いちばん失敗した人決定戦

少し前に、長い間気になっていた親鸞上人の言葉について質問して教えてもらった者です。

その後歎異抄の解説本を買ってよんでみました。

歎異抄二条を私なりに解釈すると「宗教的な命題は本当かどうかなんか言えるはずが無く、信じるか信じないかしかない。」ということを言っているのだと思いますが、800年も前にすごいことを言う人がいたもんだと感心しました。

しかし、宗教の教祖というより哲学者に近い考えで、これでよく日蓮なんかに対抗して教えを広めることができたもんだと、不思議な気がします。当時の日本の民衆はこのような思想に簡単になじめたのでしょうか?

A 回答 (6件)

>>おそらく関東では日蓮上人が念仏を批判し、また日蓮宗ならおそらく議論を挑んで来たのではないかと思うのですが、それにたいして「信ずるほかに別の子細なきなり」で対抗できたのか?


 そうですねぇ。私自身日蓮宗系新興宗教の折伏を体験したことがありますが、あれはなかなか骨が折れましたぇ。けれども最終的には「信ずるほかに別の子細なきなり」に落ち着くのかなぁ、と思ったりもします。私自身が愚鈍下智ですからねぇ。それ以外言いようがないというところです。
 しかし、そういったことの理論武装が浄土教側にないわけではありません。凡夫とはおろかなものであるとして、別解・別行、異学・異見・異執(別の見解を持った人)の者達が、多くの経・論を証拠として凡夫が往生することができないという非難にあったときに、どのようにして動揺することなく、極楽往生への道を進めばよいのかと言う問いに対して、法然上人は『選択本願念仏集』の中で、中国浄土教の大成者である善導大師の『観無量寿経疏』散善義 深心釈を引用してこのように述べています。

  (本文)
仁者雖将経論来証 不生如我意者決定不受汝破何以故然我亦不是不信彼諸経論盡皆仰信然佛説彼経時處別時別對機別利益別又説彼経時即非説観経彌陀経等
  (書き下し)
汝経論を将って来り証して生ぜんと道うといえども、我が意のごときは、決定して汝が破を受けず。何をもってが故に。然るに我また、これらの諸経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰いで信ず。然れども仏かの経を説きたまう時は、処別に、時別に、待機別に利益別なり。またかの経を説きたまう時は、すなわち観経阿弥陀経等を説きたまう時に非ず

別解・別行、異学・異見・異執の者達の批判に対しては、善導大師はまず釈尊の「待機説法」を理由としてあげられています。
 たとえ、別解・別行、異学・異見・異執の者達がたくさんの経典をもって凡夫の極楽往生が不可能であるとしても、それは、釈尊が阿弥陀仏の本願を中心に説いた時の経典ではありません。もしその否定の根拠となる経典が、自力の修行をもって悟りに向かうために説いた経典であったとしたら、それは阿弥陀仏の本願をもって凡夫が極楽に往生させるために説かれた経典を否定する根拠にはなりえません。
 なぜなら、釈尊が教えを説かれる時は、相手の機根(才能とでも考えてください。)に合わせて説かれています。阿弥陀仏の本願力によって極楽往生し悟りを開くことがその機根にあっているものに対して、自力の修行を説く経典をもって、念仏して往生するための教えを否定する事はできません。つまり、否定する根拠としている経典と、阿弥陀仏のことが説かれている経典とは、土俵が違いであり、比べる事はできないのです。要するに、数学を教えたいのに国語の教科書で数学を教えようとしているようなものです。
 これは一部ではありますが、浄土教側の理論武装です。少なくとも日蓮聖人の理論武装に、引けをとるということはないはずです。そういったことを親鸞聖人が唯円を含めた関東の御同朋にお伝えしていないはずありません。ですから、そういった理論的な教義を踏まえたうえでの「信ずるほかに別の子細なきなり」というお答えになったのではないでしょうか。私自身はそのように解釈しています。確固たる論証にもとづいたうえでの「信心」のあるべき姿という事です。

