幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
私はそのとき他人に確認していないのですが、仮に他人が「そんなものは見えない」と言っても、私には見えるのであるから、それだけで幻覚であるとはいえないと思います。他人がうそを言っている場合、他人が見逃してしまった場合、その他、いろいろ可能性はあるでしょう。

私は幻覚が存在してしまっては困るというわけではありません。ただ、幻覚が存在するためには何か条件があるような気がするのです。例えば、私が見たものはすべて存在すると思っている人には幻覚というものが理解できないはずなのです。そして、おそらく多くの人がそう考えていると思います。
幻覚というのは他人が言明するものであって、当人が言明するものではないのでしょうか?しかし、私は他人に何も言われずに、自分で、幻覚が見えたと言ってしまいました。これはどう説明したらよいのでしょうか。私は他人の視点に立てたのでしょうか。

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A 回答 (25件中11~20件)

#10です。



>これは古典哲学に多い誤謬なのですか?

人の幻覚を見たことを受容しようが、自分の幻覚を見たことを確信・言明しようが、存在と何の関係が?
「峠を越えたときに、彼は、神が雲の中に立っておられるのを見た。」しかし「それは実際見たわけではなく幻覚と彼は承知している」という場合--
脳の中の幻覚という現象を神経細胞機能による知覚という意味で存在と呼ぶ(しかしその存在という言葉の使い方はそもそも間違っています)ならば存在したといえます。幻覚で見た神の存在を問うならば、誰にも答えは出せず、命題は無意味。#12さんの猿で置き換えてもいいでしょう。--
「思惟と対象は一致するか」という昔ながらの命題のように偽の命題を含んでいるものについて、いくら思索を重ねても存在を記述することなんてできないと言っているのです。

>ヴィトゲンシュタインは哲学探究を読めばよいのでしょうか?

順番から言ってまずは『論理哲学論考』でしょう。
言語ゲームを語る『哲学的探求』も悪くはありませんけど。

>何か幻覚について論じているところがあるのですね。

幻覚について論理的な考察をしたいのであれば、自然科学の大脳学あたりをあたってみるべきでしょう。木星の重力や霊魂の存在を自然科学以外で説明して何か意味が有りますか。
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この回答へのお礼

命題が無意味だったんですね。
存在というのは難しいですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/20 11:40

入眠時幻覚で検索してください。


一言で言うと割と頻繁に幻覚は現れます。
これは当方も経験したことが有りますし何らかの理由で覚醒時に現れても不思議ではありません。

もう一つ盲視で検索してください。
これは意識では見えている自覚が無いのに脳は認識していると言う現象がありえることを示しています。

結論から言うと幻覚が非科学的であるという事は野蛮な発想です。
精神疾患になると症状として幻覚が現れるのは普通の事ですし、健康な人でも個性や条件によって起こり得ます。
仮に精神病患者でも幻覚を見ているのは疑いようも無い事実ですし、脳にそのような現象が起こりうる条件は有ります。

幻覚が見えても変なものを楽しんでいいですよ、大半の場合精神面にも脳にも異常はありません。

この回答への補足

私は幻覚が非科学的であるといっているのではありません。ただ、それらの事実の多くは医者、あるいは実験者の立場からのことであって、患者、あるいは被験者の立場からのことではないということなのです。

補足日時:2005/09/19 17:52
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ある知覚が、幻覚であるかどうかは、その知覚によって得られたイメージに対応するものが、物質界に存在しているかどうかで決まります。

質問者の方は、物質界に対応物が存在しているかどうかについて、調べられたかどうかは書かれていないので、それが、幻覚か、あるいは、通常の知覚かは、判断しがたいと思います。

ただ、質問者の方は、この辺のことは、恐らく、既にご了解済みのことだと思いますので、私が、今回の質問のポイントをあまりよく理解していないのかも知れません。例えば、物質界そのものが幻覚ではないかという疑問なら、非常によくわかりますが、そういう疑問では、ないんですよね。

この回答への補足

物質界に対応物が存在するかを調べるとは幻視の場合、それを触ってみるとかですかね。私はしていません。たぶん。ただ、虹というか三原色の立体画像(妖精?)が動いていました。あるいは、凝視すると渦を巻いていたり。

物質界そのものが幻覚であるということは面白いのですが、それでは、何が幻覚でなくなるのかがわからなくなり、結局、幻覚という概念は消滅してしまうと思います。それとも物質界以外で何か幻覚でないとされる候補があるのでしょうか?

