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タイトルの通り、言葉と感情の関係について伺いたいです。
鷲田清一さんの『<想像>のレッスン』という本に、

  ある哲学者が言っていた。もし私たちが言葉というものを持たなかったら、ひとはいまじぶんを襲  っている感情がどういうものか、おそらくは理解できなかったであろう、と。これが意味するところ   は、言葉が、何かすでにあるものを叙述するというより、何かある、形の定かではないものに、は  じめてかたどりを与えるということだ。言葉にして初めてわかるということがあるということだ。

ということが書いてあり、言葉と感情との関係が非常に気になっています。
そこで、

・言葉がなければ人は自身の感情を理解できないのでしょうか?
・「ある哲学者」とはだれなのでしょうか、また言葉と感情との関係を探る学問分野や哲学者(科学者)はいるのでしょうか?
・皆様は言葉と感情の関係についてどう思いますか?

以上三点お願いします!

A 回答 (15件中1~10件)

    僕の無価値な私見です。



    じゃ動物は言葉が無いから、感情が無い、という学生で突っ込める、隙だらけのご高見と拝します。
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全ての質問に回答できる知識がありませんので、ごめんなさい




嬉しい、悔しい、寂しい、楽しい

これらの言葉がなかったら、感情を認識することができません


また、活字や2次元から伝わりにくいものも、感情です

つまり、共感は伝わりづらいのですが、そのためにも言葉は必要です
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感情に名前をつけることで、たしかに分かりやすくはなりますね。



少し違うかもしれませんが、
人間関係に名前をつけるのも似ている気が私にはします。

恋人 友達 親子 職場の人 とか

でも、既成の言葉に微妙にあてはまらない関係もあるじゃないですか。
元カノだけど友達、とか、異性の親友、とか。

それらがよく問題になるのは、ズバリ適した名前がないからなのかな? と時々思うんです。
そういう微妙な関係の中にわき起こる感情も微妙で・・・実はただの友情と言うのとは少し違っていたりして。

名前をつけなくても、感じることはできるけど、なんなのか分かりにくいと思います。
だから、言ってる本人も、「ただの友達」という風に無理矢理あたまの中で処理しようとしていたり。
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この言葉とは口から発する言葉ではなく、一つ一つにつけたラベルの事ですね。

言葉ではなく言語、です。

感情とはぼんやりしたものなので、それをきちんと並べて体系的に並び替えて整理すると自分の感情さえはっきり見えてきます。そこで学んだことが次回に使われたり過去の分析にも使えます。

例。Aさんに会うのが何と無く嫌だ。会いたくないから避ける。

この何となくには理由と過去の経験が絡むので、過去の引き出しを探します。グループで遊んだ時に予約を入れ忘れて皆に迷惑をかけたことがある。Aさんに不都合が出てものすごく怒られた。その怒り方が小学校の先生に叱られた時に似ていて、もっと嫌な思い出がある。

ここまで達するには言語をつけての分類と分析がなければボヤ~としているだけで終わります。
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言語の発生は、まず分別し得る概念があって、そこに記号と


しての言葉が結びつけられるのである。
もちろん現代人は、言語に依存して知識として環境認識し、
あるいは交流して、他人の評価によって自己認識するように
なっているので、「言語がなければ自身の感情を理解できない」
傾向があるのも事実かも知れません。
でもヘレンケラーの伝記は言葉を学ぶ前に十分に意識の発達が
行われていた事を物語っています。

自己の客観視は、言葉=外部からのフィードバックのみに依存
するのではなく、自己の脳内に再構成された環境性の深まり
(=自我の目覚め)が先行すると言えるでしょう。
むしろ、そうした認識の深まりなしに他律的に自己認識しても、
それは真の客観視ではなく、言葉だけによる上べの理解だと
言えるでしょう。
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私は赤ん坊の頃や、まだ言葉という表現が十分に


