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芸術/ARTとの本髄とはいったいどういうものなのでしょうか?
アートとコマーシャルアートの境界線が見えません。
このことについて学べるサイトなどありましたら教えて下さい。
哲学、芸術に関しては素人です。
宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

芸術至高か、商業目的かの違いと思います。


芸術の目的は芸術で、理由と行為は完結しています。芸術を求めること、それがそのまま芸術とゆう行為、また精神であると思います。
コマーシャルアートは、何か目的(宣伝、印象付け)のために、芸術を使う。道具的なポジションの、芸術らしくない芸術?です。ですから、印象はあっても持続せず、目新しいが多様性なく、個性的なようでぺらぺら、時代を象徴するような消費芸術、消費される芸術とも言えそうです。人間のために飼われる近代の家畜のように、むなしい精神存在と思います。しかし、それがそのあり方です。開放されると、又いいものに生まれ変わるんでしょうが、。
牛は野に、森に、砂漠に、人とともに、芸術は人間に生きるほうがいいのでは?と、思います。
人(お金)の変わり目を引くために、あるなんて、かわいそうと思います。
人間が芸術の住処になるべきでしょう。
芸術の所以や、住むべき所は、お金や経済や、人目、他人行儀ではないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

以前バーで隣の音楽家のような人が「アーティストは自分のすごい芸術作品を提供するのだからそれに見合うお金を取る事はあたりまえだ」見たいな事を言ってたのを盗み聞きしていてなんか悲しくなった記憶があります。

目的としての芸術ならば技術、才能が伴わなくても芸術の言えるのでしょうか? 

お礼日時:2002/01/18 09:16

coffee_and_kissさんが、コマーシャルアートと、アートの区別がつかないんなら、むしろそのままにしておくほうがいいと思います。

なにも、分ける必要を感じなくてもいいと思います。分けると、色々に限定されます。
だって、両方アートだって思えるんでしょう?そのほうが、素直目に作品を見れるのではないでしょうか?
これは誰が作ったとか、これは何々がどうこうとかよりも、
それをそれとして見る目が、芸術には適していると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

コマーシャルアート、とアート…むむむ~です。
両方アートと思える場合もあり、またそれと反対に所詮は金銭絡みの物にすぎないと思える時もあり…

人間万人が基本的に芸術家であって生き方自体こそが芸術なのではないのでしょうか? 絵を書く、物を作るとうい事は技術・工芸であって芸術ではない気がするのです。

お礼日時:2002/01/18 09:48

 


  「芸術」とか「アート」と言いますと、何か日本語では、非常に格調高いと言いますか、畏れ多いもののような感じです。しかし、芸術の元の言葉は、ラテン語の ars ですし、アートと言うのは英語ですが、これも語源はラテン語で ars です。ars というのは、一般に「技術」のことを言うのです。
 
  英語の辞書で、art を引くと、「芸術、美術」の意味の他に、「技術、技巧、技、技量」などとあり、用例に、domestic arts で、「[料理・裁縫などの]家事」と出てきます。英語の art という語だと、こういう意味を普通に持っているということです。
 
  「芸術」というに値するようなものは、別にそれを特に呼ぶ言葉がなくても、あるはずです。「芸術」というのは、おそらく明治時代の造語で、art のなかの「芸術・美術」特に「芸術」だけを意味させるように造った言葉だと思います。けれども、そういう言葉がなくとも、例えば世阿弥の『夢幻能』とか『風姿花伝』などで、「花」と呼んでいるものは、能における最高度の芸術の精髄であったのです。また、芭蕉も、自分の俳諧・連句は、なにものか根源なるものを把握しているという自負があったでしょうし、やはり遺された作品で見ると、彼が捌いた連句などは、非常に素晴らしいものがあるのです(芭蕉というと、短い「俳句」で有名ですが、俳句というのは、連句の発句を独立に扱ったもので、芭蕉の芸術性は、連句・俳諧にあります)。
 
