プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

最近、社会的諸問題の根本に、あそび心の欠如が在るのではと、ふと、疑問を持ってしまいました。
抽象的で意味不明ですね、不適切な具体例ですが、以下のことからご推察ください。
西郷隆盛は征韓論に敗れ鹿児島へ帰っています、大志を抱いて上京した若者が、夢破れ帰農しました。自己実現の為の競争は、首都と言う競技場の「場」の中「ルール」を守って争われ、戦いに敗れたものにも帰る故郷がありました。ここには、「あそび」や「遊戯」の要素が残っているように思われます(正確には「余裕」かもしれませんが、面白くないので恣意的に{あそび}にしてみました)。
現在、帰農などと言う言葉はほとんど死語となっています、戦いに敗れた者は帰る故郷などありません。私たちは自分の意思に拘らず、全てを賭けた、自由競争と言うルーレットの中に生きざるを得ません。全てを賭ければ「あそび・遊戯」の要素はなくなります、真面目に、一所懸命に成らざるを得ません、こうして、我々は、一度の失敗も許されず、自己実現の精神を押さえ込み、不正に沈黙を守って生きて行かざるを得なくなったのではないでしょうか。
皆さんの、「あそび」についての哲学、私の妄想に対するご批判、その他、雑感、ご意見等ございましたらお教えください。

A 回答 (17件中1~10件)

そうですね。

やっぱり、存在意義とか生活の安全とかをすべて
「負ければ失う」と思ってしまったら、あそんでるひまはないのかな。
どうなのかしら。勝つこと以外は許されないゲームをするしかなくても、
それを楽しむことはできるかもしれないって思う。

失敗したときに帰るところがない。それは、つまり
「そんなおまえでもいいよ」と受け入れてくれる場所がないということですかね。
だけど自分で、負けた自分を高く評価しつづけることができるなら、
帰る場所はなくてもいいと思うんです。
言い換えれば、自分の心の中に帰れる場所がある。
そういうふうに自分を作っていくことができたら、
辛い状況でもその中で最大限に楽しむことはできると思います。

人生の流れをゲームとして考えるなら、
たとえば就職の失敗、リストラ経験、恋愛や結婚生活の挫折などは
ひとつひとつで見れば負けといえるかもしれないけど、
勝敗があるとしたら決定するのは死ぬときではないでしょうか。
ひとつ失点があったとしても、それで負けと決まるわけじゃない。
しかも、勝ち方にはいろいろあって、視野を広げ、工夫しさえすれば、
ゲームに参加した全員が勝ちになることだってあると思うんです。
だから、いろいろ挫折の要素が多い世の中と言われていても、
その中でゲームを楽しみたいと望み行動すれば、楽しめる気が私はします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

mimosa2001さん、ご回答有難うございます。
>それを楽しむことはできるかもしれないって思う。
私としては、信じられないことですが、背負っているものとの一体感が有れば可能かもしれません。
個人の資質によって差異があることは認めますが、現実の外務省や、ブランド詐称の問題も個人の資質に重点をおいてしまっては、問題の解決になるのでしょうか?
あそびとゲームは一寸違うような気がします、ゲームは遊びの一部のように考えています。
個人的な事と社会的なことで問題意識がずれてしまったかもしれませんが、ご回答のおかげで問題点が整理でき感謝いたしています。又よろしくお願いします。

お礼日時:2002/06/10 20:18

●わたしの回答も質問も 常に真剣です。


 あらゆる物事は「あそび」と「本体」と「関係」で成り立っていると
 言うこともできるのでは ないでしょうか?

