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私は学生のとき世界史を勉強したことがなく、最近世界史を勉強しようと思って本を読んでいたのですが、オスマン帝国時代にあった東方問題。これをネットで調べても何が何やら・・・。まったくわかりません。どなたかかなり簡単に説明できるかたいらっしゃいましたらお願いします。ちなみにすごく小さな子供に説明する感じで。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

4番です。



2番の方への補足についてです。

>オスマン帝国下に置かれていた国々を自分のものにしようと独立させようとして、そそのかして、オスマン帝国が衰退した。これを東方問題ということですか?

3番で述べたとうり、私の東方問題の認識とは異なります。
トルコにおけるエジプトのモハメッド・アリ問題であると認識しております。

>ヨーロッパは、オスマン帝国下に置かれていた国々を独立させて自分のものにすることで何か利点はあるのでしょうか?

色々な意味があります。
オスマン・トルコ支配下の地域に特に利害関係を持っていたのは、オーストリアとロシア、イギリスでした。
イギリスは、主要植民地インドへの航路の安全を確保するために、オーストリアは、かつて首都ウィーンを2度に渡り攻撃されているため安全地帯の確保、ロシアは、黒海沿岸のトルコ領確保のために、同じ正教会を信仰し同じ人種に属するスラブ人を支援し、南下政策を成功させるために必要でした。

>ユーゴスラビアであったクロアチア・マケドニア・セルビア・ボスニアなどの国々はロシアやイギリスにそそのかされた理由で独立しようとしたのでしょうか

ユーゴの崩壊は、イギリスがそそのかしたのではなく、東ドイツを併合し東方への勢力の拡大を求めたドイツがスロベニアとクロアチアをそそのかした事でおこります。
スロベニアは、神聖ローマ帝国の一部でしたから、ドイツにとっては本来の支配者はドイツであるという認識がありました。
クロアチアは、同じくドイツ系のオーストリアの支配下にありましたから、クロアチアもドイツの支配圏との認識がありました。
ボスニアにおいても、一時期オーストリアの支配下にありましたから、それも独立させてドイツの支配圏に組み込む意図がありました。
ユーゴ分裂・内戦の責任は、当時のコール首相とゲンシャー外相によって引き起こされたものです。

>共存は無理だと思うのですが、なぜチトーは統合したのでしょうか?

チトーではなくて、その前のセルブ・クロアート王国について述べますと、そもそもユーゴスラビアを構成していた主要民族(スロベニア人、クロアチア人、ムスリム人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)は、元々同一民族であり、セルビア人を除き長い間外国勢力の支配下にありました。

それらの民族が、民族統合の名の下に第一次大戦の結果できたのがセルブ・クロアート王国です。
これは、西欧の影響下にあった西ドイツとソ連の影響下にあった東ドイツが統合を望んだのと全く同じ構図でした。
しかし、東西ドイツの分離期間が50年チョットだったのに対し、千年に渡る南スラブ人の生活習慣や考え方の違いは大きく、簡単に一緒にはなれなかったのです。
ちなみにスロベニアを支配したのがドイツ(オーストリア)で、クロアチアを支配したのがハンガリー、マケドニアは、ブルガリアとセルビアが取ったり取られたりの関係にありました。
ボスニアは、ハンガリーやセルビアから追放された人が多く住み、それらの人は、トルコが進出するとイスラムに改宗し、現在のムスリム人となります。
モンテネグロは、ベネチャアの影響下、トルコの属国としてトルコの占領を免れたセルビア人たちの地域です。
ハンガリーに千年間支配されたクロアチアに対し、セルビア内のボイボディアナ自治州は、ハンガリーに200年くらい支配された地域ですが、セルビアからの分離の動きはありません。
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これまでの回答者の回答を読みまして、「アレ」とおもってしまいました。



ここでいう「東方問題」とは、オスマン・トルコにおける東方問題を言っているのではないかと思えたのに対し、回答者は、ヨーロッパから見た東方(オスマン・トルコ対策)について述べているからです。

オスマン・トルコにおける東方問題は、1831年トルコのエジプト総督であったモハメッド・アリが、トルコ領であるシリアを占領し、エジプトの独立を求めた事件を指します。
これは、1833年クタヒア条約で、自立が認められています。
これを第一次東方問題と言います。

また、1839年自立したモハメッド・アリが、領土の世襲を要求しトルコと戦いになり、トルコ軍を破る事件があります。
これが第2次東方問題と言います。
最終的には、1841年イギリスなどの介入により、シリアやキプロスをモハメッド・アリが放棄するかわりにエジプトの世襲が認められる事になります。

モハメッド・アリのトルコからの自立は、イギリスがスエズ地帯の権益確保のために協力し、トルコから自立させた面があります。
当時のイギリスが、運河を造るかスエズ地峡に鉄道を通し、インドとの航路の短縮の意図があったため、スエズ地帯の確保が必要でした。

質問者の2番の方への補足を読みますと、私の考え方が間違っており、ヨーロッパから見た東方の問題(トルコに対する政策)を質問していたのかもしれませんが、一般にオスマン・トルコにおける東方問題としては、モハメッド・ムアリの問題を言うという事は理解してください。
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1:東方問題におけるイギリス


