人生のプチ美学を教えてください!!

昭和20年に生きていた方で、戦争の体験談を話してくれる方はいませんか?内容は、「当時の暮らしについて」「当時の気持ちについて」「印象に残っている出来事や事件とその時の気持ちについて」「終戦時の玉音放送を聞いた時の家族の様子やその時の気持ちについて」「戦争が終わった後の暮らしについて」「戦争が終わった後の気持ちについて」「未来の子供たちにメッセージ」「その他」です。どれか一つでもいいので、答えてくれる方いませんか?体験談を聞いた方でもいいです。答えてください。お願いします

A 回答 (6件)

夜は電灯にはメガホンのような細くて深い傘をかけて光が外に洩れないようにするのです


雨戸も閉めるのです
監視所が敵機を発見すると
在郷軍人:退役した老兵士:が「空襲警報発令」と叫びながら町内に知らせます
すると電灯を消すのです
電灯を消すと窓を開けられるので外を見ます
丹荘等が空を(変換不能)
沢山の探照灯の光が空を撫で回します
光の中に飛行機の姿が浮かび出ると光はずーっと飛行機を追います
飛行機の移動に従って地上の光源の位置も次々とリレーされやがて地上から光の糸が昇っていき花火のように光の花が咲きます
高射砲陣地の上空に達したのです
だが届きません
敵は日本の高射砲の到達高度を知っていてその高度より少し上を飛んでいるのです
大人たちは「もうちょっとやのに」と悔しがっていました

後で聞いたのですが敵の爆撃機は低高度のものしかなくこの地域で全滅した経験があるので高性能のB-29を開発して投入したのだそうです

やがて飛行機は私たちの上に到達すると線香花火のような光を撒き散らします
それが地上に届くと街は一斉に燃え上がりました
私たちの家の近くには落ちてきません
道路や鉄道線路にも落ちないのです
工場や倉庫に落ちますが軍艦を作っている造船所には落ちません

買い物で町に出かけているときに空襲に遭うと地下街に逃げ込むのです
そこの通風塔から空が見え飛行機が飛ぶのが見えます
マッチ棒のようなものがヒューと音を立てて落ちてきて大きな音がして地下街がが激しく揺れます
空襲が終わって外に出ると沢山の家がばらばらになっているのに駅やデパートはなんともないのです
そのデパートや駅や通風塔は今でも建っていてその当時の役割を果たしています

人が死ぬとかそういう場面には遭遇していません
職場の人は女の子が自分の腹が裂けてはみ出した腸を抱えて泣いていたのを目撃したそうです
何の罪もない子供まで悲惨な目にあうのが戦争です

大人になってから思ったことは
敵は勝ち戦なので後で自分たちの役に立つものは壊さなかったのですね
その直ぐ後に朝鮮戦争が始まって壊さずに残しておいた物が役に立ったようです
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直接聞いた話です。



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満州に、軍人として赴任し、中尉として部隊を率い八路軍と戦っていました。
軍隊の中では規律を重んじ、部下が中国人に対して不公平な対応をした際は部下を罰していました。

ソ連軍の侵攻があり、現地の仮の収容所に入れられた際、軍人の間で家族が心配だという声が大きくなりました。
私が特務主任をしていて適任だということで、収容所を脱走して家族の安否を確かめに行くことになりました。
雨の降る夜間に、ソ連兵の目を盗み、単身脱走すると、街に向かいました。
しかし、街にはソ連兵や中国人がおり、日本兵の服装ではすぐに見つかってしまいます。
途方にくれ、農家の納屋に潜んでいると、その農家の中国人に見つかってしまいました。

しかし、その中国人は、何も言わずに母屋に戻ると、自分の服を持ってきて差し出してくれました。その中国人は、かつて自分の部下が不当な扱いをし、私が部下を処罰した件の人物だったのです。その事件のあとは会ってはいなかったのですが、その中国人は私を覚えていてくれたのです。

私は、感動に涙を流しながら敬礼し、その服をいただき、その服を着て中国人になりすまし、日本人家族の居住区へ潜入することができました。
家族たちはみな無事でした。
私は、自分の妻の前に立ちましたが、お互いに会話することはできませんでした。会話をすれば、日本兵が脱走してここに来ているということが周囲に伝わってしまう危険があったのです。
無言で頷きあうだけでしたが、胸にこみ上げる充足感がありました。

すぐに日本人居住区を去り、日本兵の服装に着替え、捕虜収容所に戻りました。これもソ連兵に見つかることは無く、仲間の日本兵に日本人居住区は荒らされていないことを伝えると、皆は生きる目的が明確になり、活気が出ました。

日本兵により不自由な暮らしを強いられていたのに、自分に服を差し出してくれた中国人の温情を、忘れることができません。
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私は第二次世界大戦のことを知っている世代ではないのですが、質問者様の質問に答えられる方は、筆舌に尽くしがたい体験をされた方が多いと思います。


匿名の、ネットというお手軽なツールで気軽にお願いしていい内容とは思えないのですが。。。

まずはご高齢の方をどなたからか紹介していただき、実際にその方の所にお伺いして、お話ししていただくべきだと思います。
(ネットをされるような方は、終戦当時子供だった世代の方がほとんどだと思います)

※もし未読でしたら、とりあえず「はだしのゲン」読んでみて下さい。
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ネットの無料匿名掲示板なんかでお聞きになるよりも、


本や、新聞の縮小版をご覧になって下さい。あとは年
配者に直接お聞きになられる事ですね。
でも、もうそのことをはっきりと覚えておられる世代は
少ないと思います。敗戦当時、9歳以上って事になるで
しょうから。戦前は、天皇が生神様で、日本は神の国だっ
た。どんなに戦局が危なくなっても、日本は神国なので、
最後は神の風(→カミカゼ特攻隊)が吹いて、勝つのだ!
って事を国民の大多数が信じていたって事です。空襲に
対しても、ハタキで火を消せってマジメに言われていたそ
うです。
女学生に戦争末期、アメリカへ季節風に乗って破裂させる
という風船爆弾を軍事工場で作らせていました。同じ頃、
ドイツでは、ミサイル開発に成功、それがロンドンへ向けて
飛んで行き、イギリス人を恐怖のどん底へ叩きこんでいま
した。戦争中、国は兵隊にする為に国民にドンドン子供を
生みましょう!って奨励。そして負けた途端に、子供3人
が文化的な生活って言われたわって、お婆さんが昔、新聞
に投書してましたよ。(大体、物量からして桁違いのアメ
リカに戦争を挑むなんて、狂気の沙汰でした)
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終戦後6くらいの時かなあ、就学旅行に米を持っていきましたね。


田舎の小学校に進駐軍が来て戦争の用具をすべて燃やしていきました。
田舎の小学校の運動場いっぱい(実際は直径10mくらい)の焚き火だった。
リョウブの葉をとって学校に持っていくとパンと交換してくれたなあ。
玉音放送は夏休みの登校日で500mくらい先の小さな店まで聞きに走っていった。
終戦間際にそんな田舎にも爆弾を落としていった。
これも作戦のうちか、もしかしたら街に落とすのを嫌った兵士の気持ちかもしれない。
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回答ではないのですが・・・・・



終戦当時に生きていて、しかも記憶がしっかりある年代というと、現在の70歳代以上の方々ですよね?そんなご高齢の方がネットしていてこのサイトに来ているとは考え難いです。ネットで調べるというより地域の老人ホームに電話を掛けて、語ってくれそうな(語れそうな?)おじいさんおばあさんを紹介してもらったほうが良くないですか。
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