 物事の本質が「あそび」と「本体」と「関係」で成り立っているとするならば
 物事が豊かになる要素のひとつとして「あそび」が果す役割は大きいと
 考えます。たとえばSEXを例にとりますと。
 女性器はネジ穴 男性器はネジ棒としてイメージしてください。
 女性器はネジ穴として機能するわけですが 小さいネジ棒から大きなネジ棒まで
 さまざまなネジ棒に対応する能力があります。つまり あそびがフレキシブルで
 あり、多様性に富んでいるわけです。男性器にはない 女性器のすばらしさの
 一つだと思います。この多様性ゆえに、オナニーの頻度に女性のその性交願望の高さが
 現れています(参考URL)。女性の毎日オナニーするひとの数は男性の十倍以上です。
 女性器の持つあそびが わたしを豊かにしてくれているのです。
 実は 男性器にもあそびがある時期が あるのです。それは 若い時期です。
 射精の回数にあそびがあります。そのような意味で わたしが若い男性に
 おぼれてしまうのも あそびのもつ豊かさ故だと感じております。

 世界のあらゆる物事にあそびがとても大切な要素であることが
 豊かさへの必要条件のひとつであると 確信いたしております。

参考URL:http://adultshop.co.jp/actualitys/onani.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
もう締め切りましたから、反撃は食らいませんね(管理者さんよろしく)。
私は、回答も質問もあそびです。
参考URL拝見しました、男の役割は代用できても、女神様は代わりが無いと言うことでしょうか。
「たとえば、私がなにか硬いものに触れるとき、わたしは圧力を感じ、固いものから圧力がやってくるとという。中略、本当は固いものはわたしの感覚の中にしかない」(法哲学講義 発行作品社 ヘーゲル)最後に哲学的部分を持てたのは、私にとって救いです。たとえ、わき道にそれたとしても。

お礼日時:2002/06/13 19:48

「選択」生きてることは、何度も何度も何かを「選択」しながら生きているんだなぁ~♪と、ふと、思いました。

これもまた「あそび」なのかなぁ~?

朝、目がさめる。ここからもう選択があったりします。もう一度、目を閉じてお布団の中で寝ていようかそれとも、シャキッ!っと起きようか?こんなかんじで、一日のうちでも、何度も何度もなにかを選択する場面がありますね。

家にプレステ用のdisc「ダブルキャスト」があります。このゲ-ム、何枚かシリ-ズになっていて「やるドラシリ-ズ」なんてよばれてるんです。ゲ-ムの構成は、まず、自分が主人公となってパラレルスト-リ-を体験するんです。すすめば、そこでいくつか選択項目が用意されていて、どれを選ぶかによって先の展開が変わってくるんです。何度も何度も何かを選択しなきゃなんない場面がでてきますから、何かをひとつ選択するのにもハラハラ、ドキドキ、選択していった最後にどんなことが待ち受けているかわからないんですから。ハッピ-エンドなのか悲惨な結末なのか。世の親御さん方は、子どもがTVゲ-ムをすることにどこかしら、よくないイメ-ジ抱かれている方も多いと思うんです。よくないイメ-ジばかりが先行するのもどうかなと。ゲ-ムをどう扱うかが問題のように思うんです。使う側の使い方しだいじゃないかと。

日常でいろんなことを選択する場面にであっているのに、あたりまえのように暮しているとあたりまえに慣れすぎて、何かを選択することの大事さとか危険さとかハラハラ、ドキドキかんじないまま過ごしていることおおいかもしれませんね。人や時間や物事に追われて、ただ足早にかけてたりしてね。「あそび」は、いろんなこと気がつかせてくれるなとおもう今日この頃です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

littlekissさん、続きです
「あそびとは真面目でないもの」「真面目はあそびでないもの」この辺りを哲学的に考えた方が良かったのかもしれません、ただその場合、現実に目が向かない点が不満ですね。
日々の生活があそびならテレビゲームはあそびの中のあそびでしょうか、私見ではテレビゲームは遊んでいると言うより、機械にあそばされている印象があります、私もただの世の親御さんです。
この質問は、結構「重く」なって来ましたので、一旦打ち切り、もう少し問題点を整理してやり直したいと思っています。
又お付き合いください。

お礼日時:2002/06/13 19:22

fishbowl66さん、お返事ありがとうございます。



fishbowl66さんのおっしゃられるところの「あそび」ですこしおうかがいしたいのですが?