 
>>浄土真宗は、戦国の末期には日本最大の教団になっています。これは蓮如上人の力によるもので、それまではどちらかといえば他の宗派に押されていたということでしょうか?
 この問いは、その通りです。浄土真宗(浄土教系の宗派は全てかもしれません)は蓮如聖人以前は天台宗の寓宗(ぐうしゅう・付属している宗派)という見方がほとんどでした。
 そのころ本願寺は青蓮院(天台宗の京都五箇室門跡の一つ)の末寺という位置にありました。また青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺から激しく弾圧をうけ、これに蓮如聖人は延暦寺への上納金支払いを拒絶したりして対抗します。しかし、延暦寺は本願寺と蓮如聖人を「仏敵」として、大谷本願寺を破壊してしまします。
 それから蓮如聖人は各地を転々とし、数年の後、越前吉崎に赴き崎御坊を建立しました。吉崎は一気に賑わい、信者は奥羽からも集まっってきたそうです。そこから、 浄土真宗もどんどん盛り上がっていき、蓮如聖人亡き後信長等に一目置かれるほどの教団へと成長していきます。
 このようなことから、蓮如聖人という方が真宗を大教団にしていく基礎を作ったかたとなるでしょう。

 また、長い文章になってしまいました。すいません。お答えになっていたかどうかはわかりませんが、このような感じだと思います。参考にしていただければ幸いです。
  合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

何度も丁寧なお答えをいただきありがとうございます。

> 少なくとも日蓮聖人の理論武装に、引けをとるということはないはずです。
> そういったことを親鸞聖人が唯円を含めた関東の御同朋にお伝えしていない
> はずありません。ですから、そういった理論的な教義を踏まえたうえでの
> 「信ずるほかに別の子細なきなり」というお答えになったのではないでしょ
> うか。私自身はそのように解釈しています。確固たる論証にもとづいたうえ
> での「信心」のあるべき姿という事です。

なるほど、理論武装はちゃんとやっていたんですね。ここらへんは、善導大師の本とか教行信証とかを読まないとわからないのでしょうね。でも、さすがに素人には難しいんでしょうね。

私の我流の解釈だと、「親鸞におきては、、、」という言い方から、信仰は個人的なものであり、個人的に信じている以上、その人にとっては真理であり、念仏無間などと言われる筋合いはない、という考え方もあるのかな、と思っています。

いろいろ、素人の質問にお付き合いくださり、ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/04 02:48

・訂正と補足。

ANO.4のbaka-hageです。
 親鸞聖人の名前が載っていない。法然門下をまとめた書物の名前です。
『私聚百因縁集』  1257年 七愚勘住信著
『浄土法門源流章』 1311年 凝然

 江戸時代ごろの親鸞聖人の名前がある書物はちょっと見つかりませんでした。調査続行します。そこには確か「一向義」という名前でのっていたかと思います。

ここからは訂正です。
 真宗成立の年について「浄土真宗が「浄土真宗」として成立したのは1892年(明治五年)になってからです。」と書いてありますが、「1872(明治五年)」の間違いです。申し訳ない。

 蓮如上人の説明で「また親鸞聖人の主著『教行信証』のなかにある「正信偈」や「和讃」などを自らお書きになって多くの御門徒にくばり」というところがありますが、「書きになって」を「書き写されて」になおしておいてください。前者だと蓮如聖人が親鸞聖人の名を騙って作ったみたいになっちゃいますから。

 第二条の説明のなかに「親鸞聖人は「私は阿弥陀仏にすがり念仏する以外に教えることはない。」と一括されます。」とありますが、「一喝」の間違いですね。すみません。

 誤字脱字が多かったり、根拠と論書等の提出が曖昧でもうしわけないです。
  合掌 南無阿弥陀佛
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>>浄土真宗が大教団になれたわけは?