  芭蕉の言葉に「不易流行」というものがあります。「不易」とは「変わらぬもの」で、いわば、古典、典拠とする芸術です。他方「流行」とはその言葉の通りで、「いま流行っているもの」で、ある人からは軽薄とされ、顰蹙を買ったりしているものですが、現にいま、世間で流行しているものです。
 
  「不易流行」とは、不易はすなわち流行であるということで、流行は、時と共に評価によって篩い落とされて行き、本当に素晴らしいものが、後の世に残る。そしてこれが典拠=芸術=古典=不易となるのだ、というのです。また不易とは、いま、人々が崇めていても、それは、昔、それが出来た時、出現した時は、実は流行で、時の経過と共に、「真価」が輝き出て、古典=不易となったものだというのです。
 
  「純粋芸術」というのは、非常に長い、そしてこれからも続く人類のアルスの歴史のなかで、ほんの一時期主張された、一種の人工の芸術論です。現在は、そういうものは主張されていません。つまり、アルス(芸術)の歴史を見ると、お金に関係のない芸術などないということです。「お金」に関係ないとしても、多くの人が価値あると認めると、自然に、それは金銭価値が付いてきます。何らかの意味で、世俗的目的を持たない芸術作品というと、宗教芸術かも知れませんが、これも、意図的に人を感銘させようという設計があります。作品を造る限り、多くの人を感銘させたい、感動させたい、多くでなくともいい、一人でも感動してくれればいいと言うのが芸術です。その一人が、自分自身でもよいのです。
 
  芸術は、結局、どれだけ普遍的価値があったかが問題で、それは時間や色々な条件で決まって来ます。金儲けのために造った作品だから芸術ではないとはならないのです。素人の大勢の人が、金儲けではなく、純粋に趣味として、楽しむために絵などを描いていますが、それでは、そういう絵は、芸術としての普遍性を持つかと言えば、やはり違うでしょう。金儲けで造られたものでも、真に人を感銘させることができれば、それはやはり芸術でしょう。
 
  アートとコマーシャル・アートの境界線が見えなくても、それは現代の作品なら、当然のことだと思います。どちらも、一時の目的はともかく、人の心を感銘させ、動かすということを技術に造られているからです。
 
  アートとか、コマーシャル・アートとかいう区別を無視して、作品として評価すれば、芸術かどうかは分かるのです。そして、同時代にあって、新しいものの芸術性はなかなか分かりません。ある時代に芸術だともてはやされたものが、数十年経過すると、その底の浅さが露呈することは珍しいことではありません。しかし、同時代の人たちは、分からなかったのです。
 
  だから、古典として、評価されている作品・芸術と同じように、現代のアートを考えると間違うということです。現代において、アートと名乗っていても、どうでもよいものもあれば、コマーシャル・アートとして造られたが、その素晴らしさが後世に残るものもあるでしょう。それは、時間と多くの人の心が決めることで、現代の一人の個人が、自分で判断できるようなものでは恐らくないのです。
 
  「芸術の精髄」とは、世紀を超えて、多くの人の魂に感銘を与えるということです。過去の大芸術家は、生活のために作品を造っていました。しかし、お金を得るために造った作品だから、それが無価値なもの、根のないものかと言えば、そういうことこそ、偏見でしょう。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

芸術、美術、技術、技巧…そしてお金、価値、評価…などが頭の中で駆け回ってるんですよ…
作品・物だけが芸術とも思えず、精神的、哲学的な思想こそが芸術なのではと思う時もあります。

また自己満足の芸術と人に感銘を与える芸術との違い…っていうか その辺が他人から評価されてからこそ=お金を伴う…と考えて行くとドロドロしたものが絡んでいるようで…

支離滅裂になってきました、もう一度皆さんの書き込みよく読んで考えて見たいと思います。

お礼日時:2002/01/18 10:05

美術関係の仕事をしている者です。



芸術にまつわる社会通念に「芸術は純粋でなければならない」というものがあります。ここから、芸術家は世間に迎合してはならないだとか、金のために作品を作ってはならないだとか、金儲けの巧い芸術家は本当の芸術家ではないといった理想の芸術像が生まれてきます。

