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(1)私・親しい人々・生きとし生けるものが、幸せであること・悩み苦しみがなくなること・願い事がかなうこと・今やるべきことがわかるという智慧が現れることなどを喜ぶような心をつくることについては、問題ないでしょうか?
(2)今起こっている身体の感覚・状態、感情などの事実を確認することに問題はないでしょうか?
(3)論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを実際に事実か確かめることについて問題はないでしょうか?
以上は僕の思う上座仏教の「実践」です。
(1)慈悲の瞑想・正定
(2)ヴィパッサナー瞑想・正念
(3)正見・正業・正語・正思惟・正命・正精進
論理的道徳的に問題なければキリスト教の方々も実践できるということになると思います。
どうでしょうか?
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No.3ベストアンサー
- 回答日時:
No.2です。
蛇足です。maggaさん もしご質問が 《キリスト者には 禁忌とすることがあるか / あるいは ほかの宗教の実践をおこなおうとするのに なにか禁止事項がありますか》という問いでしたら 何も無いが 答えです。
自分と同じくらい人を愛せ これが 唯一の掟です。ほかに一切ありません。あとは社会常識の問題です。
なんだか安心しました。
仏教・キリスト教は違いはあれど人格の向上を目指し、同じ道を正精進することに何の問題もないということですかね。
これはすばらしいことです。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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No.2
- 回答日時:
maggaさん こんばんは。
基本的に言って このご質問にあることがらは 信仰とは直接の関係はないようです。
言いかえますと これらすべては 道徳であり 倫理に関する思想もしくは実践です。
キリスト者が 道徳や倫理から離れていると言おうとするのではありませんが それらから 信仰のあり方あるいは生活態度において まったく自由であるというのが 正解です。(わたしは どこの教会にも属していませんが クリスチャンの基本は そうだという答えになるはづです)。
聖書はなんと言っていますか。
アブラハムは神を信じた。それで彼は正しい人とみなされた。
(創世記15:6)
ところで 働く者に対する報酬は恵み(恩恵)ではなく 当然の報いと
みなされています。しかし 不信心な者を正しい者とされるかたを信じ
る人は 働きがなくても その信仰によって正しい者とみなされます。
同じように ダヴィデも 行ないによらずに神から正しい者とみなされ
た人間の幸いを 次のようにたたえています。
不法がゆるされ 罪を覆い隠された人々は 幸いである。
主から罪があるとみなされない人は 幸いである。
(詩編32:1-2)
(パウロ:ローマ書簡 4:3-8)
信仰によって そして信仰ゆえの恩恵によって キリスト者は 生きます。恩恵とは 只でという意味です。行ないが善かったから ですとか あるいは 心が清いからという理由(原因)によって 生きるのではありません。また 信仰の問題として厳密に言えば 結果を求めてであるとか 目標を目指してであるとか そういう計らいのもとに 生きることからも 自由になったかたちだと思います。
いちど このことは きちんと明らかにしたほうがよいと思いましたが どうでしょうか。
* 日常生活あるいは仕事上で 計画や目標などなどを持ち 人と同じように努力をすること これを怠るという意味でないのは 言うまでもありません。それらの営みが どうであったから 信仰がこうであるとか そのようなかたちでは 関係がないという意味です。
回答ありがとうございます。
おっしゃるとおり、上座仏教は「信仰」信じて仰ぐものではないと考えています。
仏教で言うのは「信」つまり自信・確信です。いろいろ検証して善く生きるための道を構築していくものです。論理的道徳的実証的にいろいろためしたり、経験・体験から考えていって「信」を強めるといったものです。事実確認の道です。
<<日常生活あるいは仕事上で 計画や目標などなどを持ち 人と同じように努力をすること これを怠るという意味でないのは 言うまでもありません。生活態度において まったく自由であるというのが 正解です。>>
キリスト教の方々が仏教の八正道を歩むことは問題ないということですね。
<<行ないが善かったから ですとか あるいは 心が清いからという理由(原因)によって 生きるのではありません。>>
人間の考え方・心の法則性を利用することですから。
その中で自分も他人も苦しまずに支えあって常に慈悲喜捨の心で生きるにはどうしたらいいかという生き方実践マニュアルですからね。
こちらの面でも問題なさそうですね。
多くの人がこの道を歩むことを切に願います。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
No.1
- 回答日時:
実際、自分の思うこと、他人の思うことは違います。
共感できても、立場で違うという人もいます。
実践しても、言ってることと、やってることが違います。
また、キリストでも、他人は崇拝しました。
でも、時の権力者は最後はなにをしまいたか?
質問者さんの自他共に認めての確認ですが、キリストの最後を思い出してください。
薬害等でも、極論ですが人体実験です。
他人ならなんでもするように思えます。
自分はしませんが。
回答ありがとうございます。
<<実際、自分の思うこと、他人の思うことは違います。共感できても、立場で違うという人もいます。実践しても、言ってることと、やってることが違います。>>
もちろんそれぞれの生命は違う概念を持っているでしょうね主に五感の情報と自分の概念で考えるのですから。
言葉も不完全なものです、自分の感じた情報・感情・概念をそのまま伝えることは不可能です。だからこそせめて論理的・道徳的かを理性的に、今備わっている自分の能力を最大限に使って考えることが大事なのだと思います。
<<また、キリストでも、他人は崇拝しました。でも、時の権力者は最後はなにをしまいたか?質問者さんの自他共に認めての確認ですが、キリストの最後を思い出してください。薬害等でも、極論ですが人体実験です。>>
他人の崇拝…?質問欄にありましたでしょうか…。
「自他共に認めて」ではなく「論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを」です。
人体実験ですか。
危険と解ってやるのは道徳的にだめでしょうね。
役に立つのではないかと今ある能力を最大限に使って論理的かつ道徳的な考え方を理性的に、考えたものを実践するよりないのではないでしょうか。
今ある能力でやる前に、論理的思考で考え、それが道徳的か考え、実際にやってみる。やってる途中にもまた考える。終わってからも考える。
間違っていると感じたらすぐやめる。それ以降やらないようにする。
このような体験的実験的なことをする以外に
その他に道はあるのでしょうか?
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