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不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?

A 回答 (20件中11~20件)

悟りの状態に達した主観が悟りについて語る。

ことは有り得ません。

主観が悟りについて主観自身の記憶、思想、信条に基づいて語ることはできますが、そもそも、主観は悟りに達することはありません。

主観が消失した無我の境地に悟りは現存するのであって、悟りが正確に、記録や記憶で主観に伝達されることさえ一切ありません。

無我の境地に達した仏陀の周囲の人間がそれを感じ取り悟りを語ることもあるでしょうし、仏陀自身が、悟りに達するまでの課程をぎりぎり直前まで語ることも出来るでしょう。しかし、悟りに達した地点から主観を通じて、言語、動作、手記などによって悟りを表現することはありえないのです。

 仏陀は、自分が悟りに達したことを知っていたかどうかということになります。仏陀の記憶を第三者がとやかく言えるものではありませんが、悟り(完全な無、全知全能にして全物質全エネルギーの共存状態)は、主観(この時空間を認識する意識)と次元の異なる実存で、時間を現在しか認識できない主観には、その主観のまま悟りに達することはないのです。そして、他に正確に伝達することも出来ません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。悟りそのものを伝え得ないことは理解できます。また、悟りそのものについては、悟った人にしか経験できないことであるので、他人が知ろうと思ってもどうしようもないと思っています。悟りに至る過程、修行方法などに限り説明できることも理解できます。

しかし、悟りそのものについては知りえなくとも、悟りの必要条件は明らかになっていると思います。例えば、「執着を離れている」などです。しかし、そこで問題になるのは、記憶や脳の機能がおかしくなってしまうと、凡人と変わらない行動をとりうるのではないかという疑いです。もしも、そうだとすれば、悟りというのは、少なくとも、絶対的なものではなく、相対的、有限なもので、悟りもまた、依存の関係上にあるということになります。私の関心はそこにあります。

>仏陀は、自分が悟りに達したことを知っていたかどうか
この部分についてが、この質問内での混乱のもとになっているのだと期思います。私は、悟ったという経験を仏陀が「知っている」ことを前提にして問いを立てています。しかし、それでは誤解を生むので、もう少し別の言い方をすると、悟りそのものは理性で噛み砕けなくとも、悟りに達したという抽象的な「事実」は認知していると思います。さもなくば、如是我聞から始まる経典は虚言であることになりますし、仏陀が修行方法などについて説明する意味はありません。盲人が盲人を先導することになります。

お礼日時:2007/07/17 17:40

>仏陀は正覚を自認していたと思っていました。



 正覚が、悟り、神、仏、無我の境地等で表現される、完全とか、絶対などの概念の一つであるとすれば、正覚を自認する主観は存在しません。存在したらもはや完全や絶対とは言えません。まして、何をもって無我というのか・・・

 主観があるところに正覚はないのです。記憶、執着心などとは、もともと無縁の実存です。

この回答への補足

「回答へのお礼」が言いたいことと違うコメントになってしまいました。修正できないようですので、無視してください。

記憶と正覚が無縁だという意見だと理解しました。しかし、仏陀が説法していたということが事実であるとすると、彼は、悟ったことを自覚していたと思えます。そうでなければ、彼が説法していたということが説明できないように思われます。つまり、悟ったという記憶があるので、説法していたのではないでしょうか。その記憶が失われたとしたら、どうなるのか、というのが私の問いかけです。

補足日時:2007/07/17 13:30
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。主観と理性は別物で、主観がないことは理性(言葉や計算などの能力)がないこととは異なるということでしょうか。それならば、納得できますが。さもないと、仏陀が説法したということが虚偽ということになるのではないかと思います。

お礼日時:2007/07/17 13:23

悟りは心と呼ばれる分野に関係するもので、心と呼ばれる機能は、脳の機能とは独立して機能しているということでしょうか。



その通りですね。心臓や内臓器官は勝手に動いてるでしょう、これ自由に止められたらいつでも死ねるね。脳も勝手に動いてますね、心が管理すべき肉体機能ですがほとんどの人は肉体機能に管理されてるかもしれませんね。おなかがすくと食べたくなるのは心の作用ではないですね。肉体が生存のためにやってることですね。我慢するというのが心の作用による管理ですが、行き過ぎると餓死しますね。うまく乗りこなす必要はあるということですね。死んでも残るのが心ということですね。だから心が掴んだものがなくなることはないということです、吉田松陰先生は「学ばずして死ぬことほど恥ずかしいことはない」とおしゃってますが、その通りということですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。死後も継続されると信じられる心と仮称されるものが「悟る」ということですね。

