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 “継続は力なり”と、よくききます。「あることを始めたら、途中でやめずにずっと続けなさい、人間的にもきたえられます」と。これって危険思想では?

 中学の部活で、雰囲気がよさそうなのでバスケに入ったものの、二カ月たって自分にあわないような気がし、退部を申し出たら、「これまでの練習がむだになるじゃん。“継続は力なり”っていうじゃないの、最後までがんばろうよ」と先輩にいわれて、続けたものの、一年後に「やっぱりやめたい……体育館でチョコチョコ動くバスケより、青空のもとで打ったり、投げたり、走ったりするソフトボールのほうが私には向いてる……」ということで退部し、ソフト部にかわったものの、おくれて入ったために後輩に追いつかない、いうことでソフトもやめてしまった……

 そして、「私はなにをやっても長続きしない、ダメ人間……」という、落ちこんだきもちで、暗い中学生活を送る……
 もしバスケ部退部を最初に申し出たとき、「いろいろやってみて、自分にあったものを早く見つけるといいね」と先輩がいってくれて、きもちよく送りだしてくれたら、ソフトで活躍できて、明るい中学生活を送れたかもしれないのに……
 
 “継続は力なり”という、こんな呪文に、とらわれたらいけないでは?
 もちろん、継続したほうがいい場合もあるでしょうが、呪文にこだわるととても不幸になる、ということも多いのでは?

 飛躍しますが、いま問題になってる道路建設やダム建設では、ぼうだいな機械設備をかかえた何万人もの『その道の建設スペシャリスト』が、“継続は力なり”の信念で、道路やダムを造ることを一生の仕事としておられるんでしょうが、“継続は―”の信念にこだわりすぎると、国じゅうが道路だらけ、ダムだらけになって、自分も社会も不幸なことになるような気がしますが……?
 
 
 

A 回答 (13件中1~10件)

アメリカで、メンタルトレーニングを専業ではないですが、しています.



まず分かってもらいたいのは、日本語のこう言う慣用句は、私には、半分の意味しか教えていないように思われます.

継続は力なり. そうでしょうか? そうは思わないようですね. なぜ、そう思わないのか、考えた事ありますか? (ほとんど人は、こういう慣用句を本当に真剣になって考えたことがないと思います.)

メンタルトレーニングをする者にとっては、非常に役立つ言葉ばっかりです. ただ、聞く人が理解していないだけなんですね.

私は伝統武道を「使える」武道として教えています. 使えるようにするには、かなり厳しいトレーニングをしなくてはなりません.

でも、そのトレーニングについていける精神力が基本として(回り道と見られてしまうこともありますが)訓練するので、厳しいトレーニングにもついていき、また、トレーニングと結果が出てくるのですね.

前置きでした.

本題に戻ります. 「継続は力なり」は何をしようと、種を蒔いた事なのでいつかは根が出て、芽が生え、花が咲くという事と直系しているんですね. つまり、時間が経たなければ、芽が出ませんよということですね.

ここまでは、「継続は力なり」の意味として、ほとんど人は分かります. 問題はその後なんですね. 継続したっていつまでも力にならない事だってあるんだということなんです. 待ちゃ、いいってもんじゃないということです。

芽が出るにはそれだけの事をしなくてはならないという事です.

ただ単に続けるだけじゃダメだという事です. ただ無意味な練習をしているだけじゃダメだという事です. 自分に、何らかの形で、練習の結果を示すようにするのも、コーチ、トレーナー、先輩の仕事なんです。 それをせずにして、続けろ、というのは、ただ単に、このクラブには頭数が必要だから、退部スルナよといっていると事と同じなんですね.

人間、よい結果が少しでも自分に見せなくては、続けることが困難になるのです. その、少しでも良いから見たい結果を自分に示す事が出来る力が、基本になるのです だから、殆んどの基本という物は、簡単な事を基本といわざるをいえないということになるのです. その簡単なことが出来るようになったという実感が、すぐにでも見えるから、続けようという「前向きな」思いが出てくるわけです.

あなたは、その観念を習う事がなかったとしかいえないわけですね. だから、結果が無い、面白くない、つまらない、こんな無駄な事、他の事の方が面白いように見える、になってしまい、結局、何をやっても、やっている効果が出ない(見えない)から、長続きしない、となってしまい、最後には、「ダメな奴」、となって、自己暗示にかかってしまうんですね.