 この質問に関しては、親鸞聖人が大教団にしたとは言えないように思います。親鸞聖人自身はあくまで法然上人の一弟子であり、法然上人の開いた浄土宗こそが私を救う教えであると考えていたはずです。ですから一宗派の宗祖として「浄土真宗」なる宗派を大きくしていったという感覚はないはずです。なお、浄土真宗が「浄土真宗」として成立したのは1892年(明治五年)になってからです。また親鸞聖人が亡くなって以降も、しばらくの間は浄土宗の一派閥程度の感覚であるように思います。ちょっと書物の名前を忘れてしまいましたが(後で調べられたら載せます)、法然上人が亡くなった後に法然門下をまとめた書物の中に「弁長の鎮西義・証空の西山義・幸西の一念義・隆寛の多念義・長西の諸行本願義(九品寺義)」と親鸞聖人の名前は載っていなかったはずです。しかし江戸時代ごろに作られた法然上人門下をまとめた書物(名前が出てこないので調べたら載せます)のなかには、親鸞聖人の名前が載っていたはずです。
 ではその間で教団的に大きくしたのは誰かといえば、八代目蓮如聖人という方の存在を消すことはできません。越前(福井県)吉崎等を拠点に「御文」という御門徒にむけたわかりやすく教義を記したお手紙や、「南無阿弥陀佛」と書いた御名号の掛け軸、また親鸞聖人の主著『教行信証』のなかにある「正信偈」や「和讃」などを自らお書きになって多くの御門徒にくばり、精力的に布教活動をされました。それによって一気に教団として大きくなったようです。

>>歎異抄二条を私なりに解釈すると「宗教的な命題は本当かどうかなんか言えるはずが無く、信じるか信じないかしかない。」ということを言っているのだと思いますが、800年も前にすごいことを言う人がいたもんだと感心しました。
 私もそのように思います。それを親鸞聖人に信じさせる魅力を浄土教というものは、また師法然上人は持っていたことも言えるでしょう。
 また、第二条に関してはこのようなこともいえると思います。なぜ『歎異抄』の著者である唯円は十余ヶ国も越えて、はるばる関東から京都へ旅をしなければなかったかということです。
 それは、親鸞聖人が京都に帰られた後関東において親鸞聖人門下の中に親鸞聖人の言っていたことと違うことを言い始めた者が出てきたからです。その中の一人が、親鸞聖人の実子善鸞であったといわれています。「秘事法門」という父から授かった極楽往生の秘術があるというものでした。また、日蓮聖人等の念仏批判がなされ始めたのもこの頃と一致します。このような要因を持って、唯円等数人の門徒は親鸞聖人に直接その真偽を確かめにいくのです。
 それは、親鸞聖人への疑惑であり阿弥陀仏への疑心です。しかもそのきっかけを作ったのが、そういった間違った見解が生まれないよう関東に送った実子善鸞であったのですから、そのときの親鸞聖人のお気持ちは察するに余りあるものがあります。そんなことがありながらも親鸞聖人は「私は阿弥陀仏にすがり念仏する以外に教えることはない。」と一括されます。その痛快にして明快な答えはは唯円にとっては非常に頼もしく心強く聞こえたことでしょう。
 また、唯円の心の中には「関東から教徒までの苦しい旅をしてくれば、いままで以上の教えをもらえるはずだ。」という自力心であり下心のようなものを親鸞聖人は見抜いておられたのでしょう。だからこそ「私は念仏して往生できるか地獄に行くか、そんなことは知らん。」とおっしゃって、阿弥陀仏にすがるほかに悟への方法などない自分であること自覚しなさいと、求道者としての心持を伝えたのではないでしょうか。

>>宗教の教祖というより哲学者に近い考えで、これでよく日蓮なんかに対抗して教えを広めることができたもんだと、不思議な気がします。当時の日本の民衆はこのような思想に簡単になじめたのでしょうか?
 そうですねぇ。哲学者に近いかもしれません。しかしそれは自分の内観というものを深め続けた実践者なればこその見解でしょう。そんな親鸞聖人の真摯に自分と向き合う姿勢に共感した方も多かったと思います。それを「自信教人信」(じしんきょうにんしん)といって「自ら信じ、人をして信ぜしむ」という教化のしかたであると思います。もちろん、わかりやすい教えであったことも、念仏信仰者を増やした大きな要因の一つでしょう。
 ただ、「南無阿弥陀佛」という念仏への信仰自体は法然上人以前から恵心僧都源信や市聖空也上人によって広められ、民衆の間ではずいぶんメジャーな信仰であったようです。しかし、それは劣等者ができる簡単な善行という程度の認識だったようです。それに、阿弥陀仏が本願(第十八願)に定めてくださった行い(正定業)である「本願念仏」という意味づけしたのが法然上人であり、その教えを伝えたのが親鸞聖人ということになります。ですから、民衆へは簡単になじんで行ったように思います。
 