私の疑問は物質界そのものが幻覚でないかという疑問とは違うと思います。でも、究極的には同じことになるかもしれません。それはわかりません。

補足日時:2005/09/19 16:55
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質問者の方の疑問点は、主観と客観の対立があった場合、如何に対処すべきか、という点に尽きると思います。

幻覚が幻覚であるとされる所以は、それが主体にのみ確認でき、客体には確認できない、という点に尽きるためです。

対立があった場合、客観を重視する、というのが現在一般的ですが、主観を重視する立場も存在します。現在の主流である前者の立場に立つのであれば、客体に確認できない以上、幻覚は存在します。
一方でもし後者の立場に立つのであれば、何であれそこにあると知覚されるものものは実際に存在するのですから、幻覚は存在しないことになります。

幽霊の存在と似た事ですね。「見た」というある人の経験(=主観)が、他のある人には「見えない」(=客観との対立)場合、幽霊がいると信じる(=主観を優先させる)かいないと信じる又は物的証拠を要求する(=客観を優先させる)かの違いで、結局立場の違いであると考えられます。
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この回答へのお礼

うまくまとめていただきました。

すべての人が同じ幻覚を見ることができないということですね。主観と客観の対立が起きないから。

それから、すべての人がそれぞれ違う幻覚を見ることはできますかね。これはちょっとわかりません。

お礼日時:2005/09/19 16:53

 > 私は他人に何も言われずに、自分で、幻覚が見えたと言ってしまいました。


 そもそも他者の視線があるから、こういう発言があるんだと思います、自分で見た物が100%実在だと思ってたら、他人とは見てるものが違うかなんて気にならないし、最初からそんなことも考えないでしょう。
 純粋な新しい経験(もしそんなものがあったとして)が、純粋な自分一人の野生の過去の経験(そんなものがあったとして)とバッティングしたのではなくて、それまでの社会的に他人と共有した過去とバッティングしたからこそ、新しい感覚の方に違和感を憶え、その感覚は個人的な異常によるものだと判断したのだと思います。
 当然、そのような感覚について本人から説明を受けた他者も、それは異常な感覚だと判断するでしょう。
 その辺が曖昧であれば、幻覚を本物と主張し、通ってしまうこともあると思いますし、そういう形で認められたある個人の幻覚が、その他大勢に物語的に伝わることはあると思いますが、幻覚が存在する為の条件を求めるとすれば、当然、他者に認められるという話になってくるので、こういう、本人が幻覚を見た云々でなく、どう他人に伝わったかという話になると思います。

 
 
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この回答へのお礼

確かに、仰るとおりだと思います。

そのまま私は幻覚を見ることができない。他人が私が幻覚を見たという発言を受容することにより、私は初めて幻覚を見たことになる。

これは私に誤解があるでしょうか?

私は幻覚を見ているという発言と彼は幻覚を見ているという発言とでは全く違うような気がしてきました。前者では他人が認めてくれなければ、それは幻覚ではなく、後者では彼にとって他人である私が認めているので、それは幻覚である。

どこか間違っているような気もしてきました。

いろいろ考えさせてもらい、ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/19 16:29

#5さんが回答されているような自然科学で説明できる問題を、「存在」という言葉を曲解して「幻覚」を思考しようとする古典哲学に多い誤謬です。


ヴィトゲンシュタインを読んでみてください。
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この回答へのお礼

これは古典哲学に多い誤謬なのですか?
ヴィトゲンシュタインは哲学探究を読めばよいのでしょうか?何か幻覚について論じているところがあるのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 16:10

>私は他人の視点に立てたのでしょうか。



かつて刊行された、「ソフィーの世界」という著書があります。(映画もありますが、「空想」という観点から書物に限りたいと思います)

ソフィーという空想の人物に依る歴史探検という内容なのですが、ソフィー自体が、架空であり、また、体感した描写も架空ということになります。しかしながら、ソフィーは、作者の代弁者でありながらも、読者の案内役でもあるというような企画であったと認識しています。

いわば、ソフィーの世界とは、架空の世界でありながら、歴史に基づいた構成になっていて、作者の世界でもあり、それを読んでいる読者の世界でもあるのです。
ここで、作者が意図した世界構成(世界観)と読者が認識した世界構成が共通したものかどうかというと、必ずしも同じではありません。
だとすれば、「ソフィーの世界」のソフィーは、架空でありながら、無数(読者の数だけ)に存在するということになります。
作者が意図したソフィーは1人であるにもかかわらず、ソフィーは無数に存在するのです。

ソフィーとは、誰なのでしょうか?