こうして「純粋」であることを負わされた芸術の同伴者として、例えば石川啄木・ゴッホやといった「清貧」の芸術家やアウトローの芸術家がその典型的な作家として印象付けられています。

しかしながら、芸術が人間の本質や世界の真実をその卓抜な技巧・技術によって作品化することであり、作品という物理的な存在によってはじめて同時代の他者や後世の人々にも享受(鑑賞)できるようになるものならば、芸術家はその生きている世間から離脱することは本質から外れることになるでしょうし、作られた作品も物理的に存在する以上、商品としての価値を生むことは避けられません。また避ける意味もありません。

芸術の世界という何か空間的なイメージで捉えられる神の国のようなものがあるわけではありません。芸術とはいつの時代でも生きている人間が制作した作品とそれを取り巻く作家と鑑賞者の間に起こる出来事ですから、その作品が素晴らしいと認められれば、それを欲しがる人はお金を支払って自分のものにしたいと思うのは当然ですし、それによって芸術家の生活は支えられています。逆にいえば、どんなに素晴らしいものでも見てくれる人がいなければ何の意味もありませんし、評価されなければそれで終わりです。仮に作品を売ることを拒否して清貧を貫いた芸術家がいたとしても、それだけで(つまり金にまみれていないだけで)それが良い作品ということにはなりません。もしも芸術家が作品を売らずに生活の糧を得ようとすると、美大や音大などの先生をして給与を得るか、コンクールなどで賞を取って賞金を得ることくらいしかありません。しかし芸術家であることと何かを教えることとは別のことですし、ましてや芸術家は賞金稼ぎではありません。

ついでにいっておくと、絵画の場合、画廊などで売っている絵よりも美術館に収められている絵のほうが公共的で金に汚れていないと思われていますが、実際には美術館の作品は寄贈品以外はすべて画廊や作家から作品購入したものです。その額は個人購入の比ではありません。

そもそも「金儲け=汚れている」という社会通念は間違っていると思いますし、芸術家が社会から乖離せずにいられるためには経済的に自立していなければならないでしょう。時代によっては国家やパトロンが芸術家の生活の面倒を見ていたこともありましたが、それは逆に作家としての不自由を意味します。また金絡みであることではコマーシャル・アートと全く意味は変りません。

coffee_and_kissさんはきっと、現実の世界は金銭欲にまみれた汚い世界で、芸術とは穢れのない理想の世界だと思っているのでしょう。しかし、そのどちらも間違っています。現実の「金銭絡み」はそれ自体悪いことではありません。また芸術は現実に根ざしているものです。芸術が金銭絡みであることは、汚くもなければ悪いことでもなく、また芸術性を貶めることでもありません。そもそもコマーシャル・アートとアートの区別というものも存在しませんし、百歩譲ってこの言葉を使えば、すべてのアートはコマーシャルアートだといっても間違いではないでしょう。

芸術家の中にもcoffee_and_kissさんと同じような考え方の人はたくさんいます。しかしその多くはいわゆる「売れっ子」になれなかった自分を正当化するための方便で言う場合がほとんどです。もちろん、レコードにしろ絵画にしろ、商品価値が芸術的価値であるわけではありません。しかし、全く関係ないわけではありませんし、無理にそれを分けるまでもないでしょう。

参考のために、文章を参考URLにあげておきます。小説家であり評論家でもある笠井潔のエッセイ的な評論『独立生産者としての作家』です。小説家という立場から、芸術と経済の関係を論じています。小説家が集まって作ったe-novels(http://www.e-novels.net/)というページの中の無料ダウンロード作品です。ページの下の方にあるダウンロードボタンを押すと、PDFファイルをダウンロードできます。
一読の価値はあると思います。

参考URL:http://www.e-novels.net/novel/sakuhin.php3?booki …
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この回答へのお礼