スポーツのやり方を教える、試合に勝つことを教える、確かにコーチ、トレーナー、先輩の大きな課題です.でも、訓練の結果を見えるように訓練する事も大切な課題なのです. それをやってこそ、「継続は力なり」と意味が出るのです.

少しの成長を見ることが出来、それを自覚させ、又それをさらに原動力として、訓練に励み、又その結果が見えるという、訓練を実行する事によって、潜在力を引き出す事が出来るわけです.

あなたにとって、その潜在力がなんでであるか、引き出してくれた人がいないという災難に遭ってしまったわけです.

では、これからどうするか. 上のとおり、自分を基本となる精神力の土台を自分の専属コーチとして、やっていかなくてはならないという事です.

簡単です. 小さな事から始めなくてはなりません. キーボードをより早く叩く事が出来るように、意識して早めにキーボードを叩き、一週間後にその結果を見る. そのためには、どうするかというと、実力を測りやすくするということです.

つまり、この場合、がむしゃらに毎日練習するんだといって、キーボードを意識的に早く打ってももダメなのです.なぜかというと、その練習の結果を見ることが出来ないからなんです.

だから、たとえば、一ページの文章を練習の初めにタイプできるタイムをチェックする。 そのタイムを記録する. 同じ文章を練習する. 飽きても、やる. 疲れたときでも、やる. 他にやりたいことがあっても、やる. そして、一週間後に、又タイムをチェック. 

結果が出ましたね. 向上していますね. その向上率を疑問に持っていってはいけません. なぜかというと、向上を上げる訓練をしたのではなく、基本の土台を作る訓練だったからです. つまり、メンタルトレーニングの基本を一週間続けてやる事によって、やるんだという根性を無意識に作り上げ、目的に向かって頑張る力を無意識に育て、自分を向上させるんだという精神力を無意識に自分の物にしたからなんです.

だから、人は、やれば出来る、蒔かぬ種は生えぬ、夢は必ずかなう、努力無しでは結果無し、そして、継続はちからなり、というわけです.

でも、どうやればいいのか、どう蒔けばいいのか、どうやって夢を追うのか、どう努力するのか、そして、どう継続したらいいのか、教え込まなくてはならないのです.

意味の無い基本に基づいていない練習をしても、雑草が生えてくるだけ. 

違う言い方をすれば、世界一硬い高価な美しい物質あるダイヤモンドを苦労に苦労を重ねて「訓練」させなければ、ただの土に埋もれた石ころなんです. だから、人は「磨く」という言葉使う.

だから、私はいつもここでは、「意味のある頑張り」をしなさいという.

私も頑張っています. mainichi-ganbaruからganbatteruyoに変えたのです. じぶんをみがいてください、そして、少しでもより光る自分に「気がついて」下さい.

長くなってすみませんでした.
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回答のNo.6で回答した者です。


 yumi18さんの「お礼」を読ませて頂きました。
 とても丁重で、思慮深い内容と思いました。
 初めは、「部活動の愚痴を言っているのかな?」と思いましたが、(失礼
しました)
 でも、皆さんの回答により、「いろいろ参考になっているんだな」と思って
回答者の一人として、とてもうれしく思います。
 部活動の話から、戦争や道路建設問題、ダム建設の話になり、少し話し
が大きくなりましたが結論とすれば、yumi18さんの考えで良いと思います。
  嫌いなとこを「だらだら」やるよりも、好きなことを長く続けたいですね、
yumi18さんが今パソコンに熱中している状況からすると。
 「継続は力なり」と「好きこそ物の上手なれ」は対になっている気がし
ます。
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この回答へのお礼

 かさねてのご回答、たいへんありがとうございました。
 昨年でしたか、イチロー選手がアメリカの小学校を訪れたときのあいさつで、「みんなも自分の好きなことを早く見つけるといいね」と話しているのを、テレビで見ましたが、好きなことは自分から進んで継続する → 継続したら自然に上手になる → 上手になったらますます好きになる……と、みんながそれぞれの道で“いい循環”をもつようになったらいいですね。

 いまの私はパソコンが“いい循環”になっていて、つぎつぎと新しいことを身につけたいという意欲に燃えてますが、でもパソコン操作の名人になっても、それじたいはどうということはないのかもしれません。だいじなのは、パソコンという現代のミラクル的ツールを使って、《なにを、どのようにおこなうか》ということでしょうか?
 パソコン操作にみがきをかけながら、これを活用して、【継続は力なり】の花を咲かせることのできる挑戦に、いつか踏みだしたいものです。
 
