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幸運にもインテリアの内田先生とお会いする機会がありました。
その折に、書院と数寄屋の話しになりました。
建築インテリア様式であらわすと、
書院は『型にはまった』、『形式ばった』ということ。
数寄屋は『自由』ということ。
と伺いました。
また、数寄屋になってから建築物をつくるに当たって、分業化が進み『表具屋』、『○○屋』・・・など職人が細分化され工業化の前進が出来たとも伺ったような気がします。
この辺のところが、はっきり整理出来ないのでご存知の方はできる限りでよいので教えてください。(表具屋の他に何がありますか…?『書院』、『数寄屋』って何ですか…?)

A 回答 (2件)

『書院造』,『数寄屋造』は共に日本建築の形式のことです。


日本建築がその様式を整えるのは,大陸から伝来する寺社・仏閣の建築から始まります。そして,平安時代には貴族の住宅として『寝殿造』が形式化され,次いで,武家社会に至って『書院造』,近世において『数寄屋造』がそれぞれ確立されます。
特徴としては,襖等の間仕切りを持たず板張りの寝殿造りに対し,書院造は間仕切りが増え,畳が敷き詰められ,室町時代後期には,床・棚・付書院・帳台構といった座敷飾りが順次整えられていきます。また,大河ドラマ等でよく見るような上段の間もでき,形式としての完成をしました。
数寄屋造は,茶室の要素を取り入れた簡素なものでありながら,分業化による欄間や襖等の絢爛さ等が目立ちますね。
・分業化
 表具屋のほか,畳屋,金具屋などがあげられるのではないでしょうか。ことに金具は「数寄屋金具」と呼ばれる黒く仕上げられたものが登場してきます。

参考URL:http://wsweb0.rekihaku.ac.jp./zyoosetu/ken/
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>書院は『型にはまった』、『形式ばった』ということ。

  数寄屋は『自由』ということ。


[書院]と[数奇屋]の平面図を見せられ、その違いを指摘出来る人がいたとしたら、かなり[建築]と[建築史]に詳しい方でしょう。
[書院造り]も[数寄屋造り]も、いわゆる[現代建築]から見れば両方とも『型にはまった』もので『形式ばった』とも云えます。

同じように見える[平面図]が、それでもなお微妙な違いを見せるのは、[書院造り]は『格式ばった』平面をしているからであり、
一方[数寄屋造り]も自由な平面ではなく、書院造りのような約束事を『くだけた』平面にしたものと云う表現が適切でしょう。


二条城は[書院造り]の代表的なものですが、一の間、二の間、帳台構え(武者隠しの間)、遠棚、床の間、附書院を備えています。
このような[表御殿]の部屋の造りを桃山時代の[武家風書院造り]と云っています。

その奥にあるのが各大名と会う[黒書院]で、[白書院]は将軍の居間と寝室になります。
内部の装飾は[表御殿]と趣を異にし、絵画も狩野興以の作で、居間にふさわしい穏やかな山水画になっています。


[数寄屋造り]は[書院造り]と同じ、安土桃山時代から江戸時代にかけて完成された[茶室建築]の意匠を取り入れた建築様式です。
代表的なものは[桂離宮]ですが二条城のような[書院造り]より柔らかいというだけで「書院風数奇屋」という方が当っています。
明治・大正以後、現代ではその様式は高級料亭や高級住宅に取り入れられていますが、木造の宿命で年々数を減らしています。

分り易い言葉で区別するならば、真・行・草という分類がありますが、真は書院造り、行は数寄屋造り、草は茶室に当るでしょう。



数寄屋造りは[茶人・千利休]によって完成されたとされる建築様式とも云われています・・・彼が秀吉の権力に抵抗したように、
武家の権力による画一化された合理的な建物に対抗し、町人達が「好き」「数寄」勝手に風流な感性の中で建築していったわけです。
また武家屋敷の「格式・威厳」に対し、数寄屋造りは日常生活をモチーフに砕けたものを欄間や障子に取り入れたりしています。


>分業化が進み『表具屋』、『○○屋』・・・など職人が細分化され工業化の前進が出来たとも伺ったような気がします。

この話は初期の銀閣寺「東求堂」の書院では判りにくいかと思いますが、ふすま、板戸の他、壁もプレハブで嵌め込むような物も
出来て、さらには禅寺の方丈などで板の間に部分的に敷いた[畳]が、次第に敷き詰められるようになった過程で、夫々の職人が
仕事を確立し、職人仕事が細分化されていったという日本の生産史的な側面に触れた話だと思います。。。


>表具屋の他に何がありますか…?

一番目につきやすく分り易い例は、襖障子の引き手金具、釘隠しの装飾、欄間格子・・・のようなものがあります。




*寝殿造りから書院造りへ:ご参考まで

1)寝殿造り全景(東三条殿)・・・http://contest.thinkquest.jp/tqj2001/40144/sumai …

平安時代の寝殿造りの中心にある[寝殿]は二条城の紫寝殿に面影が見られますが、実際に住いに使われた部屋は北側と東西にある
【対屋:たいのや】と呼ばれる場所で、ここは家族が住む所に当てられ、寝殿の造りよりも簡素に作られています。

この絵のように左右対称な寝殿は典型的なものですが、実際には【対屋】は時代が下がるとともに経済上からも完全な姿で
造られる事は少なくなり、下級貴族の例では[母屋]と[離れ]という感じの情けない形に崩れていき、住いの配置形式としては
のちの[雁行式]配置の兆候が見られ、次第に書院造りへと進化していったと考えられるのです。

京都御所平面図・・・http://www.kunaicho.go.jp/13/d13-04gr-02.html
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この回答へのお礼

丁寧なご回答有難うございました。
お礼遅くなりすみません。

お礼日時:2002/09/10 19:09

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