」
⇒中学の思春期から高校までは、子供から大人になる中間で多感な時期ですね。

でも、まだ社会のほんの一部しか知らないはずです。
なので、頭の中でいくら考えても、それは夢の中のようなものです。

これから、いろんな人と出会い、いろんな人と行動を共にしていくでしょう。
それらの経験の積み重ねが自分を作っていきます。

大切なのは、行動して経験したことです。
それはこれからの楽しみにしておきましょうね。

Q幻覚、幻聴、疑えるだけの正気がある時点で違う?

{今視界を横切ったのは幻覚かもしれない}
{聞こえ続けているこの声は幻聴かもしれない}
と考える感覚があるということは、幻覚・幻聴ではないということですか?

Aベストアンサー

ネットは不思議な世界ですよね。
ここで回答していると、何処かで会ったとしても唯通り過ぎるだけであろう人たちに語りかけたり、過去の話を聞いたり。

私はここではおしゃべりですが、普段は自分の話を人にはしません。
家族のことも相談したりしません。
他人の前では全部しまっておきます。余程のことがなければ…。

私も気になって1982_12_27さんの質問は度々見ていました。
回答に参加しなかった分も含めて。
「本当に大丈夫かなー?」と思って。

大丈夫なんでしょうか?
返事がないと言うことは吹っ切れたと言うことなんでしょうか。
それとも、質問文にあるようなことに悩まされ続けているのでしょうか。――心配です。

病院に行っても根っこがあるから、唯の気休めにしかならないのかな。
塩でも盛っておきますか。何もしないよりは良いのかな。
 
でもあんなことがあっては、誰に何と言われようが平気ではいられませんよね。
時間は戻らないから、ずっと謝り続けるしかないんでしょうね。
あなたは本当の悪人にはなれないんだから。


スピリチュアルな世界はあると思う人にはあるし、無い人にはないんでしょう。見えない人にはないのと同じ。

見えたって自力ではどうしようもないのなら、心から謝るしかないでしょう?――本当の悪人になれたら見えなかっただろうにね。
でも、その方が楽なんだろうけれど救われない人になってしまいます。
死を悼む心を無くしたらその方が病気です。


あなたは根が信心深い人のようだから、自分で理性が保たれていると思う内に、お寺に行ったりお遍路に行ったりした方が病院に行くよりも良いのかも知れません。 

ネットは不思議な世界ですよね。
ここで回答していると、何処かで会ったとしても唯通り過ぎるだけであろう人たちに語りかけたり、過去の話を聞いたり。

私はここではおしゃべりですが、普段は自分の話を人にはしません。
家族のことも相談したりしません。
他人の前では全部しまっておきます。余程のことがなければ…。

私も気になって1982_12_27さんの質問は度々見ていました。
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「本当に大丈夫かなー?」と思って。

大丈夫なんでしょうか?
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Q“存在”について-私自身の存在、ものの存在

“存在”って哲学的な意味でどういう意味ですか?

「なにかがあること、またあるもの。在る(有る)ということ」
と辞書にはありますがみなさんどういう風に解釈してらっしゃいますか?

みなさんの考えを聞かせてください。皆さんなりの意見で結構です。
どんな意見でも聞かせてほしいです。

Aベストアンサー

個人的な考えです。
存在、つまりものがある、人がいる、ということ自体、人間が意識して考え出したものですが、人間自体もいつか滅亡した時には、存在というものは意味をなさなくなります。
自分が今生きていて、存在していることを確信しているということは事実であり、単に数百年後に証明ができないだけです。存在とは、時間の流れとともに「存在しない」に限りなく近くなること。
こう考えると空しいですが、数百年後にはこの世にはいないのですから、今存在を実感していればそれはそれで良いと思います。
存在は「必要なときに存在していると認識したい状況で認識するもの」です。
まとまりがないですね。すいません。

Q「幻覚を見る」は日本語として正しいのか?

「幻覚を見る」は日本語として正しいのか?

 タイトルのとおりです。
「幻覚を見る」という文章は、日本語として正しいのでしょうか?
 と言うのも、国語辞典で調べたところ、幻覚とは
「実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること」
「極度の疲労や脳の機能障害等によって、そこにないものが見えたり聞こえたりすること」
 とありました。
 それなら、「幻覚を見る」と言う文章は「『実際にないものを、あるように知覚すること』を見る」という、変な意味の文章になるのではないでしょうか?
 そもそも、「幻を見る」という意味の熟語が「幻覚」なのではないでしょうか?