参考になれば...
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この回答へのお礼

他人の視点も架空の視点であるということでしょうか?そうではないですよね。

作者の世界と読者の世界が同じであるかどうかはどうやって判定するのでしょうかね。

毎度ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 16:04

視覚障害と似ているのですが、、、



『ある網膜の部分が、光を感受しない』というのは視覚障害と同じなのですが、その場所は「盲点」と呼ばれ、我々に共通してあるものです。


盲点
http://www2.ttcn.ne.jp/~good.live/mouten.htm

☆気付かなければ、『一生』気が付きません。
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この回答へのお礼

それは盲点でした。
盲点がない人は逆に視覚障害なのでしょうかね?そんな人はいないはずですが。
幻覚も一生気がつかない人もいるかもしれませんね。

お礼日時:2005/09/19 15:51

視覚とは実は曖昧なもので、現実世界を正確に描写しているとは限らないのです。



その原因となるものが、錯視であったり・疾患であったり...それにより、「錯覚」のような混乱が生じます。

corpus様ご指摘の通り、「目を閉じていても、視野が動いた。」というのも、『残像と記憶』が大きく影響し、それに加え、光の明暗に対する感受性が関係しているように思います。

例えば、広大な風景を写真に写した時、思った以上に小さく感じることがあるかと思います。

現場にいた自分は、複数の風景を記憶し、それを脳内で再構成し、視覚に入っていない部分も含め、ひとまとまりの映像として知覚しているのです。
一方、写真の方は、記憶の部分がバッサリと欠落していて、1つの固定ポイントを中心とした本来の風景(現実上の視覚)が表されています。

☆『知覚』と『認識』の違いは、そこにあります。

corpus様は、そのように知覚したかもしれませんが、目を閉じた状態で周囲を観察できるはずはなく、経験則と記憶とが、残像と連動し、そのような虚像を感じたのかもしれません。

ちなみに、代表的な感覚に、「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の五感がありますが、それらのうち、面白い例で、視野を覆った状態で、冷たさと痛さを区別する実験において、区別できなかったという実験結果があります。

人の感覚とは、その生体的仕組み上、案外いい加減なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ところで、写真が正確で、視覚が正確でないというのはどのようにしてわかるのですか?

お礼日時:2005/09/19 15:47

>医者から孤立した患者は幻肢というものはないとは言えませんか?私は患者自身がどのようにして幻覚がわかるかということに疑問を持っているのです。



昼間に「コウモリが見える」という人がいます。
本人は、コウモリだと思っています。。。

視野欠損
http://www.gankaikai.or.jp/info/10/03.html
飛蚊症
http://www.gankaikai.or.jp/health/15/index.html
40才こえたえらNTGにゴチューイ!
http://www.ntg40.jp/index2.html
緑内障 簡単簡易チェッカー
http://www.on.no-ip.biz/ryokunai/

この回答への補足

いろいろな視覚障害というのがあるのですね。それはわかります。しかし、それが障害だとわかるのはなぜでしょうか?それがその当人にとって普通であるということはないのですか?現にそうであるようにしか感覚されないのではないですか?本当はこう見えるはずなのだが、障害があるために違って見えてしまう。これは他人(医者)が障害だとすることによってではないですか?

補足日時:2005/09/18 21:51
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Q錯覚?幻覚?共感覚?

19歳女です、先日不思議なことがあったので質問させていただきます。

天気がいいお昼時、ベットで寝ていました。
私の右には窓があって、太陽の光が気持ちよいです。
ぼんやりしていると、窓の方向、右から左へと、
小さな透明のつぶつぶがひゅんひゅんととめどなく、とおりすぎてゆきます!
光に形ができたものを目で見ているような感覚でした。
目の中のゴミでもないし、ホコリとも違いました。

それをずっとみていると、限りなく透明に近い青い何かが
視界の左から現れ、うようよしはじめました。

それが消えたかと思うと、

目の前から、黄色いもやのようなものが広がってきて
それにつつみこまれてまた透明になる、そしてまた黄色いもやが広がってきて
つつみこまれる。っていうのが何分間もの間くりかえされました。

こんな感覚はじめてです。だけどどこか懐かしいような‥?

とても抽象的でほわほわした感覚でした。

これは一体なんなのでしょう!?
ちなみに体も精神も健康で、熱もなく、
とても冷静に、リアルにそれを眺めていました。

Aベストアンサー

こんにちは、

要求の階層説を提唱したことで有名なアメリカの心理学者、
アブラハム・マズローの着目した体験に「至高体験(peak experence)」と呼ばれる体験があります。

この至高体験とは、日常生活の中で起こるとても幸福感を感じる体験ことで、
色々な定義があるようですが、7461345さんの体験も、
広い意味で至高体験にあたるものと思われます。