 また日蓮聖人に関して言えば、日蓮聖人が生まれたのは1222年といわれていますが、法然上人が亡くなった1212年の十年後ということになります。ですから、法然上人によって念仏はずいぶん民間に染み渡り、親鸞聖人やその他法然門下によってさらに広められた後に日蓮聖人は生まれたことになります。日蓮聖人が生まれた頃は念仏はすでに大メジャーであり、日蓮聖人自身も若い頃に法然の念仏信仰を大いに学んでいたはずです。どちらかといえば、題目のほうがマイナーであったようです。また、親鸞聖人や法然上人も念仏弾圧の法難を経験しておられますが、日蓮聖人は念仏者から命を狙われることもあったようです。親鸞聖人自身は日蓮聖人と面識はありませんが、先に説明した『歎異抄』第二条には日蓮宗による念仏批判があったことも暗に示しています。

 お答えになったかどうかはわかりませんが、長々駄文を連ねました。参考にしていただければ幸いです。
  合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。前回の質問と合わせて、なんどもありがとうございます。

おそらく関東では日蓮上人が念仏を批判し、また日蓮宗ならおそらく議論を挑んで来たのではないかと思うのですが、それにたいして「信ずるほかに別の子細なきなり」で対抗できたのか? というのが私の疑問でした。
なるほど、「自信教人信」ですか。親鸞上人は信仰に対して非常にまじめな態度で、方便のたぐいは実子でも(実子だからこそかな?)許さなかったようですが、これだとどうしても日蓮宗のような相手には押されてしまうのではないかと思うのですが。だからこそ、「十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして」教えを聞きに来たわけですよね。それに対して、「信ずるほかに別の子細なきなり」ではお弟子さんたちを納得させるにはそれでよいと思いますが、一般の末端の信者で日蓮の説法などを聞いて迷っている人たちをなっとくさせることができたのか? ということを不思議に思っているのです。実際には浄土真宗は、戦国の末期には日本最大の教団になっています。これは蓮如上人の力によるもので、それまではどちらかといえば他の宗派に押されていたということでしょうか?

お礼日時:2007/02/02 01:11

宗教の命題は、まず信じるか・信じないかで始まるのです。

これを「信仰門」といいます。信仰の門は、単純に「信じる」だけの選択で入れるわけです。目に見えないあの世の世界は、悟りたるものにしかわからないので、仏陀の言葉を信じる、それがすべての始まりなんですね。「信仰の門」があるということを法然や親鸞が持ち込んだわけですね。この門は「私は阿弥陀仏の救済を信じる」といえば入れたわけですね。より真理や悟りを求める者は、信仰門から真理の学び、悟りへと進んで悟りの門にはいっていくわけですね。そういう意味で、親鸞は宗教の正当な道を選んだだけですね。キリスト教も信仰門が広いですね。教義自体は非常に薄いものですが世界を席巻してますね。南無キリストといっているだけですね。親鸞のやり方もそれとまったく同じですね。
南無阿弥陀仏という意味は、私は阿弥陀仏に帰依します。という意味ですから、信じないと帰依できませんね。理解できないと信じないというのは信仰ではありませんね。哲学も同じですね、私はカント・ヘーゲルの教えを信じる、それがあって初めて師の考えに近づけるということです。師は生徒のレベルに応じた教えを説くんですね。現代は無知の知が横行してますから自分なりの解釈で大先生を理解しようとする、そこに間違いが多発してるということでもありますね。親鸞の時代もそうだったんでしょうね。そこで親鸞は原点の信仰をといたのでしょう。一方、日蓮さんはどうかといえば、あまりよろしくないですね。法華経を理解していたのならば法の精神を説くべきであったのですが、よくわからなかったんでしょうね。その上、人気もいまいちだったので批判していた人気の念仏のやり方をまねて、「南無法華経:法華経に帰依します」のお題目で広めてますね。仏教では、仏帰依、法帰依、僧帰依を三帰依といいますが、法帰依でやったわけですね。ということで、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもレベルは信仰門の入り口ということですね。念仏に変わりないですね。
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キャッチフレーズは「唱えさえずれば誰でもいける極楽」なので、俗人には大うけだったと思います。