出来ない子供の頃の記憶があり、大人になってから
そこには十分な感情表現・反応があったという事の
記憶・経験があります(言われると思い当たる人は
多いのでは?と思うのですが)

例えば?私が赤ん坊だった頃、叔母は15歳で、何度か
夜一緒に私と寝たがっていたのですが、なぜか私は泣いてしまい
(今思えば特に泣く理由もないのですが)、残念そうに
している叔母を見て、申し訳ないな、と感じていたり

また、保育園に上がる前の頃に、大人同士が何を言ってるのか
分からないだろうと思ってか、遠慮なくあれこれ(他人の事なども)
話しているのを聞き、大人ってアホだな、と呆れていたり


思考・感情などの本となっているのは、意味・印象
・概念だろうと思うのですが、それのみに拠る会話
という物、意思のやり取りという物の経験もあるので、、
ただ?確かに言葉というのは、ある面では意味・印象・概念
よりも高度な表現をもたらしてはいますが、

別の面では、意味・印象・概念では、どれ程膨大な情報量
でも、表現・感受が、一瞬・数瞬で済んでしまうという、
つまり言葉というのは、表現のしようがなかったり、意思を
十分に表現するのには、用を成さない面も大きく(不十分な道具)、
長所・短所同等程度だろうと

つまり、言葉というのは、意思(意味・印象・概念)の
上乗せの部分であり、それはある程度高度な表現も
出来る一方で、酷く限界のある物といえるだろうと、、
如何でしょ?・・・

> ある哲学者が言っていた。もし私たちが言葉というものを
持たなかったら・・・

私もこれ何度か読んだり聞いたりした事ありますけど、名前
などは覚えてません、、何度か目耳にしたので、有名な方の
言葉なのかもしれませんね


でも?余談になりますが、殆どの人達はむしろ?言葉によって、
コピー・刷り込み・取り入れ・感化などによって、本来豊か・的確な
意思・表現を失い、制限と限界を構築しているように感じるのですが?・・・

確信・断定への安易な陥りなどを始めとして、常に思い知らされますね
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「言葉がなければ人は自身の感情を理解できない」ことはないと思います。



自分が感じた(不快な)感情から自分の注意を逸らすために、その感情に対処するための言葉を意識の中に生み出して、その言葉(による思考展開)に注意していっている人は多いと思います。
つまり、どんな感情(を感じている)かを理解しているということでしょう。
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感情を理解するには言葉が必要。


感情を自覚し、喜び、また悲しむには言葉は不要。
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> 言葉がなければ人は自身の感情を理解できないのでしょうか?



ノーです。
人間は言葉以外の情報だけでも感情を理解出来ます。
例えば視覚ならば、ムンクの「叫び」を見れば渦巻く不安と絶叫を、
どの国の人もただちに理解するでしょう。
聴覚ならば、モーツアルトの交響曲第40番を聴けば、疾走する悲しみを感じます。
このような非常に強力な反証があるので、鷲田さんの主張は誤謬です。

>「ある哲学者」とはだれなのでしょうか
たぶんヘーゲルかヴィトゲンシュタイン。
また、聖書の「ヨハネによる福音書」第1章に「初めに言葉ありき」という句があり、
それを敷衍したものかもしれません。
また鷲田さんが架空の哲学者に託して、自分の考えを語ったのかもしれません。

> 皆様は言葉と感情の関係についてどう思いますか?
言葉は感情を表現できるが、取りこぼしの多いザルのようなものです。
感情が100あるとしたら、言葉で表現できるのは3くらいじゃないでしょうか。
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教外別伝や不立文字といわれるとね。


困る。

どうも文化なのかなんなのか、言語を軽視する傾向があると思います。

詩や文芸は感情を表現することのできない
不完全な芸術でしょうか?

俳句は無価値?

難しい。

まあ、言語は感情を完全に表現することはできない
と言われるとね、確かにそう思うけど。

言葉に困る。
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