至高体験には、日常生活、非日常的感覚(=超常的な視覚や音・触感覚)、
幸福感、覚醒感(リアルさ)、時間(数分~十数分間つづく)、このような特徴があります。

残念ながら、私には、その体験の解釈はできませんが、
貴重な体験をされたのだと思います。悟りなどにつながる体験と言う人もいます。

もしかすると「目に見えているモノだけがこの世界ではないよ」と
いうようなメッセージだったのかも知れませんね。

こういった体験を話すと、幻だとか、身体的な不調などと関連づける人もいるかと思いますが
もちろん、別の意味で健康診断は、当然必要なものだと思いますが…
他人が何と言っても、7461345さん自身の感性と感覚を大切にして戴きたいと思います。


マズロー、至高体験、トランスパーソナル心理学、などで検索されて見てください。

参考URL:http://blog.livedoor.jp/elma0451/archives/50841101.html

こんにちは、

要求の階層説を提唱したことで有名なアメリカの心理学者、
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この至高体験とは、日常生活の中で起こるとても幸福感を感じる体験ことで、
色々な定義があるようですが、7461345さんの体験も、
広い意味で至高体験にあたるものと思われます。

至高体験には、日常生活、非日常的感覚(=超常的な視覚や音・触感覚)、
幸福感、覚醒感(リアルさ)、時間(数分~十数分間つづく)、このような特徴があります。

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Q嫌なものも良いものも この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。 生きて

嫌なものも良いものも
この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。
生きてる間ではなく転生してからってことです。(順番に全ての人間とか生き物になる)

同じ時間軸にあるからそんなこと有り得ない、と思っても時間というものは本当に存在するのかもわからないと思うんです。

宗教などは進行しておりません...
高校生です。

考えれば考えるほど
悲しくなって辛いです...
もし悪い運命が決まっている人になったらとおもうとこわくて。

意見を聞かせてください。

Aベストアンサー

「高校生です」
⇒中学の思春期から高校までは、子供から大人になる中間で多感な時期ですね。

でも、まだ社会のほんの一部しか知らないはずです。
なので、頭の中でいくら考えても、それは夢の中のようなものです。

これから、いろんな人と出会い、いろんな人と行動を共にしていくでしょう。
それらの経験の積み重ねが自分を作っていきます。

大切なのは、行動して経験したことです。
それはこれからの楽しみにしておきましょうね。

Q幻覚、幻聴、疑えるだけの正気がある時点で違う?

{今視界を横切ったのは幻覚かもしれない}
{聞こえ続けているこの声は幻聴かもしれない}
と考える感覚があるということは、幻覚・幻聴ではないということですか?

Aベストアンサー

ネットは不思議な世界ですよね。
ここで回答していると、何処かで会ったとしても唯通り過ぎるだけであろう人たちに語りかけたり、過去の話を聞いたり。

私はここではおしゃべりですが、普段は自分の話を人にはしません。
家族のことも相談したりしません。
他人の前では全部しまっておきます。余程のことがなければ…。

私も気になって1982_12_27さんの質問は度々見ていました。
回答に参加しなかった分も含めて。
「本当に大丈夫かなー?」と思って。

大丈夫なんでしょうか?
返事がないと言うことは吹っ切れたと言うことなんでしょうか。
それとも、質問文にあるようなことに悩まされ続けているのでしょうか。――心配です。

病院に行っても根っこがあるから、唯の気休めにしかならないのかな。
塩でも盛っておきますか。何もしないよりは良いのかな。
 
でもあんなことがあっては、誰に何と言われようが平気ではいられませんよね。
時間は戻らないから、ずっと謝り続けるしかないんでしょうね。
あなたは本当の悪人にはなれないんだから。


スピリチュアルな世界はあると思う人にはあるし、無い人にはないんでしょう。見えない人にはないのと同じ。

見えたって自力ではどうしようもないのなら、心から謝るしかないでしょう?――本当の悪人になれたら見えなかっただろうにね。
でも、その方が楽なんだろうけれど救われない人になってしまいます。
死を悼む心を無くしたらその方が病気です。


あなたは根が信心深い人のようだから、自分で理性が保たれていると思う内に、お寺に行ったりお遍路に行ったりした方が病院に行くよりも良いのかも知れません。 

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Q“存在”について-私自身の存在、ものの存在

“存在”って哲学的な意味でどういう意味ですか?

「なにかがあること、またあるもの。在る(有る)ということ」
と辞書にはありますがみなさんどういう風に解釈してらっしゃいますか?

みなさんの考えを聞かせてください。皆さんなりの意見で結構です。
どんな意見でも聞かせてほしいです。

Aベストアンサー

個人的な考えです。
存在、つまりものがある、人がいる、ということ自体、人間が意識して考え出したものですが、人間自体もいつか滅亡した時には、存在というものは意味をなさなくなります。
自分が今生きていて、存在していることを確信しているということは事実であり、単に数百年後に証明ができないだけです。存在とは、時間の流れとともに「存在しない」に限りなく近くなること。
こう考えると空しいですが、数百年後にはこの世にはいないのですから、今存在を実感していればそれはそれで良いと思います。
存在は「必要なときに存在していると認識したい状況で認識するもの」です。
まとまりがないですね。すいません。

Q「幻覚を見る」は日本語として正しいのか?

