デカルトの考え方とは違うのですよね?誰のことを参考にしたら良いのかも分かりません。懐疑論や、弁証法などを使うのでしょうか・・・?

A 回答 (1件)

「心―身問題」の起源は、デカルトに求めることができます。

ですから、「デカルトの考え方」の中に含まれるといっていいでしょう。
デカルトの心身二元論を要約すると、精神(魂)と物体(身体)がこの世界に存在する独立した二つの実体であり、この場合、「考えるもの」である精神と「延長するもの」である肉体とにわけています。
もっといえば、この両者は互いに独立し、かかわりあうことがなくなるわけです。
彼の心身二元論はデカルト式懐疑論とももちろん関係があります(後のヒュームらの懐疑論との関係は不明ですが)。
「われ思う、ゆえに我あり」の「我」とはごく大雑把に言えば、観念の中の「我」、つまり「私だと認識することのできる精神」とでもいえると思います。

このデカルトの立場はのちに様々な哲学者の論争の的となります。もっと言えば、これ以降の西洋哲学ではほとんどすべてといっていいぐらい、心―身問題は大なり小なりかかわることになります。
ですから、哲学者をあげればキリがないので、代表的な人物、および著書だけ、以下に列挙します。
デカルト『情念論』(中央公論社『世界の名著22』)
K.R.ポパー&J.C.エルクス『自我と脳』(思索社)
M.メルロ・ポンティー『知覚の現象学』(みすず書房)
M.ブンケ『精神の本性について』(産業図書)
また、日本においては…
坂本百大『心と身体』(岩波書店) 広松渉『身心問題』(青土社)
市川浩『精神としての身体』(勁草書房)などがあります。
最近では
種村完司『心―身のリアリズム』(青木書店)
唯物論研究協会編「こころとからだ」(同上)
などが比較的わかりやすく「身―心問題」について論じられていると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」で、少し勉強したので、他の哲学者をまた読むよりは、理解しやすいと思うので、また、当たってみたいと思います。また、ヒュームも、時間があったら、かじってみたいと思います。参考文献まで書いていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 21:44

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q超越論的弁証論 理想一般について

人はどのようにしてある対象が空想か理想であるかを判断するのでしょうか?

Aベストアンサー

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にしていく助けになればと考えています。

そこで先回のように逆に質問をさせていただいたわけです。自由に書いてくださいと言われても、逆に困ってしまいます。

ただ、補足要求をしておいて、結局何も答えないというのは、お互い、気分の悪いものですから、このご質問も「超越論的弁証論」と表題にあるように、あくまでカントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」における「理想」に限定して、回答します。


たとえばわたしたちがこういう場で、誰かの書いた文章を読むとする。断片的な文章であっても、やがてわたしたちはそれをまとめあげて、ひとつの組織だった書き手のイメージをいつのまにか自分の内に築いていきます。何度かそれを重ねるうちに、しだいに相手のが「どんな人か」をも理解できるようになります。そんなふうに、わたしたちはさまざまな要素を相互に関連づけ、統一するプロセスを、「こころのはたらき」としてもっています。そうしてカントはここに「判断」が働いているといいます。

木の幹の一部の拡大写真を見て、これは「木」だ、と判断するように、わたしたちのあらゆる知覚や思考や概念はこのように統合-判断を繰りかえしている。そうしてその裏には、こうした判断を下す「高等裁判官」が控えている、とカントは考えました。この高等裁判官が下す判断を「統覚による超越論的かつ先天的な統一」とカントは呼んだのです(まあほかにもいろんな呼び方をして、わたしたちの頭を混乱させるのですが)。
この統覚で重要なのは
・経験にさきだってあたえられること……だから先天的
・経験に由来するものではないこと……だから超越論的
この点です。

ではこの統覚の超越論的で先天的な統一は、いったい何によってささえられているのでしょう? 経験とは関係ないのだとしたら。
カントはそれは「わたしが考える」ということだというのです。「考えているわたし」、すなわち自我は超越論的であり、知覚に先立ってあたえられたものである、と。

わたしたちはさまざまな場面で考えます。それらは経験的なコギトであると同時に、経験を超えたものとも関係をもっている、ともいうのです。
もう少し、「経験と経験を超えたもの」について説明します。