 

お礼日時:2002/09/19 19:26

きもちよく送りだしてくれたら、ソフトで活躍できて、明るい中学生活を送れたかもしれないのに…… <もっと暗い中学生活を送っていたかもしれないのに……。


すいません、文句とか説教じゃないんですけど、最初にソフトをやっていたら「私にはバスケが向いてる・・」って思ったんじゃないかなー?
体育館でチョコチョコって・・俺はどっちも好きだな。
部活はバスケだったし。

ちょっと質問の趣旨から外れるかも知れませんが・・世の中には三つの言葉しかないそうです。
それは創造と継続と破壊。
どんな言葉にも想像的意味と継続的意味と破壊的意味があるって事です。
この三つ自体に善悪は全くありません。
困難に相対した時に継続することでそれを乗り越えた人がいたとします。
そういう人ほど困難に遭遇すれば継続(努力・頑張り)をするけど、継続してもどうにもならないことってありますよね?
そんな時に前に進むには破壊して創造するしかないので。
勿論、前進しないで立ち止まったり、道を逸れたり、逃げ出すのも全然、悪くありません。
それぞれにも三つの意味はあるのですから。
失敗は成功の元というのも、成功そのものが失敗だったり失敗そのものが成功だったりもする訳ですし。

しかし、よっぽど道路建設やダム建設が嫌いなんですね。
というか、悪いことだと思ってますよね?
何故か>悪いことのように報道されているから。
国営放送局のプロジェクトXという番組をご存知ですか?
東京タワー建設に関わった人々や、新幹線創設に関わった人達等、様々なプロジェクトに関わった人々の苦労などをとりあげる番組です。
あれをみたらあなたはどんな感想を持つのでしょうね・・。
ダムにしろ道路にしろ、それぞれの必要不必要の判断が異なる人が議論を闘わしているのです。
その場合、どちらにも言い分はあるのです。
長野県知事だってダム自体を否定している訳ではありませんよ?
あの二つのダムは不必要だと言っていますが。
ちなみに、自然を自然のままに保護しましょう<このような活動にも莫大な税金が使われている例もありますよ。
金の出所や回収法は高速道路よ大差ありません。

自分は視野狭窄が一番、危険な物事の捉え方だと思います<ひとつの意味しか考えられない、見られないって危ないと思いません?
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この回答へのお礼

 多くのかたからご回答いただきまして、たいへんありがとうございました。本欄をお借りいたしまして、皆々様に心からお礼申しあげます。
 それぞれ含蓄あるご回答……よく読ませていただき、私自身への反省とともに、いろいろとかんがえさせられました。
 
 世のなかには、大きくわけて、『A:継続したほうがいいこと』『B:継続してはならないこと』『C:継続してもしなくても、どっちでもいいこと』の三つがあるようにおもいました。
 Aは、たとえば犯罪をおかさない、他人のかげぐち・わるくちをいわない、お年寄りから昔話を聞いてべんきょうする、といったことでしょう。
 
 Bは、たとえば核兵器や地雷などをつくるといったことでしょう。
 いまでも多くの国で、軍需産業は基幹産業のひとつとされてるようですが、兵器づくりを重要な産業として各国が“継続”すると、戦争のために兵器をつかうのではなく、逆に、兵器という商品を販売するために戦争を謀略的におこすといった、目的と手段の倒錯がおこなわれるような気がします。
 じっさい、10年まえの湾岸戦争は、《古い兵器のクリアランスセール》といわれたように、いまの世界って、10年に一度くらいは大きな戦争(兵器大量販売消費作戦)を、政府が先頭に立って企画しないと、経済がまわらないしくみになってるんじゃないでしょうか?
 
 こんかい質問させていただいた学校の部活などは、Cに入るとおもいます。
 アメリカなんかでは、生徒はいろんなスポーツをやってみて、自分に適性があるものを見つけるようにしてる、つまり、『継続してもしなくても、どっちでもいい』というかるい気分で、さいしょのうちは各種のスポーツにトライできるようですが、日本の学校の部活は、教育の一環という性格がつよいからでしょうか、あたかもひとつの部活に“入学”し、入学した以上は“卒業するまでがんばりなさい”といった強迫観念のようなものが支配的で、そこからさまざまな問題がおこってるようです。
 ほんらい適性がないにもかかわらず、がんばりすぎてからだをこわしたり、大ケガをしたり、部活のおろかな(狂の字がつくほど異常に熱心な)監督に暴力をふるわれたり……

 ようするに、日本では、ヒト本位というよりも、ブカツという名の制度本位・組織本位になっていて、生徒はいったんそういうところに入ったら、以後は思考停止・選択停止を強要されつづけるような気がします。
 学校の部活という小世界にかぎらず、日本の社会では、なにかにつけて制度や組織がのさばって、ヒトがその犠牲になるということが多いんじゃないでしょうか?