お礼日時:2007/07/17 13:08

失うような悟りをそもそも持っていませんが、


悟りを得たということは、中枢神経とか介在神経の結びつきに変化をきたしたのでしょうね、その結びつきがどこにあるのか特定できませんから、頭を打った拍子に、どこが壊れたかによるでしょうね。
脳の損傷を研究すると、性格が変わることもあれば、変わらないこともあるし、言葉がわからなくなるが、算数がわかったり、また逆のこともあるようです。
不退転の悟りが一定の記憶として脳の中に有ると勘違いされているのか、私の勘違いか、それとも・・・
人格など、一寸した事で変わってしまう物です、怖いですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。脳の損傷と悟りは無縁なのか、それとも、脳が損傷すると、悟ったとされる人でも凡夫の思考、行動に戻ってしまうことがあるのか(例えば、執着から自由になった人が、親切な異性に関心をもつようなるとか、そういったこと)、また、そうだとすれば、それは何を示唆するのか、そんなことを考えて、この質問を立てました。

お礼日時:2007/07/15 12:49

>悟ったと自覚した人


 主観は、そのような自覚をすることはありません。

悟った人 悟りを得た仏教徒 悟りに達した仏陀
と表現しますが、悟りを自覚する主体は何処にもありません。

あえて、表現するなら、

悟った悟り、悟りを得た悟り、悟りに達した悟り

となります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。仏陀は正覚を自認していたと思っていました。

お礼日時:2007/07/15 12:43

ガンダムを操縦するアムロが戦闘でガンダムスーツが壊れたからといってアムロまで傷つくことはない。


と同じことですね。心臓が止まろうが脳が故障しようがそれは単に肉体、つまりガンダムスーツが壊れただけのこと、心つまりアムロには何にも関係のないことですね。悟りとは心がつかんだものなんですね。肉体をいくら鍛えても壊しても、心に影響しないというのが正解ですね。このことに気がつくことが悟りですね。だから悟りが失われてしまう事はないのです。坊主いわく「心頭滅却すれば火もまたすずし」肉体がなくなれば火も涼しいだろう。ですからね。脳はロボットを動かすCPUでしかないということですね。脳が自分と思ってる人多いですね。唯物ではなく唯脳思想ですかね。悟りからは遠いですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。悟りは心と呼ばれる分野に関係するもので、心と呼ばれる機能は、脳の機能とは独立して機能しているということでしょうか。

お礼日時:2007/07/15 12:36

執着を絶てた人を現実知らないので、確証は無いのですが、



高名なお坊さん 知っています。
ただ、人格者とは決していえません。
奥さんの肉体的なものを人前で批判するので。

何故 人前でわざわざ批判する必要があるのか。
酒のせいだと思います。
普段は理性を使い、人から「さすが一般の人とは違う」と思われたいために、理性で押さえ、演技をしているのだと思えます。


では、理性を司る脳の部分が壊れたとしたら。

仏教徒じゃなく別な宗教の人で脳にダメージを受けた人を知っています。
危険に対しての認識が希薄なので、洗剤など見える場所に置いておくと飲む危険がある。
気分の変化にムラがあり 数分単位で変化するので、機嫌がいいからと油断すると、いきなり噛み付かれる。

「主はいます!」と言ったり「主の祈り」と呼ばれる言葉を眉を吊り上げ叫んだりする。
意味のある言葉として使っているのではなく、勝手に口から出てきてしまうのだと思います。

では、その言葉を発する時、その人は穏やかかといえば、いえ、、、、。
怒りの感情を表すときにその音を発するようなので、脳がダメージを受ける前は、その言葉を使うときは人を罰する目的で使っていたため、脳にダメージを受けたあとも、怒りの時にその音が出てきてしまうのだと思います。

その宗教では信仰を自分で確認するとき使うと思うのですが、、、
その人はそうではなく、人を批判する言葉として捕らえていたことがわかります。


脳にダメージを受けたために、人格が変わってしまい、別人になってしまったのか。
理性を司る部分がダメージを受けたため、理性が消えてしまい、他の動物と同じようになってしまったのか。

人間も動物です。
違いは他の動物より ちょっとばかり理性に頼って言動を変化させるようです。

動物のご飯にタクアンが乗っていたので取ってあげようとすると噛み付かれる。
自分のご飯を取られると思って怒るわけです。

脳にダメージを受けた人も、全部自分のもの と思っており、誰の所有かという概念が無い。
執着が無いどころか、全部自分のものだから触るな と怒る。


お菓子を抱えている子供に「この子にも少しわけてあげて」と訓練すれば、他人に自分のお菓子を上げることで、シェアすることで人とよい関係を作ることを学ばせることができ、それはその子の将来 生き易くなる手段を学び、体験し、獲得することになる。