たとえばわたしたちは目の前でわんわんと吠えている毛むくじゃらの生き物を見て「犬がいる」と思います。その判断は、現在のわたしたちの感覚や、過去の経験の記憶からつくりだされたものであり、空間と時間の形式のなかで統合され、実体として構成されます。

犬が飼いたいな、とニール・テナントが歌う。「大きな犬じゃなくて、チワワがいい」という歌詞を聴きながら、わたしたちはそれぞれに、その歌に出てくる犬のイメージをふくらませていきます。その犬は現実にはいない犬ですが、やはりわたしたちは過去の経験の記憶をもとに、空間と時間の形式のなかで統合し、実体として構成していきます。

犬と遊ぶときのわたしたちは、世界に一匹しかいない具体的な犬と関係しながら、同時にその向こうに抽象的な犬とも関わっている。犬の歌を聴きながら、そこに歌われる実際にはどこにもいない「チワワ」と関係しながら、抽象的な犬とも関わっています。その抽象的な「犬」は経験のなかには存在しません。経験したことがないから、わたしたちはその抽象的な犬を知ることができません。けれども、逆に、わたしたちの個々の犬経験が依拠している「なにものか」なのです。

このような経験することができないにもかかわらず、なおかつあらゆる経験の底にあるものをカントは「物自体」と呼びます。

わたしたちの判断は、経験そのものにたいしてのみ、なりたつものです。わたしたちは、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。カントはわたしたちの経験世界を「現象界」と呼びますが、「個々の犬」と「抽象的な犬」の関係にあたるように、現象界が依拠する「なにものか」の世界がある、現象界はこれを超えたものを前提としている、というのです。けれども、その世界がなんであるかは決して知ることができません。

この「物自体」の世界は、ほんとうに存在するのでしょうか。
存在するというどのような証拠があるのでしょうか。
カントによれば、そのような証拠はなにもない、といいます。それは、わたしたちが要請することができるだけです。

わたしたちは、個々ばらばらの固体からなる世界に生きています。けれども、わたしたちはそれを感性的な空間へと分析し、空間的に構成しなおします。個々の固体を一様性のもとに分類し、原因と結果という形式に帰着させていきます。それもみなすべて、わたしたちのこころのはたらきです。
わたしたちは、ここに法則を見いだします。法則ということは、すなわち、この経験が継続することを要請し、未来へと当てはめようとしていることにほかなりません。いちどきりの出来事を「経験」と認識するのも、それが継続することを要請しているからです。

ところで、ここに非常に興味深いことがあります。
わたしたちは、出来事を「経験」ととらえ、因果関係の形式に置くとする一方で、わたしたちは自分の行為は自分に責任がある、と考えていることです。
わたしたちは自分の行為をいつも因果律に従って説明します。こういう理由でこうしたんだ、このような動機があった、と、行為を因果律の下に置く。にもかかわらず、自分に責任があることを認めます。そうして、責任をともなうということは、「それをしない自由はあったのだが、あえて自分はそれをした」というふうに、「自由」を要請しているのです。

この「自由」は現象界に属するものではありません。
現象界ではあらゆる出来事が、先行する出来事を原因とする因果律の下に置かれているからです。もし自我に責任があるものであるなら、自我は「物自体」の世界になければならない、ということになります。

わたしたちは、自分が知ることのできない「物自体」の世界が、秩序を持った知的な世界であることを前提としています。わたしたちのひとつひとつの行為はそうした前提をともなっているのです。わたしたちの行為は、先行する出来事によって決定されているかに見えますが、もしそこで「自由」に行為することができるとするならば、「物自体」に属する自我が要請されているのです。

さて、長くなりましたが、いよいよ「理想」です。
わたしたちは「脚の長い男の子がわたしの理想」というふうに、おっそろしく粗雑にこの言葉を使ったりしますが(ちなみにわたしの理想は脚の長さとは関係ありません)、カントの「理想」は、逆に、おっそろしく立派なものです。なにしろ「理想とは理念によってのみ規定せられうる、いな、それどころか規定せられているようなものである」(B.596)というのですから。

超越論的弁証論では神の存在論的証明を批判します。そうして、神は「理念」としてある。そうして、その神の理念によって規定されているのが、この理想である、と。

この理想は、わたしたちの個々の経験が「物自体」を前提としているように、人間の理性が前提としているもの、理性にとっての前提として、わたしたちを行為へと導くもの、ということになります。