各国それぞれの動きがあるので、わかりやすい例としてイギリス
イギリスの大戦略は、ロンドンとインドを安全につなぐこと。スエズ運河できるまでは、南アフリカ経由でインドの道を確保。
1805年 エジプトにムハンマド・アリー王朝を成立させる
1815年 マルタを正式に領土化
1869年 スエズ運河開通
1878年 キプロスの統治権を確保
1882年 エジプト保護国化
と、バルカン半島自体には深入りせず、インドへの道を確保するという趣旨で一貫しています。第二次世界大戦後、ギリシャだけはソ連の勢力圏から分離させたのはこの大戦略に基づきます。

2:民族自決という考え
19世紀になって生まれた考えであり、何でもかんでも民族自決優先であれば、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドという連合王国などという、イギリスの体制などあり得ない話。ユーゴスラビアのスロベニアなどは、歴史上今回の独立が初めての独立国。現在のスペインなども、本来は多民族国家(バスク人がスペイン人と違うというのではなく、バルセロナなどはスペイン統一国家になる前はアラゴン地中海帝国として、シチリアやナポリを支配下に置いていました。

3:ユーゴスラビア
セルビア王家の存在があります。セルビア王家の元に南部のスラブ人をまとめようというもの。発想としては、帝国です。異民族であるトルコの下でいるよりも、似た民族でまとまりましょうという、民族自決の純粋な展開という意味では中途半端な展開。(現代のイギリス・スペインとどこが違うかというと、原理は一緒、統一政権でいた期間の長さによる安定度が違うという程度)

4:チトーのユーゴスラビア
人口でNo2のクロアチア人とNo3のスロベニア人を両親に持ち、自力でユーゴスラビアをドイツから解放したという軍事的カリスマをもった特異な人物がチトーでした。そんな彼だから旧ユーゴスラビア王国をまるごと継承することができました。

5:民族の曖昧さ
チトーの両親がクロアチア人とスロベニア人とありますが、ユーゴスラビアにおける各民族は「おいらたち、となりの村と違うよな」程度の違い。日本で言えば、関西弁と名古屋弁、東京弁くらいの差しかありません。東京人が「関西弁を話す奴らは、日本人じゃないよ」と思い、関西人が「わてらこそ日本人や、ほんまの大和人」と意識すれば、日本人と大和人という二つの民族の成立になります。ユーゴスラビアでは文字の違いや宗教の違い歴史的にずっと独立していた(これはモンテネグロ)など、歴史的に区別しやすかったので、妙に細かく民族が分けられたというのが実情です。
この曖昧さの意味で、歴史的に結果的に分裂しましたが、チトーの後継者がうまく統治していたらユーゴスラビアはまだ存在していたかもしれません。仮にチトーに優秀な息子がいて、チトーが王様になり、軍事的カリスマを血統的カリスマに返還できていたならばユーゴスラビア王国として残っていたかも。
冗談ぽいですが、スコットランドからやってきた王様がイングランドの王様になることによって、現在のイギリス連合王国が成立していることや、スペインが分裂もせずにブルボン王朝の元(フランス王家だったブルボン王朝の流れです)統一を保っていることを考えると、仮説としてはあり得たかもしれません。
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世界の分割原理が変わった。

変わったことが最初に出てきたのが、オスマン帝国で、ヨーロッパから見て東方だったので東方問題といわれた。

偉い王様の一族の元に、いろんな言葉を使う人々が一つにまとまるというのが、帝国原理。19世紀なってヨーロッパでは、同じ言葉を使う人々、つまり民族ごとに国を持とう!という考えがメジャーになってきました。バラバラの国になっている一つの民族が一つの国を作ったのが、19世紀後半のドイツやイタリア。日本も、いろいろな殿様の国に別れていたのが、一つの国になったのが明治維新で、ドイツやイタリアが一つの国になったのと同じ頃です。
逆に、一つの国に多くの民族がいるのはおかしんじゃないの?という考えもあり、具体的に「ここや!」とされたのがオスマン帝国。オーストリアやロシアも似たようなものでしたが、とりあぜうオーストリア皇帝とロシア皇帝は元気だった。オスマン帝国には沢山の民族がおり、主要民族であるトルコ人以外が多かった。独立させて、自分の勢力下に置こうというのが、オーストリア、ロシア、イギリス、フランスなどの列強の考え方。あれやこれやと、いろんな民族に上記の国々がそそのかしたので、バルカン半島は「火薬庫」と言われるようになった。
それが 爆発したのが第一次世界大戦。
おかげで、ロシア、オーストリア、オスマンという多民族の帝国が全部倒れました。

この回答への補足

ありがとうございます。まとめますと、オスマン帝国の下で様々な民族が共存した、しかし周りのヨーロッパ(フランス・イギリスなど)の国々がオスマン帝国下に置かれていた国々を自分のものにしようと独立させようとして、そそのかして、オスマン帝国が衰退した。これを東方問題ということですか?ヨーロッパは、オスマン帝国下に置かれていた国々を独立させて自分のものにすることで何か利点はあるのでしょうか?穀物や貿易のルートのため???
また、ユーゴスラビアであったクロアチア・マケドニア・セルビア・ボスニアなどの国々はロシアやイギリスにそそのかされた理由で独立しようとしたのでしょうか?そもそもバルカン半島には様々な人種がすんでいるのに、共存は無理だと思うのですが、なぜチトーは統合したのでしょうか?長いですが、ご返答の方お願いいたします。

補足日時:2007/06/27 11:11
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9% …
要は 大きな象さんが年も取り病気にもなって、倒れ死にそうになり、周りの獣たちが肉を食いちぎっていったということね。
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