 いじょう、もろもろかんがえますと、日本の学校で現在おこなわれてる部活方式を【構造改革】の対象にして、いったん全廃し、新しい理念や方式でくみたてなおすべきじゃないかとおもいました。
 まあ、世のなかには、あまり思いつめる必要のない、『継続してもしなくても、どっちでもいい』ことって、とても多いんじゃないでしょうか?

 余談ですが、私はいまパソコンに熱中していて、これこそ「継続は力なり」を実感してます。パソコンスクールにも、長期・短期、2回通いましたし、きのうも市主催のウィルス対策講座に出席し、未知のことをたくさん教わってきました。
 おかげさまで技も知識もどんどん向上して、いまでは友人たちからたよりにされ、いろんな質問にもこたえられるようになりました。

 お礼になってない駄文、失礼いたしました。
 あらためて、皆々様にあつく感謝申しあげます。なお、かさねてのご教示をいただければさいわいに存じます。 (*_*)
  
 

お礼日時:2002/09/15 09:01

私の個人的見解です。


「継続は力なり」は「いやな事、自分に合わない事も我慢してやれ」という意味ではないと思っています。

自分にとってかけがえのない大切な事、自分に向いていて大好きな事も長く続けていると色んな障害にぶち当たる。それを続けたいという自分の意志とは無関係にそれをやめなければならない事情が発生したりする。そんな時に、例えば方法を少し変えて続けられるように工夫して(継続)で、結果、満足する(力)。と言う風に解釈しています。
「正しい日本語」かどうかで言うと多分間違ってるんでしょうけどね(笑)
この言葉が危険思想かどうかは考え方次第だと思います。

最後に大きなお世話を。
「継続」するにはまず「始動」しなくてはなりません。
「継続は~」の言葉に疑問を抱く前に「気が付いたら続いてた」
って位打ち込める何かを見つけて「始動」しないと!

失礼致しました。
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  >“継続は力なり”という、こんな呪文に、とらわれたらいけないでは?


  >呪文にこだわるととても不幸になる、ということも多いのでは?

あっさり「止めたり」「辞められる」と困る人たちが考えた呪縛のようなものです・・・太平洋戦争のときもそうでした。。。


yumi18さんが懸念される通り、ダムも道路も同じ状況です・・・ダム工事は出来た時から土砂が溜まる事を技術者は知っています。
土砂の崩れやすい場所では、完成後も土砂の除去工事が続きますが、ダムがある間は土建屋は浚渫工事にしがみ付けるのです。

日本には基本的な国土計画があるようでいて無いため、四国に3本架橋したり、東海道でも拡幅せずに同じような道路をもう一本
作り始めたり、政治家の利権に振り回されたり思いつき工事ばかりで碌なことはありません。


“継続は安心なり”かも知れません・・・「経済は底を打った」かに見せかけて置きながら、ついに来年4月のペイオフは、
当面の窮状対策優先で、経済改革は「竹中不況」とか云う理由と共になし崩しで延期になる様子です。

取り敢えずは良いとして、銀行の9月中間決算すら危機が叫ばれているのに来年3月はもっと大変ですね!?!
政府は国民にかなり重大な事を隠し欺いていると感じていますが“継続は不安な安心なり”・・・益々止められなくなりました。

ペイオフは日本経済がガタガタになるという脅しで延期されそうですが、不良債権処理や欠陥銀行の淘汰を先送りしただけという
ことで国際的非難の目は今後一層の日本売りという形で出てくる懸念もあります。

私が来年からどうなるのかと、半分冷ややかに見ているものに【オフィスビル・バブル】があります・・・現在進行中の床面積はバブル
時代の施工床面積以上で完成後どの程度埋まるのか見ものですが、満室になればなったで中古オフィス・バブルが起るでしょう。
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継続しなければ、何事も中途半端で終わり、成せません。