「談合」という行為をするかしないかは、そのときの当人の問題であってわたしが口をはさむことではないと考えます。その行為を見た人がどう受け取るかも賛否両論あると思います。敢えて、いいとかわるいとかそんな短い言葉でかたずけられるものでもないとおもいます。人それぞれの事情もあることでしょうから。

わたしは、この質問で出会ったfishbowl66さんという一人の人とお話をさせてもらっているのであって、あなたがプライベ-トでこれまでにどんなことをしてきた方であっても、いまこうしてお話することに何か問題があるのでしょうか?わたしは、あなたがどこの誰であろうとなにをしてこられたかなんて問題にしません。ただ、あなたと話したいだけなんです。「仲良くしましょう」この言葉ありがとうございます。大事にこころに書き留めておきますね~♪(*^^*)/あんがと-☆
    • good
    • 0
この回答へのお礼

littlekissさん、ご回答有難うございます。
「あそびの哲学」を目指したわりに哲学的に「あそび」を検討していませんね、質問者の力量不足で、社会問題の領域にずれ込んでしまいました、談合の話も唯心論と唯物論の違いを説明したつもりが、益々社会問題の様相を帯びてしまい我ながら情けなく思っています。
私はあそびを大きく捉えて、子供のお遊戯から、スポーツ、芸術、知識、政治、戦争に至るまで「場」と「ルール」を備え自分の部分において楽しむものと考えていました、その意味から「ゆとり」もあそびとしましたが、其れで良かったかどうか反省しています。
いえいえ、こちらこそ、感謝しています。

お礼日時:2002/06/13 19:00

クジラを捕る捕ってはいけないあたりから少し...



「殺すことは悪である」という言葉があるとします。

これを、ちょっと分解してみてください。「殺す」とは何か?と「悪」とは何か?というふたつの問いが文の中にあります。分解するとこの言葉には問いが含まれているのに文節を区切らずに並べて一つの文にしてしまうと、おかしなことに、問いの前にすでに「殺すことは悪」という答えが存在しています。

何をもって殺さなければならないのか、何をもって悪とするのか十分に話し合う余地があるというふうには考えられないでしょうか?話し合う余地があるといあたりがあそびにあたると考えます。

「殺す」この言葉ひとつだけでいくつの事柄をイメ-ジしますか?「殺す」言葉から受ける印象そして、そこからイメ-ジをひとつまたひとつ構築していきます。イメ-ジを作り上げるのは、言葉を受け取った側です。言葉を受け取った側がすでにある記憶をたどって受け取り手がわに都合のよいモデルをそこに完成させます。都合のよいというのは、思い通りに動くということです。受け取り手側が製作したのですから、手にコントロ-ラ-を持ち動かしたとき思うように作動しない場合、心理的にあせりが働きます。わぁ、わぁ、、、なんでじゃぁ-????心理的パニックになることもあるでしょう。心理的パニックを受け取り手側自身に及んだ場合のことを考えてみてください。自制心がなくなり、冷静な判断ができなくなりますね。ともすれば、思考を停止させてしまいます。他の誰かが思考を停止させるのではなく思考を停止させるのは、もちろん自身の意思によってです。(自己責任)

責任は他者にあるのではなく自己にあることがひとつみえてきませんか?

しかし、パニック状態を回避することはできます。また、このネガティブな場面も効果的に自身に用いれば、「なぜ?動かないのか?」の疑問からさらに研究開発への意欲がわいてくることもあります。疑問にかんじまたその疑問を解決したいと望むか望まないかも自身の選択になります。(自己責任)

他者の問題ではなしに自己の問題であることが浮かび上がってきます。まずは、自己の問題に向き合う。問題は外にあるのではなく内にあるのです。他者を否定・拒絶・排除にはあそびはかんじられません。どんなに時間がかかっても話し合う姿勢にはあそびがあるとかんじます。話し合うことで、相手をよりおおく理解できるとおもうんです。理解しようという気持ちを捨てなければ。理解がうまれれば、合意点もみいだせるのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

