これまでで一番「情けなかったとき」はいつですか?

努力は"必ず”報われるという考えは、いたずらに人を追い詰めるのでは無いでしょうか?

報われない、不幸だ→頑張っていない、自己責任、自業自得、お前が悪い。
(実際に頑張っていない人もそりゃいるでしょう。)

それともあまり大げさな意味では言ってないのでしょうか。
宗教的にも、悪いことがおきたらその人の責任というものがありますが、支持は得られない気がしますが。

実際のところどうなんでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

大変辛辣な言い方をしてしまって、失礼だとは思いますが、



>努力は必ず報われるという考えは、人を追い詰めるのでは

などと考えている方は病人なんだと思います。健康な方なら、努力をしたからといって報いられるとは限らないのがこの社会だが、それと同時に、努力をしなくては報いられないというのも、また現実の社会であることを知っているのです。そこで、皆、この至ってまともな「努力をせよ」と言う命題を聞いて、それでも追いつめられないで、努力しながら生きているのです。報われれば善し、報われなくても人間の深みが分かったと言う意味で善しと、いろいろ悟りながら幸せに暮らしているのです。アリの社会でも努力をすることを厭う怠け者が何パーセントかいると言う研究結果が出ているそうです。

質問者さんの言うようなことを気にしているような方が例えば成人して学校の先生になると、運動会のとき足の遅い児童たちを、足の速い子よりも30m先に出発させて、一番になれる喜びを与えるべきだなどと、新聞で書いてあったようなとんでもないことを言い出すようになってしまうのです。だったら、勉強のできない子供にもそんなずるいトリックで高成績をあげるのが筋ですよね。

努力をすることは大切なことです。そんな当たり前なことを要求されて、それで潰れてしまうと言うことは、その子供はある意味で病人なのです。それを他の健康な子供達と一緒にしたら、他の子供達が可哀想ですし迷惑です。そのような病人を作り出してしまったのは大人の責任だと思います。そのような子供を健康な子供達とは一緒に考えず、病人として扱って、その病気から治るようにしてあげるのが大人達に責任だと思います。 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。考えすぎ、そんな非難はしてないよって事ですね。

お礼日時:2009/01/14 15:21

努力は報われているんじゃないかな?


それが望む結果になるかどうかは別ですけど。
目標と結果にギャップが生じるのは世の摂理だと思いますよ。
努力すれば、それに見合った内的な変化はあると思います。
それが掲げた目標の10分の1の結果だとしても。
それが努力に見合った報いなのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほどただのギャップですか。
テストで不合格だから駄目だと思うか、何問かは覚えたから結果が出たと思うか。
解雇になってしまったと思うか、それまで少しは稼げたと思うか。
教訓を得てももう遅いと思うか、じゃあ次だと思うか。
嫌われたら駄目だと思うか、それまでに思い出は出来たと思うか。
後悔もどれくらいか少なくなりますね。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/14 16:11

 私達はいろんなことについて、努力しますね。

直ぐに結果や報いに出合えることもありますし。なかなかそういうふうにいかないこともありますね。
 ご質問者さんは、どういうことでの努力を頭において皆さんのご回答を頂いているのでしょうね。
 いろんな状況にいる人の中には、どうしたってやらなければならないことがあるでしょうね。そういう努力。それもうまくいく場合もあるし、そうはいかないこともありますね。そして結果というか、報いがどうなのか、わからないこともありますね。いいことって結局なかなか判りにくい場合も多いですから、気がつかないこともあるのでしょうね。
 でもこれはどうしてもやらなければいけないという、人生の努力は報われるかどうかに関らず、やるのでしょうね。
 そしてそれはどうでしょうか。
 結果がどうであれ、遣らなければいけないのですね。
 万人の人生の万人の努力。
 それは勝つための努力をすることが、過程だし、目的でありましょうし、それは勝つようになっていることを実感できないでしょうか?
 そういう意味の努力を仰せであれば、是非そういう実感が出来ますことをお祈り申し上げます。

 そのほかの努力は、その結果については、どうでもいいことではないでしょうか?
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この回答へのお礼

努力については限定していません。
テストで90点とるでも、友達を作るでも、マラソンで完走するでも、努力ですし。
時間の節約のために眠い目をこすりながら徹夜で映画を3本連続で見るというのも、これも努力と言えますし。
どうあっても何かは努力するのでしょうね。人に無理だと言われても。勝つようになっているんでしょうか。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/14 16:02