「幻覚を見る」は日本語として正しいのか?

 タイトルのとおりです。
「幻覚を見る」という文章は、日本語として正しいのでしょうか?
 と言うのも、国語辞典で調べたところ、幻覚とは
「実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること」
「極度の疲労や脳の機能障害等によって、そこにないものが見えたり聞こえたりすること」
 とありました。
 それなら、「幻覚を見る」と言う文章は「『実際にないものを、あるように知覚すること』を見る」という、変な意味の文章になるのではないでしょうか?
 そもそも、「幻を見る」という意味の熟語が「幻覚」なのではないでしょうか?

 どうかご回答よろしくお願いいたします。
 なるべく早く回答していただければ幸いです。

Aベストアンサー

下の例のように、戦前の名文家とうたわれている作家も「幻覚を見る」と書いています。

 坂口安吾 「ヒンセザレバドンス」
・・・私は夜になると幻覚を見つゞけてゐた。・・・

 中島敦 「牛人」
・・・いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。・・・
 
 与謝野晶子 「産褥の記」
・・・斯んな幻覚を見たのは初めてである。・・・

WIKIPEDIAに
「幻覚(げんかく、hallucination)とは、医学(とくに精神医学)用語の一つで、対象なき知覚、即ち実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状をさす。聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚などの幻覚も含むが、幻視の意味で使用されることもある。」
と書いています。
幻覚の中で幻視が最も多いと思いますので、この場合は問題ないと思います。

上の三人の作家の文の幻覚を幻に替えると、ちょっと非科学的な感じがしますでしょう。
「幻覚」という一つの名詞(科学用語)ですからよろしいと思います。
「歌を歌う」は、ダブり表現になりません。

Q「見えるものと見えないもの」

世界が私の身体と同じ構造を有するとはどういうことでしょうか?

Aベストアンサー

「身体的所作」という観点から、メルロ=ポンティとウィトゲンシュタインの言語ゲームの共通点をとらえた野家啓一の『言語行為の現象学』はお読みですか?
これはなかなかおもしろい本で、メルロ=ポンティに関しては、おもに『知覚の現象学』までで、後期の〈肉〉については考察の対象になっていないのが残念なんですが。

とくに三章の「言語・身体・意味」というところでは、日常的に使われている言語を内面的人間の語る内面的言語へと還元しようとした(そうしてそこでは当然所作というものは、言語の夾雑物として排除される運命になります)フッサールを批判的に取り上げ、それにたいしてメルロ=ポンティの身体的所作は言語とおなじく、所作自身の中にその〈意味〉をあらわにしている、という主張が取り上げられます。

そうしてこんな箇所が引用される。
「私は怒りとか脅しとかを、所作の背後に隠れている一つの心的事実として知覚するのではなく、私は怒りを所作そのものの中に読み取るのだし、所作は私に怒りのことを考えさせるのではなくて、怒りそのものなのだ」(『知覚の現象学』)

つまり、「怒り」が心の中かどこかにあって、それが怒りの所作となってアウトプットされているわけではない、怒りの所作こそが怒りなのである、と。そうして言語もまた同じである。言葉それ自体がひとつの「所作」として、その〈意味〉をあらわにしている。これはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の思想へと通底するものである。

さらに『哲学探究』から、こんな箇所が引用されています。

「子供が負傷して泣き叫ぶ。すると大人がその子供に話しかけ、間投詞を教え、後には文章を教え込む。彼等は子供に新たな痛みの振る舞いを教えるのである。

『それでは君は、〈痛み〉という語がもともと泣き声を意味するものだ、と言うのか』――逆である。痛みという言語表現は泣き声の代わりをしているのであって、それを記述しているのではない」(『哲学探究』)

つまり、「痛みの所作と痛みの言葉とは互いに置換可能な〈表現〉なのであって、それらは連続的であり、そこに断絶はない。先のメルロ=ポンティの言い方を借りれば、「言葉は一つの真の所作」にほかならないのである」(『言語行為の現象学』)

『探求』のこの部分を見て思い出すのは、以前、六歳の子供が「これから何もいいことが起こらないような気がする」としくしく泣き出したときのことです。ちょうど、クリスマスとお正月が終わった時期だったので、楽しいことが終わって寂しくなってそんなことを言ったのかと思ったのですが、その子はつぎの日急に高熱を出した。インフルエンザを発症したんです。