littlekissさん、ご回答有難うございます。
私自身は、この質問の中で、「あそび」と社会についていろんな意見を聞きたいと思っています、もちろん相手を理解する努力もするつもりです(時間の制約で至らぬ点もあるかもしれませんが)。
littlekissさんの回答を読んで感じたことは、唯物論と唯心論の違いのような気がします、決してどちらか一方が正しいとは考えませんし、個人は社会に影響され、社会は個人の総体です、どちらが先とはいえませんが、個人は差異に価値があり、社会は平等に価値があるとすれば、個人の自己責任より、社会の不平等に「あそび」の欠如の原因があるような気がするのです。
上手く言えませんね、仕方が無いので自分の経験を少しだけお話します。
 昔々あるところの談合の件です
私は、担当者として断固として拒否しました(当時は談合は必要悪で、談合破りがルールを無視した悪でした)結果は自分の好きな仕事からの担当換えです。
今度は、私の企画が採用され、規定により一般競争入札です、入札で落札しなければ私の苦労は水の泡、私が談合を仕掛けねば成りません、一度談合を仕掛けておいで、相手が同じ立場のときに断れるのでしょうか。個人の力はかようにか弱い物です。談合が悪と表面上でも言われるようになったのは最近の「社会」の変化だと思います。
意見が違っても仲良くしましょう、ご回答有難うございます。

お礼日時:2002/06/12 20:30

●わたしのスレッドに 書き込みがなくって 退屈なので


 こちらにすこし書かせてください。

 わたしがfishbowl66さんを どんな方かと想像してみますと
 たぶん ちゃんと自分がある方だと思います。
 だれでも あるだろうと思うでしょうが こう言う意味なんです。
 自分のある方とは ものごころついた時から すでに自分があるんです。
 言い換えれば 世界を見切ってしまえてるんですね。知識は知識として
 吸収するけれども 決して知識には影響されない芯をもっています。
 実は わたしもこの手の人間のひとりです。たぶんfishbowl66さんも
 そうだと感じます。この手の人間の優れているところは「あそび」を
 ちゃんと心得ているところです。健全な子供のように 喧嘩しても
 ケロっと仲直りできるし 今泣いたカラスが笑ったりもします。
 健全な子供のように なにがやさしいことなのか なにがいけないことなのか
 なにが悲しいことなのか なにがうれしいことなのか
 理屈を超えて ちゃんと感覚できるのです。何に於いても 理屈を超えて
 ちゃんとただしく感覚できる精神には「あそび」が中庸として在るのです。
 
 そのような観点で 世界を見てみると あらゆることが概念でしばられて
 いるという現実に唖然とします。感覚が生かされていないんですね。
 これが わたしの恐怖の源であり 悪寒の源だと思います。
 概念に洗脳されて こどものころの純真な感覚を失っている方々のあまたなるを
 憂いつつ、人気のない夕暮れの小道で ひざを抱くようにしゃがみ
 そばに立つ木の幹の太さに そっと性器に手をふれるわたしでした・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
暇つぶしとはいえ、このように誉められると、木の上に登って降りられなくなりそうです。
それでも、基本的には仰るような存在で有りたいとは考えています。
しかし、ここまで書いて、この回答自体が「あそび」ではないだろうかという疑問が出てきました、何処までが「あそび」で何処から「真面目」か判らない、正に「あそび」とはなにかを考えさせられる回答でした。

お礼日時:2002/06/12 19:45

#5の者です



帰農の件について

今の流れは、一時代前より太くなっていると思います。
おそらく自由度が増しているためであり、また受け入れ側も整い始め、選択肢が広がっているためでしょう。どうしても都会と田舎では長閑(のどか)さに於いて、田舎に軍配が上がります。長閑さはあそび心の故郷でもあることでしょう。
「ウサギ美味しい 彼の山  コブナ釣師 彼の川 ♪?」
たとえ少しばかり違っていようと、責める側が野暮というものです。

温故知新について

平安時代にパロディの先駆者がいて、堤中納言物語なる10篇の短編を編んだそうです。
その中であれっと思ったくだりがありました。
「人人心を惑わしてののしるに、君はいと長閑にて… 」・虫愛ずる姫
正統派のあそび心を今に伝えていると思いました。