空想とは、質問者さんが#2の方の補足欄でおっしゃっておられるように、何ら行為をともなわないもの、その意味で

> 現実世界へ働きかけることはなく

ということ、カントに即していうなら、現象界とは関わり合いをもたない、どこまでもいく理性のみのはたらき、と言えるかと思います。

以上、長くなりましたが。

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にし...続きを読む

Qヒュームの懐疑論

ヒュームの懐疑論

来年度受験予定の高校2年生です。
世界史でどうしてもわからないところを質問させてください。

17~18世紀の文化のところです。

哲学ででてくるヒュームという人のプリントの説明で、

観念論的経験論→懐疑論

とあります。

これをわかりやすく説明してくださいませんか?
一応、ウィキペディアなどのいくつかのサイトや、用語集、資料集、事典などは調べていますが、難しい言葉を難しい言葉で説明してあるものが多く、私には理解できません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 はじめまして、ご参考になればと想い筆を取らせていただきました。

 以下のWikipediaの説明文に解説を加えるという形で進めさせていただきました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0) からです)

(1)ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立の過程をそのそもそもの源泉を問うというやり方で問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていないと考える

 一例として、“万有引力の法則”を上げますと、これは一般的な科学では、基本原則となっているかと思われます。確に、その存在については疑問を持たないのが普通かと思われます。ですが、その原因の必然性を考えて見ますと、もちろん、なぜ“万有引力”なるものが存在しているのかについての原因・理由はわからないと思われます(事実、その引力が生じる原理は全く今の科学でも未解明です)。そこで、「とにかく存在するのだ」とこじつけがみられるのではないでしょうか。そして、明日もこの“万有引力”なるものが存在し続けるかは、その保障はないと考えられます(誰も、断定できないと思われます)。従いまして、“(人間が作り出した、公理系である)数学”のみを論証可能な学問と位置づけたわけです。

(2)ピュロンのような過激な懐疑は避けた比較的緩やかな懐疑論を打ち立て、結果的に人間の知および経験論の限界を示した。

懐疑論の定義:世界というのは、本当は私たちが経験しているのは全く違ったものなんじゃないか、つまり、私たちが経験しているのは実は世界についての完全なる幻覚なんじゃないか、と疑うこと。あるいはその姿勢。
本気で疑っているわけではなく、我々が日常的に信じている前提を正当化するのに使っている理屈や概念のほうを問い直すことが目的。

 以上のような“懐疑論”を打ちたて、人間の知(理性)について、その限界を示唆したかったのでしょう。
当時は、例えば、「絵画で、アダムの裸像を描くとき、そのとき、ヘソを描くべきかどうか」という討論がなされたといわれています(アダムは女から生まれたわけではないため、そのような疑問がでてきたのかと思われます)。ですが、これにつきまして、真偽を確認でれるかといいますと、それは、不可能だと断じるわけでございます。
 また、上述(1)ように”経験論”の問題点も浮き彫りにしたと考えられます。



(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96 からです)

(1)ヒュームが疑うのは、経験的事実ではなく、そこに設定される因果関係と帰納によるその正当化である。

 ヒュームが問題視するには、“経験的事実”(実験結果もしくは、実験から得られた観測結果)ではなく、因果関係と帰納(科学的経験則により導かれた結論・推論)により得られた“正当性”です。つまり、彼によれば、帰納的推論により得られた“真理”と思われているものに対しては、“真理”とは断定できないと解します。つまり、極端に申しますと、それは、“幻想”だという訳です。

(2)ヒュームによれば、「初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、哲学で一般的な基本原則となっている」が、「よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤っており、こじつけである」

 以上の説明から、概略はつかめるかと存じます。
 またな何かございましたら、以下の“補足要求”にて、ご質問くださいませ。

 ご参考になれば幸いでございます。

 はじめまして、ご参考になればと想い筆を取らせていただきました。

 以下のWikipediaの説明文に解説を加えるという形で進めさせていただきました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0) からです)

(1)ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立の過程をそのそもそもの源泉を問うというやり方で問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達すること...続きを読む

Qデカルトの身心二元論、わかりやすく教えて!

デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
特にわからないのは、
「物(身体)は延長を本質とし,心(精神)は非延長的な思考を本質とする」
という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

Aベストアンサー

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
どれもないものは、だから精神なわけです。

延長というのは物体が空間の中に存在する以上、必然のことであり、
空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広...続きを読む

Qなぜ日本人は地球温暖化懐疑論デマに溺れたのか

約20年間、気候変動の問題に関わってきて、いまだに不思議に思うのは、正式な学術会議で議論され、国連から報告されてきたIPCCの報告書が、知識の浅い一般国民や金儲けに奔走している企業人ならいざ知らず、専門知識外とは言え、高学歴の元東大教授などが批判し、これをマスコミの多くが取り上げて、日本中に温暖化懐疑論デマがはびこったことです。

なぜ、日本人は先の大戦で300万人も戦死するような国民的狂気に突っ走ったのか疑問に思いましたが、これと同じことが目の前で繰り返されているのではないかと思いました。

最近、予測通り気候変動が少し顕著になってきたので、正気を取り戻してきたマスコミもあるようですが、これでは、ムチを打たれて方向を変える家畜と知的レベルが変わらないではないでしょうか。

氷河期が終わって約1万年間で最も気温の高かった時期が約6千年前の縄文海進期で、その時の気温は+2.0℃でした。これを超えると現在の生態系や気候が激変すると言われてきましたが、ほとんど本格的な対策を講じてきませんでしたので、CO2の濃度はかなり高くなってしまいました。
ここに至って、+2.0℃以下を順守しようとすると、今世紀後半にはCO2排出量を100%削減し、その上で+2.0℃に相当するCO2濃度まで下げるため、大気中に拡散してしまったCO2を人為的に回収しなければならない。
このことは、9月に発表されたIPCC第5次評価報告書を読めば理解できる内容です。

現在起きている「地球温暖化」とはこれほどまでの事態なのに、NHKの解説委員までもこの「温暖化懐疑論デマ」に流されてきました。
日本人はどうして巨大なデマに弱いのか不思議でならないのです。

約20年間、気候変動の問題に関わってきて、いまだに不思議に思うのは、正式な学術会議で議論され、国連から報告されてきたIPCCの報告書が、知識の浅い一般国民や金儲けに奔走している企業人ならいざ知らず、専門知識外とは言え、高学歴の元東大教授などが批判し、これをマスコミの多くが取り上げて、日本中に温暖化懐疑論デマがはびこったことです。

なぜ、日本人は先の大戦で300万人も戦死するような国民的狂気に突っ走ったのか疑問に思いましたが、これと同じことが目の前で繰り返されているのではないかと思い...続きを読む

Aベストアンサー

普段から関心を抱いている問題です。ご質問に感謝します。すでに立派な意見が幾つか寄せられていますので、私は、(回答にならないかも知れませんが)少し違った観点からお答えします。

(1)この種の問題に関心を持たれたことに敬服します。
世はまさに無関心時代。ノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルは言ったそうです。「愛の反対は、憎しみではない。それは無関心だ。戦争の反対は平和ではない。それは無関心だ。無関心こそ、最悪の罪だ」と。そんな風潮の、つまり、無関心の跋扈する昨今、こういうことに関心を持ち、問題提起なさったことに感謝します。

(2)行動原理のよりどころすなわち判断基準とすること、は大きく分けて2つあります。
「正・不正の原理」(人類・生命・地球にとって正しいことか否か)と、「要・不要の原理」(自分にとって必要か否か)です。我々は通常、無意識のうちにこの2つを使い分けていますが、残念ながら多くの場合この両価値観は対立しますね。それで、様々な苦悩や対立抗争が発生してきます。先進国と開発途上国の対立などは、その典型的な拡大版と言えるのでははいでしょうか。悩ましい問題です。

(3)アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」と。これはつまり、「後者、人類の愚かさが無限であることについては確信がある」ということの別表現と捉えられなくもありませんね。
それというのも、「人類は99%以上の確率で自滅する」という見方があることとも呼応するからです。確かに我々は愚かで、自分で自分の首を絞めるようなことを延々とやってきたのかも知れません。しかし、自滅の確率が「100%ではない」ところに一縷の望みを繋いで、より賢明な判断や行動を模索したいものです。