ごくごく一部の人のみの教養だったものが、南無阿弥陀仏と唱えるだけで手に入る なので。

宗教は教養になるが、一部の支配者の独占教養だったが、俗人だって教養に対する欲求は強かったと思います。
その俗人の欲望にかなったのがこの宗派。
今のようにほとんどの人々は中産階級だったわけではなく、ごく一部の人が特権階級で、他は下層階級で教養もほとんど与えられていなかったと思えます。
(仏教が一般化するまでは)

特権階級の人のみが宗教をしていた。
ところがこの宗教が万人僧侶を誕生させた。
(カトリックはごく一部の人しか司祭になれませんでしたが、それに反発したプロテスタントは信者全員を司祭とする発想を生み出した。)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F% …
【そもそもは、一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏であると、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子を設けたことに由来する。】

もともと在家僧侶を救済するため作られた思想が、在家僧侶→一般信者も含む→なみあみだぶつと唱えることが可能な人全員→教養いらず意味知らずでも発音しさえすれば極楽にいける、と誤って? とらえられていったのではないかと。


>宗教の教祖というより哲学者に近い考えで、これでよく日蓮なんかに対抗して教えを広めることができたもんだと、不思議な気がします。

いや もともとは違うものだったと思えます。
ところが後に俗化されお手軽エステコースみたいなものになってしまったのではないかと。


さすがに唱えただけで極楽にいけるのなら、この世に苦しむ人など一人もいないはずです。
現実います。 だから信仰にすがろうとする人が絶えないわけです。

では開祖は間違えていたのか。
いや  後の解釈の人が間違えてしまっただけ。
「声紋システムでその通りに発音しさえすれば、極楽へのドアが開く」と言っていたわけじゃあない。
言葉の持つ意味 すなわち 真の力を知らずして発音しただけではそれは真の言葉ではないので、言葉の力は発動しないわけです。

それを言ったのに、その意味を取り違えた人が布教しちゃって、詐欺のようになってしまった。

信じるか信じないか ではなくて、信じる=真の言葉を知っている ってこと。

知っていると強いです。
知った人から出る言葉は違います。
ところが、聞いた人がその意味を知らないと、せっかくの力の言葉の波動をキャッチできない。
雑音にしか聞こえない 心が動かない 力が沸かない。

ということで、信者は発音できるだけでは駄目。
力を得る つまり真の言葉を体得しなければ極楽にいけないんです。
言葉の力を操るものから出る言葉を、意味を知らないために雑音としかとらないなら、受信しないので何も変化はない。

だと思います。


これってユダヤ教でもそうです。
古代ヘブル語はそのものを表していたようです。
象形文字なので、そのものズバリ現しているらしいのです。
が、古代へブル語は子音しかないので、発音できません。

子音に母音をつけることで絵だったものが実体化する。
しかし、神の心を知らないと母音を間違えてつけてしまい、子音の実体化に失敗する。
そうならないために真理を探究する。
探求して真の言葉を知った人 つまり 大祭司が民族の贖罪の儀式をすることができる。
その時 神の前に立ち、神の名を表す子音に母音をつけて神を実体化 つまり呼び出す。
その時 贖罪が不成功に終われば大祭司は神によって殺される。
だからみだりに神の名をとなえるな つまり 呼び出すなと言われているわけです。
呼び出す時は、裁きも覚悟の上で呼び出す。
言葉の持つ力とは 時には恐ろしい結果を招くこともある。

言葉は破壊力も持つわけです。

ということで、真の言葉を知らないで極楽に行かないで終えたほうが無難で、マントラを意味も知らずに唱えて極楽に行けるぞと信じて死ぬ方が、救済といえば救済かもしれません。
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昔も今も、大衆は難しいことは理解できません。




『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで誰でも極楽に行けるというシンプルさが大衆に受け入れられたのです。
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