努力家であればあるだけその努力の虚しさを知る可能性も増すのですが、努力しなければ虚しいことも知りえない道理で、虚しさ、儚さを受け入れることこそ人生の醍醐味と、更なる奥義?を垣間見るチャンスが湧き上がる。

そういうつもりがなくても素敵な人って失敗や挫折を次のチャンスに変えたり、結果より過程での喜びを得ているはず。

自分が成功した影で努力が報われなかった人を尻目に大喜びする趣味もどうかと思いますし。

そんな勇気(?)をモノにするとなれば、万金を積んでも得がたいとも思います。努力は苦しいものの中にはなく、希望したり楽しいからこそ求めるのでしょう。

苦しい努力が出来るのは無報酬を旨とするボランティア精神の持ち主でないとそうそう出来そうにないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/14 15:46

>努力は"必ず”報われるという考えは、いたずらに人を追い詰めるのでは無いでしょうか?



「努力は"必ず”報われる」に限らず、こういう格言的な言葉はしばしば両義的な意味を持っているとは思いませんか。
それは、「努力」・「報われる」といった言葉の中身や価値にせよ、それを解する側・用いる側の置かれている状況を反映して、微妙に変化せざるをえないからだと思われます。

たとえば、現実的には達成困難な目標を掲げて頑張ってきた人が絶望的な状況に追い込まれている場合には、私なら「たとえ目標が達成されなくても、こうして努力してきたこと、その過程で経験してきたことは否定したくてもしようがないはず」ということを、単なる気休めとしてでなく、自明の事実として強調せずにはいられません。

しかし、言われた本人の脳裏に、「努力」に対する評価は目標が達成できたか・できなかったかだけで決まるという価値基準しかなかったとすれば、たとえどんなに「努力したこと自体が、あなたへの立派な報酬ではないか」と説明したところで、言われた側には空しい美辞麗句としか聞こえないでしょうね。

ということで、言われる人の人間性や性格、あるいはその人の置かれている状況によって、「努力は"必ず”報われる」が有効性を発揮する場合と、「いたずらに人を追い詰める」ことになる場合とに分かれるはずとしか言いようがないと思います。
たとえば、悠長でのんびりした人には「善は急げ!」のアドバイスが、短気でそそっかしい人には「急がば回れ!」のアドバイスが、それぞれより有効であるとしか言えないように。

ちなみに、私自身のこれまでの人生経験(「実際のところ」)に照らす限り、たとえ短期的目標が達成できなかったにせよ、長期的視点に立ってみた場合、「努力」したことが将来において全く報いられないということは断じてありえません。
ただし、同じことを現在志望校目指してラストスパートに掛かっている受験生に理解しろというのは無理な注文だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。使い方次第ですね。

お礼日時:2009/01/14 15:44

「努力」という言葉のいい加減さからして、むしろ、


報われない(目的が達成されない)ことが自分の想定よりも
多いのは明らかです。

でなければ、「努力」を多用する政治家の皆さんの政策がことごとく成功を成し遂げ、結果として、自ら命を絶つ人間が多い国にはなっていないからですね。

決してマイナス思考しているのではなく、「努力」という言葉の持つ
精神論への依存過多が、これまで数え切れない失敗を繰り返してきたようにも思えるんですね。
ご質問の趣旨とは少しずれますが、直感的に戦略なき努力は失敗することが多いというのが実際のところではないでしょうかね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。精神論ですね。

お礼日時:2009/01/14 15:43

出来る努力とできない努力、実現した結果と実現しない結果の4つを考えた場合、人を追い詰めるのは実現しない結果を求めてできない努力をしようとした場合です。

できる努力をしている限り人は追い詰められることはないと思います。できない努力をしようとしていて、何かえ結果が出た場合などはいかにも努力は必ず報われるというような状況にあっていると思います。つまり努力は必ず・・・という言い方は人を追い詰めるかどうかにはあまり関係がないように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。本人が何を求めて何をするかの問題ですか。

お礼日時:2009/01/14 15:41


まず、”必ず”と言ってしまうと国語的には無論正確ではありません。
ただ、(国語的に)不正確にも拘わらずこの言葉が人口に膾炙しているのは、人は、いわゆる怠け心を起こしやすいものであったり、自信を失って前進するのをためらったりしがちな生き物であるからなのだと思います。
そういった状況下においてこの言葉が有効であるのは確かです。
また、スポーツのイメージトレーニングではありませんが、「必ず」と信じることで「報われる」結果につながりやすいという事実はあるように思います。
つまり、この言葉は、「【一般的に言って】努力は報われる結果につながりやすい」ということを誇張表現していることになります。