なお、著作権は切れていそうなので全文を引き合いに出したいところですが、別の制約のために思い留まります。
ヤレヤレ (^^;)

以上、前回の追補でした
    • good
    • 0
この回答へのお礼

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
帰農の件で慰めていただき感謝いたします、私は自分の失敗を誇りに思うタイプです、基本的に行動を起こして試行錯誤の繰り返しを楽しんでいます。
帰農の件は元々不適切な喩えですが、社会にあそびがあった具体例を他に見つけられなかったことが失敗だったようです。粋と野暮はあそびと真面目に対比していて面白いですね。
「ムシメズルヒメ」懐かしいですね、高校の古文の時間でしょうか、変な名前だと思った記憶と、電車に乗り合わせる綺麗な先輩と、一面のコスモス畑を思い出します。

ところで、農村に新しい生活を求めた人々は、ほんとうにあそびのある生活を見つけられるのでしょうか。資本主義は決して美味しい市場を見逃しはしません。

それでも、正直、有り難いご回答でした。

お礼日時:2002/06/12 19:40

政治のことは、うまく判断するほどの知識を持っていません、ごめんなさい。


鈴木氏のことやブランド詐称の事件については、
ああ、損な選択をしてしまった人たちだなと私は思っています。
それが彼らにとっては、ベストと思えたのでしょう。
あなたは彼らを取り巻く環境がどうだったらいいと思ったのでしょうね。
そのあたりを読み取ることができませんでしたので、
核心に近いコメントをすることができなくて残念です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

mimosa2001さん、ご回答有難うございます。
今回の質問は、あそびの精神の欠如が最近の社会問題の根本に存在するかどうかと言うことです。
確かに、鈴木氏は違法な行為の疑いのある特殊な存在ですから一般論からはずした方が良いかもしれません、それでも盗人にも五分の魂?(違ったかな)止められない理由が本人の外部にあるような気がします。
そもそも、法律に違反しなければ何をしてもよいという態度があそび心からの遊離のような気がします。
ブランド詐称の問題は、一般的な問題では無いでしょうか、だれもが直面し、だれもがNOいえるかどうか難しい問題だと思います。
大手の企業が倒産し、リストラの嵐の中、企業の指示に従わざるを得なかった人々に個人の資質を問えるのだろうかと考えてしまうのです。
このことは、反面として、ブランドに盲目的な消費者の存在が後押ししている事にも注意したいと思っています。
仕事にあそびの要素がなくなったと考えた一例ですが上手く伝えられたか自信はありません。

お礼日時:2002/06/11 19:59

ひきつづきです。


私見ですが、「非核三原則」ここでも「核」が取りざたされていますね。「核」ときくだけで即、戦争に結びつけるのもどうかと思います。そこらをざっと見渡してみてください。いろんなものがあふれていますよね、そのいろんなものどうやってつくられているのでしょう?なにかを作り出すときエネルギ-が必要になります。エネルギ-となるものひとつに原子力エネルギ-があるのも事実です。「核」は、ダメ!「核」は武器を生み出し戦争へと人をかりたてる。とばかりに「核」にたいしてある意味強い偏見があることも事実でしょう。原油を他国から輸入し、その原油をもと生活を営んでいますね。資源、限りあるもの使えば使うほど減っていく、リサイクルといって再生するにも何らかのエネルギ-は必要になります。「核」に目をひきつらせていても現実、すでに原子力エネルギ-をつかわねばやっていけないほどに資源が減ってきている。

体調を崩されることありますね。重い病気にいまも苦しんでいる方たちもおられることでしょう。薬、機材、このどれひとつとっても生み出すのにエネルギ-がひつようになります。何かを生み出すのにいまの現状ではエネルギ-が、底をつくのはそう遠くないのかもしれません。「核」は、ダメ!だけを誇張することは、同時にエネルギ-としての「核」もそのうち使えなくなることでしょう。限りある資源の現象が続く中、まして、高齢社会に突入しどんどん体調を崩される方がおおくなったとき、薬も機械も開発もできにくくなり研究も困難になってくるとはおもわれませんか?いざ、そのときになってうろたえても急に新薬を作ることできません。研究の積み重ねがないとものを作り出すこととても困難です。