「継続は力」では無くて「継続は基本」です。

>“継続は力なり”の信念で、道路やダムを造ることを一生の仕事としておられるんでしょうが
僕は土木業界ではなく、建築業界ですが、ダムや道路は「継続は力」ではやっていません。
これらには「工期・予算」があり、計画的に行われています。
ただ、「住民生活のため」という大義名分の元に「利益がある仕事」であるからやっているのです。
現在は予算縮小に伴い、計画の見直し及び、計画縮小or中止の方向になっています。
(事実、公共工事はかなり減っています。)

『~たら・・』『~れば・・』という考えは無駄ですし、後悔してばかりでは、前には進めません。
終わってしまって、後悔してもどうにもならないことを考えるのは止めましょう。

今度、何かを始めるときには歯を食いしばって頑張ればいいのです。
その時に「あの時に悔しい思いをしたから、今度は頑張れた」と思えるようになるかもしれません。

一度や二度の失敗なんてモノの数には入りません。もうちょっと前向きに行きませんか?
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クラブの話は良くわかります、私もそういう悔いを残した方です。

でも、もう少し視野を広げてみてはどうでしょうか。私は今社会人ですが、若い頃に苦労して学んだ学問は自分の知的な足腰になっているし、社会に出る前に身に付けたスポーツなども生涯にわたって続けられるようなものが多く、継続は力なりを実感しています。英語なんかも、昔やっておいて本当に良かったと思います。基礎が出来ていると、何事も立ち上がりが早いです。

公共工事の話ですが、あれはどちらかというと雇用対策や選挙対策であって、真に日本という国の発展の礎になるものばかりとは言えないと思います。
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言葉は不思議ですね、使われ方しだい又は、受け止め方しだいで、良くも


悪くもなるような気がします。
 「継続は力なり」の使われ方が悪い場合、yumi18さんのようになってしま
いますが、
 私は、「継続は力なり」で思い浮かぶ人は、「柔道の柔ちゃん」や「卓球少女
愛ちゃん」を思い浮かべます。
 二人とも輝いていますよね。
 人生いろいろな選択がありますが、人の意見に左右選択は、悔いが残ります。
 先輩が後輩のことを思って言ったとしても、正しいことを言っているとは限
らないし、間違う場合もあります。
 私は、周りの意見を聞いて、最後は自分で考え決断するようにしています。
 自分で決断したのですから、たとえ間違った選択だったとしても、誰も恨み
ません。                             
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>“継続は力なり”と、よくききます。


>「あることを始めたら、途中でやめずにずっと続けなさい、人間的にもきたえられます」と。
>これって危険思想では?

私は別に危険思想ではないと思います。
確かに続ければ何らかの力にはなると思います。
ただ、それがその人に適正ややる気がなければ
その効果はあまりあがらないと思います。
あくまでそれをどうとらえるかが問題だと思います。
バスケットは止めるけどスポーツは”継続してやる”と
いう考えた方で言えば”継続は力なり”とも取れます。

>“継続は力なり”っていうじゃないの、
>最後までがんばろうよ」と先輩にいわれて、続けたものの

#2さんも回答していらっしゃいますが
日本人は「辞めたい」というものに対して「止める」傾向にあります。
先輩の方も特に悪意があってあなたを引きとめたわけではなく、善意でしょう。

確かに「いろいろやってみて、自分にあったものを早く見つけるといいね」と
送り出してくれたらうまくいっていたかもしれませんが
#3の方も言っていますが所詮は人の意見ですので
それを理由にされるのはどうかと思います。
仮にそのとき辞めていたらもっと嫌な思いをどこかでしていたかも知れません。
このあたりは結果論ですのでなんともいえませんが…

もしyumi18さんが先輩に引きとめられたことにより
バスケットが好きになったなら”継続は-”を危険思想とは
思うこともなかったと思います。

建設関係については”継続は-”という考え方ではなく
仕事だから?というような考えでやっているだけだと思います。

回答とはいえない長文になってしまいましたがご参考までに
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それは yumi18さん 次第だとおもいます。


“継続は力なり”という言葉は私自身好きな言葉ですが、すべてにおいて当てはまるわけでもないとおもいます。部活を辞めることで周りからいろいろな意見がでるでしょうけども自分の考え、信念を持つことも必要です。
ただ、ソフト部も”後輩に追いつかない”でやめるのはどうでしょうか?
この考えは違うのでは・・・
  がんばって!!(こんなことしかいえないけど)
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