大人であれば風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」という言葉で表現されるようなその「感じ」を、六歳の子は「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ心身二元論に完全には分節されていないから、風邪に罹った身体の不調が、未来への不安として知覚されたわけです。

もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という分節を知る以前の赤ちゃんが泣くのはそんな「感じ」なのかもしれない(たとえば赤ちゃんはなぜ眠くなると泣くのでしょう?)。言語使用をある程度は知っている六歳の子だから、泣く代わりにその不安=不調を言葉でそう表現したわけです。
なんだかすごくおもしろいなと思ったので、いまでもよく覚えています。

ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」を「子供が言葉を使い始めるに際しての言語の形態」と言っていますよね。「したがって、子供に言葉を教えるとは、言語の意味を説明してやることではなく、むしろ『振る舞い方』を訓練することに近しい」(『言語行為の現象学』)。
さらに野家はこの箇所をプラグマティックに受けとるべきではない、「言語ゲームが身体=主観としての〈語る主体〉によって営まれる行為であることの強調でなくてはならない。再びメルロ=ポンティを引けば、言葉を学び覚えることは、「身体の可能な使用法を〈身〉につけることにほかならないのである」と。

わたしたちは身体をもつ〈語る主体〉として、常にすでに「言語ゲーム」のただなかに生きている。
「言葉の意味とは、言語ゲームを生きる〈語る主体〉相互の「発語-理解」の行為の中で〈生成〉されるものであって、われわれはそれ以外の場所(心の中、脳細胞の中、辞書の中 etc.)に〈意味〉なるものを捜し出すことはできないのである。(中略)

「言語ゲーム」とは間主観的意味構成が行われる根源的な〈場〉にほかならない。メルロ=ポンティにならって、超越論的主観性を間主観性と読み換えることが許されるならば、言語ゲームは生活形式の一部としてわれわれの経験的〈生〉に連なる事実概念であるつつも、同時に意味生成の根拠として超越論的機能をも担っていると言うことができる」(引用同)

ご質問に返って

> 世界が私の身体と同じ構造を有するとはどういうことでしょうか?

ということに即してみるならば、こう答えることも可能かもしれません。
〈私の身体〉も〈世界〉も、言語ゲームによって基礎づけられている、と。

〈わたし〉があらかじめあるのではない。
世界に囲まれ、その中で他者や事物と遭遇し、言語ゲームを介して、身体を備える〈語る主体〉としての〈わたし〉が立ち現れてくる、と。

ただ、わたしのなかで〈肉〉をそのまま「間主観性」と言っちゃっていいのか、とも思うんです。言葉が思想の衣装ではないとしたら、〈肉〉と「間主観性」は異なるもののはずだ。この強烈な表現にせよ、レヴィナスの〈イリヤ〉にせよ、言葉=思想のはずですよね。

こんなふうに考えると、やっぱりカントの〈崇高なもの〉を思い出してしまう。崇高なものとは「構想力にとって法外なもの」であり、「いわば一個の深淵である」(『判断力批判』)

呈示されないものを呈示しようとして、ぎりぎりのところを手探りして出てきたのが〈肉〉や〈イリヤ〉や、あるいは〈現実界〉、〈言語ゲーム〉であるとしたら、それぞれの共通するもの、異なるものの分析を通じることによって、〈崇高なもの〉はその片鱗を顕すのかもしれません、っていうと、きれいにまとめすぎか。


ところで

> 科学者は「モデル」と、現実社会に内在する構造とを取り違えることは無いのである。

ですが。
質問者さんは「モデル」という言葉で表現されていますが、わたしはむしろ「換喩」と表現したいような気がします。

「構造」にせよ「世界」にせよ「システム」や「関係」、あるいは「身体」「心」「主観」にしても、わたしたちはこういう言葉を日常的にかならず換喩あるいは提喩として受け取っているのだなあ、と改めて思いました。

#4の方が

> まさか「身体にに手や足や目や耳がある」ように「世界にも手や足がある」というふうなことではないでしょう。

とおっしゃっておられるのを拝見しても、わたしたちは「構造」という語、あるいは世界という語を身体図式になぞらえて理解していることがよくわかります(ここで引用したことに他意はありません。どうか感情を害されることのありませんよう)。

一般に知覚と想像力は異なる能力である、ときに対立するものであるように考えられていますが、(たとえば「現実を見ろ」という叱責にあきらかなように)、知覚が成り立つためには、現実には想像力が大きな役割を果たしています。

想像力の働きによって原因と結果を結び、部分と全体をひとまとまりのものとし、記号で記号によって意味される事物を理解しているわけですが、こういうことはすべて換喩のやり方なんですね。

