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方伯とはどのあたりの貴族の位でしょうか?
英国の貴族との比較で解説していただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

方伯 (Landgraf)とは


神聖ローマ皇帝直属で公爵とほぼ同格の領主のことで、
ドイツ爵位で公爵に相当するヘルツォーク(Herzog) と
伯爵に相当するグラーフ(Graf) の間にあたるとされる。

神聖ローマ帝国の爵位の固有名詞のため
英語に相当する言葉はなく、英語形のLandgraveは
そのまま方伯と訳される。

フランク王国の爵位である、辺境伯(Markgraf)と
ほぼそれに準じる侯爵(Marquis)という爵位と、
同格ではあるが、同じではない。
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Q織田「上総介」信長について

「上総介」は正式に得たものですか、それとも自称ですか。
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Aベストアンサー

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する)、根拠は不明です。弾正忠、備後守までの中継ぎということ、本家筋の織田家(守護代)は大和守、伊勢守を通称していること、などから、(1)受領系統の名前が穏当(当時の風潮としても受領名のほうが人気が高かった)、(2)備後、大和、伊勢クラスの国とつりあいをとった(上総、大和、伊勢は上国で守が従五位上、介が正六位下――ただし信長は最初知らずに守を名乗っていたので宗家並みのつもりだったのかもしれない――、備後は大国で守が従五位上)、などの理由によるものではないでしょうか。ちなみに上野、常陸も上国です。

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する...続きを読む

Q男爵領、伯爵領の規模って

西欧の貴族の男爵領、伯爵領等について。

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ここまでが男爵領、これ以上が伯爵領、侯爵領というような基準を知っている方がおられたら教えていただきたいのですが。

Aベストアンサー

爵位と領地の広さは関係ありません。
男爵領を持つ領主を男爵と言い、伯爵領を所有する領主が伯爵となります。
そもそも男爵とは、昔からその地を収めていた豪族にあたります。
子爵は、上級領主から派遣された者がその地に根づいた者、伯爵は、国王や上級領主から叙勲された者をいいます。
ですから、昔から広大な所領をもっている土豪は、広大な領土を持つ男爵となります。
12世紀ごろ南フランスのカルカッソンヌ子爵は、カルカッソンヌ・ベジエ・アルビなど広大な領土を支配していました。
それは、フォア伯爵領の2倍にもなり、アンジュー伯爵領やブリターニュ公爵領にひってきする面積になりました。


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