せっかく書き込んでいただいたのにお礼が遅くなりしつれいしました。
考えがまとまったら補足させていただきたいと思っております。
取り急ぎ…

お礼日時:2002/01/30 19:21

金に生かしてもらう多くの人は、「かねは悪くないよ」といいますね。

売れっ子でない多くの作家のように、。(笑 
間違ってるとか、間違ってないとか言うのが、間違ってる(笑
 
 善いも悪いも無いのです。それがそれである事を知ることが大事です。建築家は、土地に縛られてはいけない。場所にあって当然です。なぜなら、その行為、場所を生むからです。人は人に生きて、当然。芸術は芸術で当然。人目に触れなくても、作者に触れない事はありません。無人の氷原で、すばらしいオーロラが舞います。オーロラに意味は無いですか?見えてるものだけが意味あるのですか?独我を知ったのに、それを超えようともせず、それから離れ、周囲に価値をつけてもらう人間のありかたは、当然ですか?
 今は知られず消えた素晴らしい作品もあるでしょう。しかも、たくさんです。
ゴッホがそんなにいいですか?「デルフトの眺望」がいいのでは?
 多くの人の目に映れば、多くの金を動かせるんですか?
多いも少ないも、大きいも小さいも、芸術にはどうでもいいと言うことが、わかりますか?なぜなら、芸術は芸術だからです。それはそれです。
 
比べない事が大切です。自分と他人も比べない。それはそれなんです。
 
しかし、あえて言います。
 
「今の金は、比べる事を強要します」
 
だから、人を迷わし、芸術を迷わせます。何を囚われてしまっているのか?
自由の人は自由を知ってます。あえて囚われ、どうしようもなく囚われます。
恋愛のようですね。生き様のようですね。とんでもアートふるですね(幸。
自由が果たして経済的ですか?(笑
何を囚われているのか。

>生き方自体こそが芸術 
あ~、根っからのアーティストですね。石を見て、彫るべき形、彫った後の形が見える、「ミゲルアンジェロ」のようですね。彼が、すでにある彫像を見たらどうなんでしょう?また彫りなおすんですかね。
人を見て、生き様が見える。
自分は、生き様に生きる。
僕は大好きです。
 
しかし、アーティストは、どうなの?と人に聞くんでしょうか(笑
僕は聞きまくってます(笑 
アーティストは自由です。人間も同じようにあるべきです。
あなたはそういうことが言いたいのでは?とおもい、補足しました。
ツワモノがたくさんおられたので(笑
ツワモノ、すぐに自由になる方ばかりとお思いました。
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この回答へのお礼

せっかく書き込んでいただいたのにお礼が遅くなりしつれいしました。
考えがまとまったら補足させていただきたいと思っております。
取り急ぎ…

お礼日時:2002/01/30 19:20

芸術とは物などの本質が人の感性を通して、他の人に感動が伝わることではないでしょうか。



いろんなケースがあり、アートとコマーシャルアートの線引きはできないと思います。
売れる売れないと作品の質とも正比例するわけではありません。

人には運があって、金運のある人と無い人があります。これは芸術性とは関係ありません。
才能のあるなし、才能の開花のあるなし、も運というか宿命です。
つまらない作品が高く売れることもあります。
感動が同世代には通じず、後世になって見出されるということもあります。
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アートの本髄は表現だよ。

だから、コーマシャルアートに、金がらみの表現が共なうの当たり前。それをふくめて表現されてんだから。
だから、自己表現は、自己を生きる人生そのものってことかな。人生がアートってそういうことなんじゃない?自己を生きない人生もあるな。それでも表現はある。生き様もある。自己が全てじゃないってことか、。
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作品に、作者の内的な経験が投影されているかどうかだと思います。

その深度、純度などが、芸術の本髄に関わってくるのではないでしょうか。スピリチュアルであるかどうか、と言ってしまえばシンプルかもしれません。どの作品にスピリチュアリティを感じるかは、その鑑賞者が何を求め、探しているのかに関わっているのではないかと思っています。我々は、探しているものが自然と見つけられるように、センサーを働かしているのではないでしょうか。
スピリチュアリティと言う面では、コマーシャルアートは、ウケなければならず、時には奇をてらうこともゆるされるような、芸術としては少し不純なもののような気がします。
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