このように考えてみると、手や髪の毛や足の小指の爪の先をも「わたしの身体」という言葉に統合して理解することも、目の前の「あれ」も「これ」も、見ることのできない遠くの世界で起きた「あのこと」も「そのこと」もひっくるめてひとつの「世界」という認識の仕方をしていることも、まさに同じ「換喩」という構造によって成り立っている、と言えるのかもしれません。

「身体的所作」という観点から、メルロ=ポンティとウィトゲンシュタインの言語ゲームの共通点をとらえた野家啓一の『言語行為の現象学』はお読みですか?
これはなかなかおもしろい本で、メルロ=ポンティに関しては、おもに『知覚の現象学』までで、後期の〈肉〉については考察の対象になっていないのが残念なんですが。

とくに三章の「言語・身体・意味」というところでは、日常的に使われている言語を内面的人間の語る内面的言語へと還元しようとした(そうしてそこでは当然所作というものは、言語の夾雑...続きを読む

Q幻覚は存在するか?

幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
私はそのとき他人に確認していないのですが、仮に他人が「そんなものは見えない」と言っても、私には見えるのであるから、それだけで幻覚であるとはいえないと思います。他人がうそを言っている場合、他人が見逃してしまった場合、その他、いろいろ可能性はあるでしょう。

私は幻覚が存在してしまっては困るというわけではありません。ただ、幻覚が存在するためには何か条件があるような気がするのです。例えば、私が見たものはすべて存在すると思っている人には幻覚というものが理解できないはずなのです。そして、おそらく多くの人がそう考えていると思います。
幻覚というのは他人が言明するものであって、当人が言明するものではないのでしょうか?しかし、私は他人に何も言われずに、自分で、幻覚が見えたと言ってしまいました。これはどう説明したらよいのでしょうか。私は他人の視点に立てたのでしょうか。

幻覚は存在するのでしょうか?

私は「幻覚を見たことがある」と言明したことがあります。しかし、それは、どうしてそれが幻覚であるとわかったかと申しますと、過去にはそれと同じようなありかたのものはなかったからです。つまり過去との比較において、それは幻覚であるに違いないと考えたわけです。しかし、それは新しくそういうものが現れただけであって、私は本当にそれを知覚しただけなのではないでしょうか?私が知覚したものはすべて存在すると言って何か不都合なことはあるのでしょうか?
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Aベストアンサー

『障害を持っているため幻覚が見える人が、どうしてそれが幻覚であるかわかるのか』という疑問だと思います。

(脳の中の幽霊より)
有名なものにシャルルボネ症候群 というものがあります。
ラリー・マクドナルドは交通事故にあって幻覚を見るようになりました。
どれが本物でどれがニセモノか最初は区別できなかったそうです。
ベッドの側に医者と看護婦とフットボール選手はフラダンサーがいて、四方八方から声が聞こえてきて、いったい誰が喋っているのかわからない状態だったそうです。
脳がなんとか修復してくれ、現実と架空の声を聞き分けられるようになったそうです。

医者のラマンチャンドラン(脳の中の幽霊の作者)が「今でもそういうものがみえますか」と聞くと、「ええ、今も部屋の中に見えます」と言いました。

何が見えるかと聞くと、ラマンチャンドランの膝の上に猿が乗っているのが見えるのだそうです。
「どうして幻覚だとわかるのか」と先生が聞くと、「それはわかりません。でも、猿を膝の上に乗せている教授というのは、あまり考えられないので。だから本当じゃないと思ったのです」と答えました。

さらに、「でも いきいきとして本物に見えますよ」
「まあ 一つには何秒か何分かたてば消えるので、本物じゃないとわかるのです。幻覚が周りの風景になじんでいることも時々あるが、それでも、とうていありえそうにないので、ふつうは人に言いません」
と言っていました。

とても鮮明で本物より本物らしく見えるそうです。
時にはひどく周りの風景になじんだアニメの登場人物も見えるそうです。
普通は<ありえない>と理性が働くので、幻だと思うのではないでしょうか。
その後 見えなくなるので、「やはりあのとっぴなものは幻だったか」ということに慣れているのではないかと。

まぶたを閉じても変わらず見える というのも確かあったと思います。


例えば色盲の人には存在するのに目では認識できないということがたびたび起こると思います。
すると、普通は見えるのでなんでこの人は書いてあることを守らないのだろう となる。
しまいには「ここに書いてあるではないか」と示したものは、色盲の人には見えないので、この「書いてあるではないか」と主張する人が変 または幻覚を見ていると思うか?

