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タイトルの通り、言葉と感情の関係について伺いたいです。
鷲田清一さんの『<想像>のレッスン』という本に、

  ある哲学者が言っていた。もし私たちが言葉というものを持たなかったら、ひとはいまじぶんを襲  っている感情がどういうものか、おそらくは理解できなかったであろう、と。これが意味するところ   は、言葉が、何かすでにあるものを叙述するというより、何かある、形の定かではないものに、は  じめてかたどりを与えるということだ。言葉にして初めてわかるということがあるということだ。

ということが書いてあり、言葉と感情との関係が非常に気になっています。
そこで、

・言葉がなければ人は自身の感情を理解できないのでしょうか?
・「ある哲学者」とはだれなのでしょうか、また言葉と感情との関係を探る学問分野や哲学者(科学者)はいるのでしょうか?
・皆様は言葉と感情の関係についてどう思いますか?

以上三点お願いします!

A 回答 (15件中1~10件)

言葉がなくても、感情は理解できます。


でも、言葉があったほうが理解しやすいでしょう。

笑顔を見れば、喜んでるなってわかります。
笑顔は世界共通ですし。
赤ちゃんは言葉なしで感情を表現しているでしょう。

「うれしい!」とか、言葉があったほうがすぐに理解できます。
ただし、感情とは逆のことを言うこともありますから。
万能ではないですけどね。

あくまで、本音で話すという前提の基で成り立ちます。
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・たとえば、悲しいという感情がありますね。

「悲しい」という言葉がなかったら、今私たちが共通的に理解していると思いこんでいる「悲しい」という感情は、「悲しい」という言葉では表せないわけです。そう言う意味では言葉がなければ、我々が現在いろんな風に表現している数々の感情は存在しなかったし故に理解できなかったでしょう。

・吉本隆明さんが「言語にとって美とは何か」という本で言葉と感情の関係について一部論じています。

・難しいですね。歌なんか聞くときにそういうことを僕はぼんやり考えるかな。

参考URL:http://www.1101.com/HB/news2001-11-26.html
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>言葉がなければ人は自身の感情を理解できないのでしょうか?



言葉の主要な成果は単にかたちのあるものにタグをつけたと言うこと以上に、形のない抽象的なもの、思いを様々に分類し、分別し、人間同士でそれらを共有出来たことにあります。まさに哲学は言葉がなくては生まれなかった学問なのです。感情は目でみても形がなく、言葉がなければ単にうれしい、悲しい、怒るなどの単純な分類しか出来なかったと思います。人間は言葉があるために複雑な感情を自身で理解し、他人に分かるように表現できるようになったわけです。自分でどんなことも表現することで自分自身で分析も出来ますから、その繰り返しによって人間は心を深化させてきたし、複雑にもさせてきたのでしょう。つまり人間は言葉によって自分の感情を分析し、理解させてきたということがいえると思います。

以下のご質問は上記の繰り返しになります。
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実感としては、自らの感情を把握するのに言葉は重要だと思います。

言葉といってもいろんな伝わり方があります。頭の中で音声として鳴っているような言葉ではないと思うし、他人が発する言葉でもないし、活字になっている言葉でもない。身体感覚や無意識と密接につながった言葉。自分が言葉だと意識していないような言葉だと思います。それは確かに言葉なんだけれども、明確に意識に浮かび上がっている言葉ではない。うまく書き表せませんが。

その本を読んでみたいです。

回答になっていますでしょうか。失礼します。
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 こんにちは。



 まづ ことばが人の心から・そして喉から表出されて出て来るところを推測した話をかかげます。不首尾なところもありますが あらましを捉えてみたい。


      *

  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

  HA.....SI。

 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。

     *

 さて問題は 言葉を持たなかった段階で たとえばこの《うるはしき》という感情を それとして認識し理解したか? です。

 先に結論を考えてみるなら おそらくまづ《感情は とうぜんのごとく すでに起きていた。つまり 感性は はたらいていた》でしょうし そして《ただし この感情の中身をそれとして規定していなかったなら その一つひとつの特定の感情としては 理解がむつかしかった》ということではないかと考えられます。

 《うるはしき》思いと 《うれしい――うら(=うる)-いし( cf. おーいしーい(美味))⇒うれしい――》気持ちとを もし言葉によって仕分けして規定していなかったなら なかなか区別しづらかったのではないでしょうか?
 でも 感性はすでに満開で はたらいていたでしょう。
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教外別伝や不立文字といわれるとね。


困る。

どうも文化なのかなんなのか、言語を軽視する傾向があると思います。

詩や文芸は感情を表現することのできない
不完全な芸術でしょうか?