 どうかご回答よろしくお願いいたします。
 なるべく早く回答していただければ幸いです。

Aベストアンサー

下の例のように、戦前の名文家とうたわれている作家も「幻覚を見る」と書いています。

 坂口安吾 「ヒンセザレバドンス」
・・・私は夜になると幻覚を見つゞけてゐた。・・・

 中島敦 「牛人」
・・・いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。・・・
 
 与謝野晶子 「産褥の記」
・・・斯んな幻覚を見たのは初めてである。・・・

WIKIPEDIAに
「幻覚(げんかく、hallucination)とは、医学(とくに精神医学)用語の一つで、対象なき知覚、即ち実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状をさす。聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚などの幻覚も含むが、幻視の意味で使用されることもある。」
と書いています。
幻覚の中で幻視が最も多いと思いますので、この場合は問題ないと思います。

上の三人の作家の文の幻覚を幻に替えると、ちょっと非科学的な感じがしますでしょう。
「幻覚」という一つの名詞(科学用語)ですからよろしいと思います。
「歌を歌う」は、ダブり表現になりません。

Q「見えるものと見えないもの」

世界が私の身体と同じ構造を有するとはどういうことでしょうか?

Aベストアンサー

「身体的所作」という観点から、メルロ=ポンティとウィトゲンシュタインの言語ゲームの共通点をとらえた野家啓一の『言語行為の現象学』はお読みですか?
これはなかなかおもしろい本で、メルロ=ポンティに関しては、おもに『知覚の現象学』までで、後期の〈肉〉については考察の対象になっていないのが残念なんですが。

とくに三章の「言語・身体・意味」というところでは、日常的に使われている言語を内面的人間の語る内面的言語へと還元しようとした(そうしてそこでは当然所作というものは、言語の夾雑物として排除される運命になります)フッサールを批判的に取り上げ、それにたいしてメルロ=ポンティの身体的所作は言語とおなじく、所作自身の中にその〈意味〉をあらわにしている、という主張が取り上げられます。

そうしてこんな箇所が引用される。
「私は怒りとか脅しとかを、所作の背後に隠れている一つの心的事実として知覚するのではなく、私は怒りを所作そのものの中に読み取るのだし、所作は私に怒りのことを考えさせるのではなくて、怒りそのものなのだ」(『知覚の現象学』)

つまり、「怒り」が心の中かどこかにあって、それが怒りの所作となってアウトプットされているわけではない、怒りの所作こそが怒りなのである、と。そうして言語もまた同じである。言葉それ自体がひとつの「所作」として、その〈意味〉をあらわにしている。これはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の思想へと通底するものである。

さらに『哲学探究』から、こんな箇所が引用されています。

「子供が負傷して泣き叫ぶ。すると大人がその子供に話しかけ、間投詞を教え、後には文章を教え込む。彼等は子供に新たな痛みの振る舞いを教えるのである。

『それでは君は、〈痛み〉という語がもともと泣き声を意味するものだ、と言うのか』――逆である。痛みという言語表現は泣き声の代わりをしているのであって、それを記述しているのではない」(『哲学探究』)

つまり、「痛みの所作と痛みの言葉とは互いに置換可能な〈表現〉なのであって、それらは連続的であり、そこに断絶はない。先のメルロ=ポンティの言い方を借りれば、「言葉は一つの真の所作」にほかならないのである」(『言語行為の現象学』)

『探求』のこの部分を見て思い出すのは、以前、六歳の子供が「これから何もいいことが起こらないような気がする」としくしく泣き出したときのことです。ちょうど、クリスマスとお正月が終わった時期だったので、楽しいことが終わって寂しくなってそんなことを言ったのかと思ったのですが、その子はつぎの日急に高熱を出した。インフルエンザを発症したんです。

大人であれば風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」という言葉で表現されるようなその「感じ」を、六歳の子は「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ心身二元論に完全には分節されていないから、風邪に罹った身体の不調が、未来への不安として知覚されたわけです。

もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という分節を知る以前の赤ちゃんが泣くのはそんな「感じ」なのかもしれない(たとえば赤ちゃんはなぜ眠くなると泣くのでしょう?)。言語使用をある程度は知っている六歳の子だから、泣く代わりにその不安=不調を言葉でそう表現したわけです。
なんだかすごくおもしろいなと思ったので、いまでもよく覚えています。

ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」を「子供が言葉を使い始めるに際しての言語の形態」と言っていますよね。「したがって、子供に言葉を教えるとは、言語の意味を説明してやることではなく、むしろ『振る舞い方』を訓練することに近しい」(『言語行為の現象学』)。
さらに野家はこの箇所をプラグマティックに受けとるべきではない、「言語ゲームが身体=主観としての〈語る主体〉によって営まれる行為であることの強調でなくてはならない。再びメルロ=ポンティを引けば、言葉を学び覚えることは、「身体の可能な使用法を〈身〉につけることにほかならないのである」と。

わたしたちは身体をもつ〈語る主体〉として、常にすでに「言語ゲーム」のただなかに生きている。
「言葉の意味とは、言語ゲームを生きる〈語る主体〉相互の「発語-理解」の行為の中で〈生成〉されるものであって、われわれはそれ以外の場所(心の中、脳細胞の中、辞書の中 etc.)に〈意味〉なるものを捜し出すことはできないのである。(中略)

「言語ゲーム」とは間主観的意味構成が行われる根源的な〈場〉にほかならない。メルロ=ポンティにならって、超越論的主観性を間主観性と読み換えることが許されるならば、言語ゲームは生活形式の一部としてわれわれの経験的〈生〉に連なる事実概念であるつつも、同時に意味生成の根拠として超越論的機能をも担っていると言うことができる」(引用同)

ご質問に返って

> 世界が私の身体と同じ構造を有するとはどういうことでしょうか?

ということに即してみるならば、こう答えることも可能かもしれません。
〈私の身体〉も〈世界〉も、言語ゲームによって基礎づけられている、と。

〈わたし〉があらかじめあるのではない。
世界に囲まれ、その中で他者や事物と遭遇し、言語ゲームを介して、身体を備える〈語る主体〉としての〈わたし〉が立ち現れてくる、と。

ただ、わたしのなかで〈肉〉をそのまま「間主観性」と言っちゃっていいのか、とも思うんです。言葉が思想の衣装ではないとしたら、〈肉〉と「間主観性」は異なるもののはずだ。この強烈な表現にせよ、レヴィナスの〈イリヤ〉にせよ、言葉=思想のはずですよね。

こんなふうに考えると、やっぱりカントの〈崇高なもの〉を思い出してしまう。崇高なものとは「構想力にとって法外なもの」であり、「いわば一個の深淵である」(『判断力批判』)

呈示されないものを呈示しようとして、ぎりぎりのところを手探りして出てきたのが〈肉〉や〈イリヤ〉や、あるいは〈現実界〉、〈言語ゲーム〉であるとしたら、それぞれの共通するもの、異なるものの分析を通じることによって、〈崇高なもの〉はその片鱗を顕すのかもしれません、っていうと、きれいにまとめすぎか。


ところで

> 科学者は「モデル」と、現実社会に内在する構造とを取り違えることは無いのである。

ですが。
質問者さんは「モデル」という言葉で表現されていますが、わたしはむしろ「換喩」と表現したいような気がします。

「構造」にせよ「世界」にせよ「システム」や「関係」、あるいは「身体」「心」「主観」にしても、わたしたちはこういう言葉を日常的にかならず換喩あるいは提喩として受け取っているのだなあ、と改めて思いました。

#4の方が

> まさか「身体にに手や足や目や耳がある」ように「世界にも手や足がある」というふうなことではないでしょう。

とおっしゃっておられるのを拝見しても、わたしたちは「構造」という語、あるいは世界という語を身体図式になぞらえて理解していることがよくわかります(ここで引用したことに他意はありません。どうか感情を害されることのありませんよう)。

一般に知覚と想像力は異なる能力である、ときに対立するものであるように考えられていますが、(たとえば「現実を見ろ」という叱責にあきらかなように)、知覚が成り立つためには、現実には想像力が大きな役割を果たしています。

想像力の働きによって原因と結果を結び、部分と全体をひとまとまりのものとし、記号で記号によって意味される事物を理解しているわけですが、こういうことはすべて換喩のやり方なんですね。

このように考えてみると、手や髪の毛や足の小指の爪の先をも「わたしの身体」という言葉に統合して理解することも、目の前の「あれ」も「これ」も、見ることのできない遠くの世界で起きた「あのこと」も「そのこと」もひっくるめてひとつの「世界」という認識の仕方をしていることも、まさに同じ「換喩」という構造によって成り立っている、と言えるのかもしれません。