他でもたとえば結婚式の祝辞で「たぶん幸せになれるでしょう」とは言わずに「必ずや幸せになれるでしょう」などと言うであろうように、誇張表現に関しては暗黙的了解があると考えてよいと思われます。


では、「人を追い詰める」のはどういった状況でしょうか。
上で、「【一般的に言って】努力は報われる結果につながりやすい」と述べました。
つまり、
「(努力しているのに)報われない、不幸だ」と思っている人に対して「努力は必ず報われる」と言う人は、「あなたは一般的な努力というものが不足している」と言っていることになります。
だから、「→頑張っていない、自己責任、自業自得、お前が悪い。」という思考にもつながってくる。

この場合、ギリギリの努力を精一杯して、それでも結果が出せずに悩んでいる人の中には追い詰められる人が出てきて不思議ではないでしょう。
(>実際に頑張っていない人もそりゃいるでしょう。)
と述べておられますから、その場合にはこの言葉が有効であることはお認めになっているのだろうと思いますが、結局、頑張っているのかいないのか端からはわかりづらいということも関係してくるのだと思います。
誰にも限界というものがありますが、ある人の「ギリギリ」というのはなかなか他者には理解できないものだと思います。
マラソンの野口が練習のし過ぎで足を痛めオリンピック欠場したことなども思い浮かびます。
かといって過酷な練習が不要かと言えばそういうことにはならず、そのへんの難しさはあるのでしょう。

蛇足かもしれませんが、何を以て「努力」と考えるか、さらに、「報われる(報われた)」と判断するか、ということもあるように思います。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。使い方次第ですね。

お礼日時:2009/01/14 15:40

このことを考える上で、まず大前提が間違っている事を指摘しておかねばなりません。



>努力は必ず報われる

ここが間違っているのです。努力した人が必ず成功するとは限りません。しかし、成功した人は必ず努力しているのです。これは必要十分条件ではなく十分条件です。ですから報われていない人が必ずしも努力していないと言い切ることはできないのです。その他の要因で成功していないだけかもしれません。

またキリスト教では「人は撒いている物を刈り取る。」という言葉があります。これは、その人の行った事は結局その人に返ってくるということを表しています。しかし、悪いことがおきたら、その人のせいだという意味ではありません。これは解釈の間違いです。例えば偶然に起きた地震や津波は個人の行動が起因して起きていることでしょうか?そうではありませんね。

ただし最後に申し上げて起きますが、努力という物はたとえ報われなくとも、財産になるものだと思います。また人が目標に向かって努力する姿勢は崇高で美しいものです。この観点から、私は人は努力すべきであると申し上げて起きます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。派遣問題などでも努力の結果かどうかは議論になっていますね。

お礼日時:2009/01/14 15:38

<<努力は"必ず”報われるという考えは、いたずらに人を追い詰めるのでは無いでしょうか?>>



かも知れませんね。

僕が思うのは

「理にかなった方法を持って精進努力すればその結果は出る。理にかなわぬ努力に結果は出ない。(当たり前ですねw期待する結果自体も理にかなったものでなければ話になりませんねw一秒後に億万長者とかw不老不死とかねw)」

「現象は多因多果でしょうし、自分の作り出す原因意外にも他の原因も多くありますから、希望どうりになるかはわからない。」

「<現象に対してどう感じるかと言う結果>も理にかなった方法を持って精進努力したぶんついてくると思います。」


と言うことです。

かといって、起こった現象によって、その原因を<全て>その人の責任にして、人格的に劣るという差別的な見方をすることは、人格の優れた知者の推奨するところにないとおもいます。

かなりの差別的な考え方とおもいます。

努力も「大体、失敗するもんだ、成功なんて稀なこと」と覚悟を決めていれば、注意深く実践するし、失敗しても落ちこまない。成功すれば素直に喜ぶが舞い上がらないので次の失敗にもつながりにくい。となると思いますが。

「成功するに決まってる。成功しなければいけないんだ。」と力んで甘く見ていると、注意力を無くし、自分の理想像に対し強張り、失敗したらかなり落ち込む。成功すれば舞い上がるから次ぎの失敗につながりやすい。となると思います。

そのようなことを思いました。

何か参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。分析も大事ですね。それこそが難しいことでもあるのですが。
結果の為の努力ではあるのですが、そうであるなら、文句だけじゃなく、他に言うことは無いのか。。と感じます。

お礼日時:2009/01/14 15:30

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