俳句は無価値?

難しい。

まあ、言語は感情を完全に表現することはできない
と言われるとね、確かにそう思うけど。

言葉に困る。
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> 言葉がなければ人は自身の感情を理解できないのでしょうか?



ノーです。
人間は言葉以外の情報だけでも感情を理解出来ます。
例えば視覚ならば、ムンクの「叫び」を見れば渦巻く不安と絶叫を、
どの国の人もただちに理解するでしょう。
聴覚ならば、モーツアルトの交響曲第40番を聴けば、疾走する悲しみを感じます。
このような非常に強力な反証があるので、鷲田さんの主張は誤謬です。

>「ある哲学者」とはだれなのでしょうか
たぶんヘーゲルかヴィトゲンシュタイン。
また、聖書の「ヨハネによる福音書」第1章に「初めに言葉ありき」という句があり、
それを敷衍したものかもしれません。
また鷲田さんが架空の哲学者に託して、自分の考えを語ったのかもしれません。

> 皆様は言葉と感情の関係についてどう思いますか?
言葉は感情を表現できるが、取りこぼしの多いザルのようなものです。
感情が100あるとしたら、言葉で表現できるのは3くらいじゃないでしょうか。
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感情を理解するには言葉が必要。


感情を自覚し、喜び、また悲しむには言葉は不要。
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「言葉がなければ人は自身の感情を理解できない」ことはないと思います。



自分が感じた(不快な)感情から自分の注意を逸らすために、その感情に対処するための言葉を意識の中に生み出して、その言葉(による思考展開)に注意していっている人は多いと思います。
つまり、どんな感情(を感じている)かを理解しているということでしょう。
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私は赤ん坊の頃や、まだ言葉という表現が十分に


出来ない子供の頃の記憶があり、大人になってから
そこには十分な感情表現・反応があったという事の
記憶・経験があります(言われると思い当たる人は
多いのでは?と思うのですが)

例えば?私が赤ん坊だった頃、叔母は15歳で、何度か
夜一緒に私と寝たがっていたのですが、なぜか私は泣いてしまい
(今思えば特に泣く理由もないのですが)、残念そうに
している叔母を見て、申し訳ないな、と感じていたり

また、保育園に上がる前の頃に、大人同士が何を言ってるのか
分からないだろうと思ってか、遠慮なくあれこれ(他人の事なども)
話しているのを聞き、大人ってアホだな、と呆れていたり


思考・感情などの本となっているのは、意味・印象
・概念だろうと思うのですが、それのみに拠る会話
という物、意思のやり取りという物の経験もあるので、、
ただ?確かに言葉というのは、ある面では意味・印象・概念
よりも高度な表現をもたらしてはいますが、

別の面では、意味・印象・概念では、どれ程膨大な情報量
でも、表現・感受が、一瞬・数瞬で済んでしまうという、
つまり言葉というのは、表現のしようがなかったり、意思を
十分に表現するのには、用を成さない面も大きく(不十分な道具)、
長所・短所同等程度だろうと

つまり、言葉というのは、意思(意味・印象・概念)の
上乗せの部分であり、それはある程度高度な表現も
出来る一方で、酷く限界のある物といえるだろうと、、
如何でしょ?・・・

> ある哲学者が言っていた。もし私たちが言葉というものを
持たなかったら・・・

私もこれ何度か読んだり聞いたりした事ありますけど、名前
などは覚えてません、、何度か目耳にしたので、有名な方の
言葉なのかもしれませんね


でも?余談になりますが、殆どの人達はむしろ?言葉によって、
コピー・刷り込み・取り入れ・感化などによって、本来豊か・的確な
意思・表現を失い、制限と限界を構築しているように感じるのですが?・・・

確信・断定への安易な陥りなどを始めとして、常に思い知らされますね
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