「身体的所作」という観点から、メルロ=ポンティとウィトゲンシュタインの言語ゲームの共通点をとらえた野家啓一の『言語行為の現象学』はお読みですか?
これはなかなかおもしろい本で、メルロ=ポンティに関しては、おもに『知覚の現象学』までで、後期の〈肉〉については考察の対象になっていないのが残念なんですが。

とくに三章の「言語・身体・意味」というところでは、日常的に使われている言語を内面的人間の語る内面的言語へと還元しようとした(そうしてそこでは当然所作というものは、言語の夾雑...続きを読む

Q幻覚は存在するか?

幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
私はそのとき他人に確認していないのですが、仮に他人が「そんなものは見えない」と言っても、私には見えるのであるから、それだけで幻覚であるとはいえないと思います。他人がうそを言っている場合、他人が見逃してしまった場合、その他、いろいろ可能性はあるでしょう。

私は幻覚が存在してしまっては困るというわけではありません。ただ、幻覚が存在するためには何か条件があるような気がするのです。例えば、私が見たものはすべて存在すると思っている人には幻覚というものが理解できないはずなのです。そして、おそらく多くの人がそう考えていると思います。
幻覚というのは他人が言明するものであって、当人が言明するものではないのでしょうか?しかし、私は他人に何も言われずに、自分で、幻覚が見えたと言ってしまいました。これはどう説明したらよいのでしょうか。私は他人の視点に立てたのでしょうか。

幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
私はそのと...続きを読む

Aベストアンサー

『障害を持っているため幻覚が見える人が、どうしてそれが幻覚であるかわかるのか』という疑問だと思います。

(脳の中の幽霊より)
有名なものにシャルルボネ症候群 というものがあります。
ラリー・マクドナルドは交通事故にあって幻覚を見るようになりました。
どれが本物でどれがニセモノか最初は区別できなかったそうです。
ベッドの側に医者と看護婦とフットボール選手はフラダンサーがいて、四方八方から声が聞こえてきて、いったい誰が喋っているのかわからない状態だったそうです。
脳がなんとか修復してくれ、現実と架空の声を聞き分けられるようになったそうです。

医者のラマンチャンドラン(脳の中の幽霊の作者)が「今でもそういうものがみえますか」と聞くと、「ええ、今も部屋の中に見えます」と言いました。

何が見えるかと聞くと、ラマンチャンドランの膝の上に猿が乗っているのが見えるのだそうです。
「どうして幻覚だとわかるのか」と先生が聞くと、「それはわかりません。でも、猿を膝の上に乗せている教授というのは、あまり考えられないので。だから本当じゃないと思ったのです」と答えました。

さらに、「でも いきいきとして本物に見えますよ」
「まあ 一つには何秒か何分かたてば消えるので、本物じゃないとわかるのです。幻覚が周りの風景になじんでいることも時々あるが、それでも、とうていありえそうにないので、ふつうは人に言いません」
と言っていました。

とても鮮明で本物より本物らしく見えるそうです。
時にはひどく周りの風景になじんだアニメの登場人物も見えるそうです。
普通は<ありえない>と理性が働くので、幻だと思うのではないでしょうか。
その後 見えなくなるので、「やはりあのとっぴなものは幻だったか」ということに慣れているのではないかと。

まぶたを閉じても変わらず見える というのも確かあったと思います。


例えば色盲の人には存在するのに目では認識できないということがたびたび起こると思います。
すると、普通は見えるのでなんでこの人は書いてあることを守らないのだろう となる。
しまいには「ここに書いてあるではないか」と示したものは、色盲の人には見えないので、この「書いてあるではないか」と主張する人が変 または幻覚を見ていると思うか?