ちょうど、いま捕鯨問題が紙面に載っていましたね。日本側は、いい面も悪い面も同等に調査を続けてこられたそして、デ-タ-を誰の目にも明らかな状態で審議をゆだねた。とてもりっぱな姿勢だったとわたしなどは、強くこころ打たれるものありました。しかし、評決は惨憺たるもの。あれをごらんになって、負けた、負け犬とおもわれますか?わたしは、決しておもいません。正々堂々と勝負したとかんじました。今回は、報われなくても明日への希望の一石を投じたとおもいます。結果がすべてじゃない。新たな変化があの一石でうまれたはずです。その答えが、すぐに形となって現れるかは、まだ、わかりませんが、いま目には見えないくてももう動き始めているようにかんじます。距離が少し、ちょっとづつちかづいている。こころ打たれたものが一人でもいる限り。

また、核が即、悪であるという考えにわたしはおもえません。だからといって、核で兵器を作ることや戦争をのぞんでいるのではないのです。もうすでに、わたしたちが生活を営んでいる中で何かを犠牲にしていまここにある。生きるということは、犠牲の上に生かされていますよね、偽善者のようにただ核を非難することはできない。いま、わたしが生きていること自体が、いくつもの亡骸のおかげによってだとおもうんです。自身の行為に目をつぶらず、この現実を自覚したうえで、核についても過去の戦争についてもありのままに見ていこうと、そのうえで戦争のもたらす怖さ、悲惨さ、人間のもつ残虐性から目をそむけずに、メリットとデメリットから、なにをしいかに生きていくかの自分なりの方向を探していかなくちゃなんないんだろうね。選択をする場面において、バランスくずしてぐぅ-って一方に傾いちゃうとそれこそ危ない!危ない!もん~♪

わたしがイメ-ジする怨霊って、地縛霊なんです。憎しみと悲しみと苦しみが怨念になって成仏できない霊をイメ-ジしました。苦手というのは、嫌いというのではありません。こころが、リンクしちゃうんです。傍に一緒に寄り添うことはできても、その憎しみも悲しみも苦しみも痛みをかわってあげることはできないじゃないですか。そんなとき、自分の無力さをおもいしらされるんです。それがまた、悔しくって自分自身の無力さに憤りをかんじるんです。そうなると、自制が効かなくなるんです。暴走してしまいます。怨霊は、私自身の内にあるこころのひとつなんでするきっと。いくつものおもいが胸の中にあるのに暴走しちゃうとこころが何かひとつに囚われてしまいます。これって、バランスよくないでしょ-。こころはいつもぷにゅぷにゅのやわやわでいたいんです。はみだしスレスレがいいかんじなんです。ド-ンと、安全地帯にいるよりも。安全地帯のありがたさもわかんなくなっちゃうでしょ。ハラハラ、ドキドキこの感覚なくしたくないんです。


かんじるわたしでいたいんです。$(^-^)$vうふっ。。。Chu-☆
    • good
    • 0
この回答へのお礼

核の問題にしても、捕鯨の問題にしても、共通の事実認識が得られないか、又は始めから違う目的の為に事実を認めたくない集団との対立のような気がします。ここで問題なのは、鯨が減っているのか増えているのか。原子力は100%安全ではない事実と、化石エネルギーがいつ枯渇するか。よく分らないが、現実問題を良く分らない中で決断する必要があることだと思います。このことが「あそび」とどう関係するかは私の予測を超えていて今後の事とさせていただきます。
捕鯨の問題で残念なことがあります。
日本は、イヌイットの生活の為、今まで無投票で認められていた捕鯨の権利を、採決を要求することによりイヌイットの捕鯨権を否決に導いたそうです。日本の捕鯨権を獲得する為の功利的な最善の政策かもしれませんが、あそび心がありませんね、イヌイットが悪法も法であると死を選ぶ哲学者にならないことを望みます。

お礼日時:2002/06/11 19:17

>国会中継詰まらなかったようですね、大雑把に捉えれば、政治は「政(まつりごと)」=「祭り」ですから、遊びの仲間なんですよね、それが詰まらなくなった原因は何なのでしょうかねぇ 懐古的に昔はあそびがあってよかったと思うのではなく、あそびとあそびの欠如を現在的に考えれば、少なくとも過去の怨霊に恐れることは無いのではないでしょうか。

全てはあそびであると考えた人もいますよ(←過去の怨霊?)

