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殺していい動物と殺してはいけない動物の
区別(境目)は、どこにあるのでしょうか?
どなたか明確に答えられる方いっらしゃいましたら
お願いします。。。

A 回答 (8件)

一つは、法ですね。


例としては、絶滅の危機に瀕した動物は、無用に殺せば大抵法の裁きを受けます。

それから、心情的なものもあるのかな。
ただこれは、個々人により違うでしょうね。
「鯨は頭のいい動物だから殺して食べるなんてとんでもない」とか、
私から見て気違いじみた主張をする人もいれば、
食べるためになら殺してもよいなんていう、ただの正当化としかとれない一般常識もあります。

そもそも、殺していいとか悪いとかっていうのは所詮人間の頭の中で作り出された言葉であり、ルール。
どういった観点から見るかによって答えはまるで違うものになるのではないでしょうか…。

ちなみに、私にとって殺してはいけない動物はいません。人間も含めて。
それでも、殺したいという欲求もあまり起きることがないし、
殺した時のリスクを思えば軽々しく殺そうなんて思いませんけどね。
それが私のルール。因果応報、です。
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私の意見としては殺しては行けない動物はいないとは思いますが。

絶滅の危機に瀕している場合は別ですが。
その絶滅の危機に瀕している動物から難病の薬が作られるかもしれませんし。
それよりも、生物のピラミッドが崩れることにより人間に何らかの影響を与えるかもしれませんから。
なお、権利などという物差しを人間が勝手にいうのは変だと思います。
人間は動物と共存してるのではなく、家畜やペットとのみ共存してるのだと思います。
日本人が鯨を食べたり、韓国人が犬を食べるのも文化です。他の国の文化を押しつけて殺してはいけないというのはおかしいのではないでしょうか。

ってことで、法に触れない限り、殺してもいいと思いますよ。
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参考URLに似た質問を挙げておきます。



そちらでも答えたのですが、再掲させていただくと、
僕の考える境界は以下の通りです。

「その境界線はその場の強者が決めている
だから、その場の強者が変れば境界線は変り、
どこにあるかは定かではない。

民主国家の一般的な境界はその国民が決め、
独裁国家であればその独裁者が決める。

そして、国際社会でいけば(現在は)アメリカが決める。
そのアメリカの基準はアメリカの国民が決めてる。

その強者が居なくなると残った雰囲気の中の強者が決める。
たとえば、ワールドカップが終われば世界の目が向かなくなるため、

犬鍋が復活してくるといった現象がおきる。」

以上。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=310378
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「殺してはいけない動物」は無いと思います。


貴方は蚊を殺しませんか?蜘蛛はどうですか?ゴキブリはどうですか?
草は抜きませんか?
草花や昆虫は殺しても良くて、動物はいけないということは無いと思いますよ。

問題は理由ですね。
理由も無く殺すことは、動物に限らず、何でも許されるものではないと考えます。
殺す必然性があれば、やむを得ないと思います。
絶滅の危機にあるゴリラでも、自分が殺されそうになっても、だまって殺されろという意見は無いと思います。

ですから、「区別」ではなく、「必然性」「正当性」だと思います。
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明確に答えるのは無理でしょうね


現実には宗教や法律が規範となっているわけですが、いずれにせよ普遍的とはいえません
例えば、ユダヤ教やキリスト教では偶蹄類は人間に食わせるために神様が作った種ということになっているわけですが、牛を食べるなんてとんでもない、という宗教だってあるわけですし、法律にしたところで各国バラバラです
人権憲章やワシントン条約のような国際条約はあ、る程度普遍性を持つかもしれませんが、これにしたところで、参加しない国はあるわけですし、時代と状況が変わればどう転ぶか分かりません
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「殺していい動物」はいないと思います。


「殺さざるを得ない動物」ではないのでしょうか‥?
ただしこの「ざるを得ない」のは、決して真実ではなく「人間がそう判断した」という意味に(「殺す」主体が人間の場合)すぎませんが。

人間に関するかぎり、この「境目」は「主観による判断」でしょうね。たとえばクジラのことを考えていただければ、日本と捕鯨反対の国とのとてつもない「ずれ」が存在することがわかると思います。
必要だから、ほしいから、金になるから、邪魔だから、きらいだから、殺すわけです。とはいえ、その理由で行為は正当化されませんが。
その具体的な「理由」を述べよ、というご質問でしたら、「理由」そのものはケースごとに異なるので、普遍的な「理由」ははじきだせないと思います。

あとまあ、好きで動物殺しに歩いているような困った人も世の中にはいますが。それはあくまでイレギュラーってことで。
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私は、全ての生物は生きる権利を持っていると考えます。


しかし、ほとんどの、その自らの権利の行使は、他者の権利の侵害になる事実があります。
以上のことを考えれば、
自らが生存するために必要な行為において、他者への生きる権利の侵害は許容される、と考えます。

kuwanzakiさんの質問に答える形では、
全ての動物は、殺してはいけない動物であり、自らの生存に必要な場合においてのみ、殺すことは許容される。
ということです。

また、私が思うに「死」と言うものは、可能性の消滅です。厳密な言い方ではないですが、「現在」というものが、宇宙全体の原子の相互作用または同時演算の結果であるなら、どんなにわずかな可能性の変化でも、未来に変化をもたらします。
その可能性の消失は、特に身近なものであればあるほど、何か、私に喪失感をもたらします(折込済みという話しもありますが…)。

ですから「殺していい動物」は存在しないと考えますし、また、そういった言葉にも抵抗があります。
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 自分の身が危うい場合は殺すのもやむを得ないと思います。

それ以外は絶対に殺すべきではありません。
 あるいはその動物を生きる為に食用にする場合です。

 当たり前なのですが、この理由を仏教ではこれによって、その動物のカルマを引き受けることになるから、結局その動物のためになるそうです。つまり、こちらのためにはならないということです。
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