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 突然、おそろしい質問でごめんなさい。

 <死に欲>っていったいなんなのでしょう?わたしは、老人がたくさんいるなかで育ってきたので、これは<死に欲>ではないだろうか、というのを見てきていますし、実際、そうした傾向が現れてきた人は、だいたい半年から2年くらいで亡くなるケースが多いです。

 また、<死>が近い人には、もう既に亡くなっている知人が迎えにだか、遊びにだかやってくるといいます。わたしの祖父も、「**さんがござった、@@さんも(全て、とうの昔に亡くなっている人ばかりの名を挙げて)ござったみんなよー来てちょーした」とよく言うようになった時期があり、その半年後、病気でもないのに、突然死しました。

 人間以外の例でいうと、食肉用として飼育されている牛は、仲間の牛だか、自分(?)だかが、屠殺のために連れて行かれる途中、このうえない悲しげな、聞いていて骨身にこたえる鳴き方をすると、聞いたことがあります。

 こうした、生物が<死>を近くして起こる現象を、心理学的に、生物学的に、そのほかどのような形態でもかまいません。とにかく学的な説明が出来るかた(聞きかじりなどの適当な知識でも結構です)、回答をよろしくお願いします。

 補足>学的のみならず、宗教の考えや、自身でなんとはなしに(こうなんじゃないかな)と考えていることでも結構です。宗教の場合は、その教えに背かないのであれば、できればその宗教名、基本的な考え方、も教えていただけると有り難いです

A 回答 (6件)

私の10年以上飼っていたペットの犬がある日突然姿を消しました。


毎日散歩をして、首輪を放しても必ず家に戻ってきたのに、もう、戻ってはきませんでした。
歳をとったので、帰り道を忘れてしまったのではないかと思っていたのですが、ある人の話によると、犬は、自分の死が近いと感じたら、買主に迷惑をかけないように、自分から姿を消す習性があるらしいです。それを聞いて、気づいたのですが、姿を消した日は、普段下宿して家にいない兄が実家に帰ってきた時期でした。家族皆の顔を見てお礼を言うように姿を消していったと思うと切ないです。

質問とは離れてしまって申し訳ないですが、「死」について思ったので書かせて頂きました。失礼します。
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「死」は恐らく、年代、体験、環境などで受容が微妙に違うのではないでしょうか?


 貴方は「死に欲」と表現なさっていますが、それは死への恐怖のまだ手前にいる側の捉え方で(私もです)、その先にある「死」が当たり前で、誰もに平等な事だと諦め、受容された方々の側からすると「死を受け入れる」ということではないでしょうか。(受容できないままの方もいれば、事故のように突然の場合もあります)
 質問の意図とは、ずれていたらごめんなさい。
 ご参考までにキューブラ・ロスの「死の瞬間」は人の「死」への受容過程などを書いたものです。
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私が以前警察官をしていたとき、


牛と軽自動車の衝突事故という珍しい事故がありました。

軽自動車のほうがダメージが大きく、牛は一見無傷でしたが
牧場の人によると生きてはいるがもう売り物にはならないそうです。
肉にダメージがあるそうなので。

その牛がなぜ道路に飛び出したのか牧場主に聞いたところ、
その牛はその日に食肉用に屠殺場に連れて行かれる予定でしたが、
輸送車に入れようとしたところ突然狂ったように暴れだし、
押さえつける牧童を振り切って道路に飛び出したそうです。

その牛は今どうしてるか私は存じません。
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 死に欲という言葉からは、知性では拒否していても、精神の深い根元的な部分で死を待望する心、とも読めます。

立花隆著「臨死体験 上・下」(文春文庫)を読むと「死」をめぐる問題は、属している文化や境遇と根深くつながっているように思えます。また、現代ならではの奇妙なロジックと方法で自ら死をむかえる人たちもいます。(春日武彦「不幸になりたがる人たち」文春新書)

 ところで、私は屠殺間際の動物の声を身近に聞いたことがありますが、それ以来動物の肉は進んで食べる気にはなれません。でも、考えてみると動物が生きる上での必須栄養素は、他の生き物の生命活動によってしか作り出されません。一部の植物でもない限り、地球上のほとんどすべての生命は他の生命の否定のうえに存在していることになります。

 「業」という言葉がありますが、自分は死んでもその生きた結果が、あとに生きる人たちのための何らかの礎になる、それだけが「宿業」に報いるたったひとつの手段ではないでしょうか。

 つまりこの死の問題は、懸命で前向きの生き方をせよと暗示している、そう受け取ることに私はしています。(ちなみに敬虔な無神論者です)
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「象の墓場」という話を聞いたことがあります。


死期が近づいた象が、自ら最後の力で「象の墓場」にたどりつき死んで行くため、無数の白骨(=象牙)が積み重なっているという・・

んで、私的推測です。
動物は、身体の具合が悪くなると、外敵から身を守るために、食料確保より安全な場所へ行くことを優先する。
そのため、健康な状態では行かないような、不毛の地に身を隠し、快復をじっと待つ。
運良く快復すれば、また通常の活動範囲に戻るが、そのまま息絶えてしまうと、死骸になって「積み重なる」。

失礼かもしれないが、御祖父様も精神的に「安全な場所」=旧知の友人がまわりに居るような(来てくれるような)場所に、心を隠してしまわれたのではあるまいか?

あたかも死期を予感しているような現象は、快復する場合には印象に残りづらく、そのまま死ぬ場合にのみ記憶に残るために、おっしゃるような「<死>を近くして起こる現象」と認知されるのではあるまいか?

<死に欲>という言葉は、知りませんでしたが、私が思うところを書かせていただきました。
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死にたいと思うことは私にもあります。

実は今もその思いが心の中に半分くらいあります。妻子のために生きているような状態です。思うに、死期を悟ることは誰にでもあるような気がします。以前から私は、遺伝子の中に一生分の記憶が入っていると考えてきました。未来に起きることを夢で見る正夢なども、遺伝子の中に未来記憶として入っているからだと考えています。元来、誕生の瞬間から人は死へ向かって歩いて行くのですから、その時期が近付くと未来の情報が分かることはあっても不思議ではないと思います。専門家ではありませんが、脳の使われない部分に、こうした未来記憶が刻まれていれば、納得できると思うのですが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなってしまって、ごめんなさい。

 <遺伝子のなかの未来記憶>ですか。わたしには、全く思いつきもしなかった、新しい考えで、非常に興味深く感じます。

お礼日時:2001/11/23 03:25

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