小さい頃からそういうトラブルに何度も遭遇しているはずなので、自分が見えなかったのか とまず考えるようになると思います。

これがもし 色盲の人がほとんどなら、信号機は作られなかったと思います。
色を認識できる色盲のレベルの基準で芸術も生活も、創造されていったと思えます。
だって、認識できない色を使いようが無いから。

遠赤外線が見える人たちがほとんどなら、また違った世界になっていたと思います。


追記
シャルルボネ症候群の人がよく見るものに幽霊があります。
シャルルボネ症候群になることで、幽霊が見える能力を獲得する というより、無いものが「見えた」と知覚してしまう障害です。
(だいたい数秒から数分で消える)
そういう障害を理解しているシャルルボネ症候群の人は、人が突然消えたとき、「幽霊がいた」と思わず、「幻覚だったのか」と思うのだそうです。

『障害を持っているため幻覚が見える人が、どうしてそれが幻覚であるかわかるのか』という疑問だと思います。

(脳の中の幽霊より)
有名なものにシャルルボネ症候群 というものがあります。
ラリー・マクドナルドは交通事故にあって幻覚を見るようになりました。
どれが本物でどれがニセモノか最初は区別できなかったそうです。
ベッドの側に医者と看護婦とフットボール選手はフラダンサーがいて、四方八方から声が聞こえてきて、いったい誰が喋っているのかわからない状態だったそうです。
脳がなんと...続きを読む

Q私が神で、私しか意識が無くて、他人はいない、他人はロボット人間なのでは?

削除されたので、再度投稿します。

http://www1.ttcn.ne.jp/turu/24tanin.htm
他人はいない
こんなのもあるし、

で・・・
とある動画で、なんか??
「映像と、音声が一致していない」ように思えます。

つまりは、他人=ロボット人間で、私だけ意識のある、ある意味私が神なのでは?

また、新世紀エヴァンゲリオンでも、「私だけしか居ない」とかあります。

Aベストアンサー

ネットにも抽象的な「私」が存在していますね。この瞬間、ネット上の自分が自分になっていないか?そこに「私」がいるとしたら、いまの私は一体誰が見ているんだろうか?生活の全体を通して「私だらけ」です。。そこに私は居ません。外に答えを探そうとすると迷います。疑問も迷いから出された、ひとつの答えです。それを意識ある私が考えています。目まぐるしく移り変わる世の中と無数の出来事の数々、台風の中心には目があって、その中心が本当の私なのかもしれません。内と外に荒れ狂っていないところがあります。そこに気を配ることもできます。入ってくる情報や生活に追われてしまうと、自分の存在意義が遮断されてしまいます。どこかにあるべき自分の姿、つまり「私」を探すことになるんです。

Q大麻で幻覚、幻聴ってマジ?

大麻で幻覚や幻聴がおこるってほんと?
大麻以外の麻薬と併用しててそっちのせいで起こったとかじゃあないの?
科学的に大麻で幻覚、幻聴がおきるってマジ?
これを科学的に調べる場合どうするんでしょう、マウスでは幻覚と幻聴は調べられないんじゃ・・・。

Aベストアンサー

>大麻で幻覚や幻聴がおこるってほんと?

大麻吸引時の注意事項としては、
「感覚が研ぎ澄まされる」ということが言われます。
これは聴覚以外の五感が麻痺することで
聴覚だけが異様に感知されることによります。
それが幻聴と思われるのかもしれません。

幻覚ではありませんが、
マジックマッシュルームと同様
虹色の帯がみえることがあるという報告もあります。

また、「感覚が研ぎ澄まされる」と同様
心理状態が増幅されるということもよく言われており、
不安な心理をもって吸引すると不安が増幅され、
いわゆる「訳がわからないが怖い」状態になることがあります。
特に初心者が見知らぬ人達と異国の地で体験すると
そのような状態になりやすいといいます。

インドで日本の若者がビルの上層階からいきなり
飛び降りたなんて話しも聞きましたが。


>これを科学的に調べる場合どうするんでしょう

科学的な分析についてはわかりませんので他の方にお任せします。

Q存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛 分かる人?

存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛

この意味が分かる人居ますか?腕に覚える人は見抜いて下さい。

端的に書き表してください。

Aベストアンサー

私が何に悩んでいたかが分かりました。

この「存在性理論」は、「空間」というものがすでに
あるものということだけでなく、「存在」というもの
もすでにあるものという前提での理論であると思いま
した。

それならば、例えば「人間」という存在に「物質」面
と「精神」面が備わっているということや、子供が生
まれることも、進化してゆくことも、この理論で説明
できそうです。
唯物論と唯心論をまとめる、新しい理論であるとおっ
しゃることも分からないではないです。

しかし、私が悩んだのは、№12で申し上げた、宇宙の
元初の状態から「存在」が生じるということについて
は、この理論では説明できないだろうということでし
た。
その部分は「真理」ということで「未知」ということ
でよろしいのですね?
尤もこれが分かったら、えらいことですが‥‥


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