この自分にとって有利となる、分かち合うということが無くなると、人は孤立することになる。


お坊さんが山に入って他人と距離を取る。
執着を絶つための修行をする。
誰のために?
自分のために。 自分だけのために。

見方を変えれば、究極の利己欲望がひき起ったためそうなったとも言える。
つまり執着を絶つとしながら究極の欲望を満たすため。

そのために他を捨ててもかまわない としたとき、人は他者を滅ぼす。
つまり捨てることで、他者がいなくなったってことです。

仏陀だったか忘れましたが、涅槃に登るとき「自分だけではだめだ、他人も救ってあげなければ」と思い 下界に引き返したそうなんですね。

究極の閉じこもった世界のその先に、また他者を求める欲望が芽生えたわけです。

新世紀エヴァンゲリオンもそう。

他者が全くいなくなったとき、主人公は他者の存在を望んだ。

だけどこれは理性を最後まで捨てなかった あるいは 失わなかった人に起こると思います。

脳にダメージを受け理性の部分が破壊されてしまった人は、ある意味そのまま涅槃の世界に入っていくと思います。
その人が神となる。

下界の私達はその人のコロコロ変わる気分次第でオロオロ奔走する。
日本の八百万の神のようです。
どうしてそういうことが起こるのか(突然噛み付かれたり、頭をなでられたり)理由がわからない。
理由がわからないので、人智では計り知れない業だと感じるわけです。


生きたまま仏になる。 とは こういうことなのかなぁ・・・と思ったりします。

家族はその人が怒り出さないように お供えをする。
食べ物を与えると暴走していたのにコロっと笑顔になるということを体験上学んだからそうしているらしい。
それでその人の周りには食べ物がふんだんに置かれている。


で、私達はどんなに学問をやったとしても、脳にダメージを受けてしまったら、<理性で理不尽なことすらも受容する> ということができなくなる。

そして誰も自分がいつ神になるか知らない。
誰にでも可能性はあるわけです。
不退転の悟りを得たとされる人にも起こるかもしれない。
神になるときが。


記憶じゃないと思います。
何故なら神になった人は家族を認識できる。
家族と今まで不仲であったとすれば、家族に常に暴力を振うでしょうけど、確かに殴る蹴るもするが、突然抱きついて愛情を示す行動をする。
だから 判断が記憶に左右されているからじゃないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。挙げていただいた事例を興味深く思いました。理性とよばれるべきものや一定の記憶が失われても、習慣やその人の行動の原理のようなものが残るのですね。

お礼日時:2007/07/15 06:21

>悟りを得た仏教徒 悟りに達した仏陀 と言う表現をしますが


悟りは、個人の主観が何か究極的状態を達成しているのではなく、
主観が無いところにこそ厳然と存在する「絶対」です。

主観の直ぐ裏側が悟りであって、影のように寄り添っています。
主観に属する記憶、クオリア、自意識とはむしろ逆方向に、
主観より遙かに完全なものとして実存します。

そもそも悟りは、その仏教徒や仏陀に属して(含まれない、所有していない、占有していない)いません。

この回答への補足

「仏教徒がいるとして」というのは、異教に「悟り」と翻訳されるような言葉があるかもしれないと思って、念のために用いました。

補足日時:2007/07/15 06:03
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。悟ったと自覚した人が記憶を失うと、執着が復活するのではないか、そう思い、質問しました。

お礼日時:2007/07/15 06:12

悟りというのはどこかへたどり着いたということではなくて、常に何かに向かっている状態だと思います。


「向かっている状態」という言い方は、執着心やこだわりを感じさせる言葉で誤解されそうですが、悟ったと言っても、生きている限り常に「悟りつつある状態に近づいている」ことなのだろうと思います。

ですから、「不退転の悟り」きった状態というのは、ないと思います。
誰か針の穴に糸を通して徳を積まないかという盲人に、釈迦が申し出たのはそれをあらわしていると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私は、仏陀とその直弟子の何人もが生きている間に悟りきった人たちだと思っていました。生きている間は悟りに近づくことはあっても、悟れないということでしょうか。もしもそうであるならば、記憶喪失によって「悟りつつある状態」が失われるかどうかということが問題になります。

お礼日時:2007/07/15 05:58

少しずれますが記憶があるというのは記憶の主体が存在するということと特定の記憶が保有されているということでもあります。

悟りを対象と考えれば執着も対象です。頭を打って失われるのは対象としての悟りだとしても同時に執着も失われる可能性もあると思います。頭を売って記憶の主体が失われれば当然のことながら執着も悟りも消滅してしまうと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。悟った人は、脳の働きによって悟ったはずですから、その記憶が失われてしまうと、少なくとも、悟ったという実感はなくなるのではないかと思っていました。

お礼日時:2007/07/15 05:52

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