国会中継が詰まらないんじゃなくて、国会の討議のあり方がつまんないんです。
私見ですが、TVみててなんかかんじませんか?こんなに便利な世の中になってきているのに何かTVで映し出される映像は、とてもオ-ソドックス。何が?って...そうですね、わかりづらぁ-い!いろんなことが、すべて了承ごとになっていていまさら云うまでもないみたいなかんじで、ことが運んでいるようなんです。わかるヤツにだけわかればいいってかんじですかね。当然、見ている視聴者側にもことの流れを関心もつこと大事だとは思うんですが...視聴者の情報源のおおくは、ベクトルのかかった新聞・ラジオ・雑誌・ネットからになります。情報の錯綜する渦の中にいるともいえますね。まずもってして、おおくの視聴者の方はTVで映し出される議員さんたちとお話する機会も早々ありませんし、その人柄なり人となりもよく知りません。与えられた、情報から想像するほかありません。偏った力が働いて、偏ったというのは、ある事柄の一面だけをクロ-ズアップして論調する。見てる側は、何をたよりにそのもののよし悪しを判断していいのかと、戸惑われることもおおいとおもうんです。見る目を養えといわれても、事柄のすべてがオ-プンになっていない中では、これもちと優しくないなぁ-と思うんです。「なに甘いことをいっているんだ!」と、鼻で笑われるかもしれませんがみててつまんないとかんじるんです。

パネルディスカッションがあってもいいのでは?とか、各党がそれぞれに集計した結果をメリット、デメリットをもっと明らかにする。こと、デメリットだけをこちょうしてはいないですか?ひとつの事柄には、必ず表と裏の面を併せ持っています。自己の主張を頑なに通そうとするとデメリットの部分を隠してよい面だけをおおげさなほど声高に謳いあげます。これは、与党も野党も同じです。同じ事柄を論じ合っていても自己の主張がとおらなくなると、意見が折り合わなくなった時点で相手の主張のデメリットな部分だけを突っつきあう。意見が折り合わなくなったということは、見直し考え話し合うポイントがまだまだあるということではないですか?しかし、いまの国会中継を見ている限り話し合うポイントが見えてきたにもかかわらず、そこには触れずに互いの主張だけを言い合っているふうに見えて仕方ありません。そんなとき、パネルなり絵とか図を用いることで見えない言葉で絡み合ったものを客観的に確認しあうことで、幾分、冷静をとりもどしてやっていけるんじゃないかなとおもうんです。

視聴者としてもパネルなり図とか絵といったわかりやすい資料を見ながら、要点を絞りながら答弁をされるとよりよく政治への関心がむくのではないかとおもいます。ほら、病院での診察、人体解剖図なり模型をつかって自分の診断結果を説明してもらうとただ、口でとおりいっぺん説明されるより自分の病気への関心もったり安心したりすることあるでしょ?

ちと、長くなりそうなのでエラ-かかっちゃうから、いったんアップして、引き続き回答を書かせてくださいね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

littlekissさんの気持ちも良く分ります、それでも以前と比べれば、テレビ中継のせいか、パネルを持ち出して質問する議員も増えたのではないのでしょうか。国会はスタジオと違いますから視聴者向けに演出ができないのでしょうね。
話を本筋に戻せば、政治は確かに「祭り」ですが国会つまり立法府は儀式の部類のあそびだと思います。
そもそも、法律の権威を守る為に難しい儀式のルールに則り法を法として成立させるわけですから、観てて退屈でしょうね。

お礼日時:2002/06/11 19:13

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す