小さい頃からそういうトラブルに何度も遭遇しているはずなので、自分が見えなかったのか とまず考えるようになると思います。

これがもし 色盲の人がほとんどなら、信号機は作られなかったと思います。
色を認識できる色盲のレベルの基準で芸術も生活も、創造されていったと思えます。
だって、認識できない色を使いようが無いから。

遠赤外線が見える人たちがほとんどなら、また違った世界になっていたと思います。


追記
シャルルボネ症候群の人がよく見るものに幽霊があります。
シャルルボネ症候群になることで、幽霊が見える能力を獲得する というより、無いものが「見えた」と知覚してしまう障害です。
(だいたい数秒から数分で消える)
そういう障害を理解しているシャルルボネ症候群の人は、人が突然消えたとき、「幽霊がいた」と思わず、「幻覚だったのか」と思うのだそうです。

『障害を持っているため幻覚が見える人が、どうしてそれが幻覚であるかわかるのか』という疑問だと思います。

(脳の中の幽霊より)
有名なものにシャルルボネ症候群 というものがあります。
ラリー・マクドナルドは交通事故にあって幻覚を見るようになりました。
どれが本物でどれがニセモノか最初は区別できなかったそうです。
ベッドの側に医者と看護婦とフットボール選手はフラダンサーがいて、四方八方から声が聞こえてきて、いったい誰が喋っているのかわからない状態だったそうです。
脳がなんと...続きを読む

Q私が神で、私しか意識が無くて、他人はいない、他人はロボット人間なのでは?

削除されたので、再度投稿します。

http://www1.ttcn.ne.jp/turu/24tanin.htm
他人はいない
こんなのもあるし、

で・・・
とある動画で、なんか??
「映像と、音声が一致していない」ように思えます。

つまりは、他人=ロボット人間で、私だけ意識のある、ある意味私が神なのでは?

また、新世紀エヴァンゲリオンでも、「私だけしか居ない」とかあります。

Aベストアンサー

ネットにも抽象的な「私」が存在していますね。この瞬間、ネット上の自分が自分になっていないか?そこに「私」がいるとしたら、いまの私は一体誰が見ているんだろうか?生活の全体を通して「私だらけ」です。。そこに私は居ません。外に答えを探そうとすると迷います。疑問も迷いから出された、ひとつの答えです。それを意識ある私が考えています。目まぐるしく移り変わる世の中と無数の出来事の数々、台風の中心には目があって、その中心が本当の私なのかもしれません。内と外に荒れ狂っていないところがあります。そこに気を配ることもできます。入ってくる情報や生活に追われてしまうと、自分の存在意義が遮断されてしまいます。どこかにあるべき自分の姿、つまり「私」を探すことになるんです。

Q大麻で幻覚、幻聴ってマジ?

大麻で幻覚や幻聴がおこるってほんと?
大麻以外の麻薬と併用しててそっちのせいで起こったとかじゃあないの?
科学的に大麻で幻覚、幻聴がおきるってマジ?
これを科学的に調べる場合どうするんでしょう、マウスでは幻覚と幻聴は調べられないんじゃ・・・。

Aベストアンサー

>大麻で幻覚や幻聴がおこるってほんと?

大麻吸引時の注意事項としては、
「感覚が研ぎ澄まされる」ということが言われます。
これは聴覚以外の五感が麻痺することで
聴覚だけが異様に感知されることによります。
それが幻聴と思われるのかもしれません。

幻覚ではありませんが、
マジックマッシュルームと同様
虹色の帯がみえることがあるという報告もあります。

また、「感覚が研ぎ澄まされる」と同様
心理状態が増幅されるということもよく言われており、
不安な心理をもって吸引すると不安が増幅され、
いわゆる「訳がわからないが怖い」状態になることがあります。
特に初心者が見知らぬ人達と異国の地で体験すると
そのような状態になりやすいといいます。

インドで日本の若者がビルの上層階からいきなり
飛び降りたなんて話しも聞きましたが。


>これを科学的に調べる場合どうするんでしょう

科学的な分析についてはわかりませんので他の方にお任せします。

Q存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛 分かる人?

存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛

この意味が分かる人居ますか?腕に覚える人は見抜いて下さい。

端的に書き表してください。

Aベストアンサー

私が何に悩んでいたかが分かりました。

この「存在性理論」は、「空間」というものがすでに
あるものということだけでなく、「存在」というもの
もすでにあるものという前提での理論であると思いま
した。

それならば、例えば「人間」という存在に「物質」面
と「精神」面が備わっているということや、子供が生
まれることも、進化してゆくことも、この理論で説明
できそうです。
唯物論と唯心論をまとめる、新しい理論であるとおっ
しゃることも分からないではないです。

しかし、私が悩んだのは、№12で申し上げた、宇宙の
元初の状態から「存在」が生じるということについて
は、この理論では説明できないだろうということでし
た。
その部分は「真理」ということで「未知」ということ
でよろしいのですね?
尤もこれが分かったら、えらいことですが‥‥


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