(4)ものの見方に関する当為として、例えば弁証法やパースペクティビズム(遠近法主義)などがありますね。いずれも、自己の見たものと他者のそれとをすり合わせて、より普遍的な真理を模索しようとする姿勢と言えるでしょう。自分で自分を滅ぼしてしまうような愚行を避けるために、今ほど衆知を結集しなければならにときはない、と思います。
その意味で、一石を投じてくれた質問者様と、すでに寄せられている多くの回答に感謝する次第です。上で私は、具体的な提言はあえてしませんでしたが、「地球温暖化」については、このサイトなどを参考にさせてもらいながら、考え続けていくつもりです。人間のみならず、地上のあらゆる生命にとっても重大問題に違いありませんので、つねに心に留めて、「草の根」的な原動力の一部になっていければ、と考えています。

普段から関心を抱いている問題です。ご質問に感謝します。すでに立派な意見が幾つか寄せられていますので、私は、(回答にならないかも知れませんが)少し違った観点からお答えします。

(1)この種の問題に関心を持たれたことに敬服します。
世はまさに無関心時代。ノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルは言ったそうです。「愛の反対は、憎しみではない。それは無関心だ。戦争の反対は平和ではない。それは無関心だ。無関心こそ、最悪の罪だ」と。そんな風潮の、つまり、無関心の跋扈する昨今、こういうこと...続きを読む

Q懐疑論

  Wikipediaの懐疑主義の項目では、

「懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」

という説明がされているが、本当に、普遍性のある原理を得られないと直ちに判断停止に陥ることになるか?

  「~という信念が正しいということを正当化することができるか」、「~という信念が誤っているということを正当化することができるか」という問い(「~」は同一の対象)を行い、その結果双方ともに失敗した場合、「~という信念が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することはできない」という結論が得られるが、ここでは「その信念を正当化することができない」という「理論」が打ち立てられるだけで、だから「実践」においては各人のかってであるということになる。
  つまり、かってな判断はできるし、そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない(なかには判断停止する人もいるかもしれないが)。

  Wikipediaの懐疑主義の項目では、

「懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」

という説明がされているが、本当に、普遍性のある原理を得られないと直ちに判断停止に陥ることになるか?

  「~という信念が...続きを読む

Aベストアンサー

ご紹介していただいたWikipediaの
「懐疑主義が、~~、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」
という箇所を非常に興味深く拝見しました。
そして、これが「>論難」された理由が面白いと感じると共に、さもありなんと感じた次第です。

「>神や存在の確かさをも疑う」ことこそが、人を人たらしめる最後の砦であろうと考えるからです。
つまり、「神の不在」や「存在の危うさ」を認識することによって初めて「我」の存在理由が生起するはずだからです。
何かにすがりたくなった時に、信ずる対象として神なるものを捏造して事足れりとしたり、
あるいは逆に、闇雲に自らの力を過信したりする短絡さによって存在の確かさを確保しようとすることから、一体何が得られるのか、と思います。

「神はいる」でも「神などいない」でもなく、「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」という不可知論こそが、「世界を認識する主体としての『我』」を可能にするのではないでしょうか。
「判断停止」という見方は言葉の遊びにすぎません。
「判断不能にも拘わらず判断する」よりは真理の放棄につながる確率は遥かに低いはずだから。

>「実践」においては各人のかってであるということになる。
:という点がまさに、懐疑論が論難された根本的理由だと思います。
結局、他者の管理・支配をせずにはおれない怖れを抱いた、臆病な者によってなされたに相違ないことでしょう。

>そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない
:とおっしゃるのはその通りで、それ以前にむしろ論難する(した)側に、
生きるという選択の基準、あるいは根拠自体が判断停止の結果である、という側面があったのではないか、という気がします。

ご紹介していただいたWikipediaの
「懐疑主義が、~~、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」
という箇所を非常に興味深く拝見しました。
そして、これが「>論難」された理由が面白いと感じると共に、さもありなんと感じた次第です。

「>神や存在の確かさをも疑う」ことこそが、人を人たらしめる最後の砦であろうと考えるからです。
つまり、「神の不在」や「存在の危うさ」を認識することによって初めて「我」の存在理由が生起するはずだか...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報