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obrigadoです。
あれから色々考えました。
やはり私は神様はいると思うようになりました。皆さんの言われるように直接は手を下さないけれど見守ってくだされる存在だと。
だからと言って願い事をすべて叶えて貰う事は望んではいけないし、また日々の安全を感謝することが大事だと再び考え直しました。
よく考えてみれば私が過去にある出来事に巻き込まれた時もう少しその出来事に足を入れていたら大変な事(おそらくとてつもない借金をしてしまい家族が離散していたと思います)になっていた、それを止めて下さったのが私の家で信仰していた神様、お不動さん(某不動明王さんですが)だと思うのです。
私はその事を忘れ前回自分の希望が叶わなかった事に腹を立てお不動さんを馬鹿にし、けなしてしまいました。すごく反省しています。お不動様は裏切るとすごく恐いと昔聞いた事があります・・・お不動様はこんな私でも許して下されるんでしょうか?
お不動様が直接答えて下さるとは思いませんが、どうしても書きたくなりました。すいません。
(初めて見られた方、訳が解らなくてすいません)

A 回答 (9件)

神様たちは、ひろい心で信じる者を救ってくれるためにいます。


その後「ありがとう」といえるようになりましたか?
神様、お不動様に手を合わせて「これまで失礼しました、これからも守ってください、ありがとうございます」と言えば許してくださいますとも。
とにかく、あなたが平静な心を持ち直せたことがとても嬉しく頼もしく思えます。
頑張って、前を向いて進んで行って下さいね。MAHALO
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不動尊は様々あって明王が一般的ですが、大変慈悲があり大日如来の化身と言われています。

霊験は六ヶ月間の猶予があるそうです。
不動明王は何でも許すと聞いています。ですから、何事もお許しになるでしょう。
普遍的ですが、基本的に諸尊全てに慈悲が必ずあるので、何事も不動尊に限らずお許しになるのでしょう。

ある意味で、
希望が叶わなかったのも「神様」の意思と判断すると納得がいくのではないでしょうか?また、現世利益は単純な信仰ではとても叶わないでしょう。
人が生きている事自体不思議ですから、神様の「意思」により「生かされている」事実を踏まえて幸福感を感じとってはいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

たくさんの回答ありがとうございました。
皆様のお言葉は神様のお言葉だと思い深く胸に刻みつけたいと思います。
もちろんお不動さんへの日頃の感謝は忘れず自分にも日々精進していこうと思います。
本当は皆様にポイント上げたいのですが叶わずどうもすいません。
でも感謝の気持ちだけでも皆様どうかお受取くだされば幸いです。
どうもありがとうございました。m(_ _)m

お礼日時:2002/11/03 01:24

不動明王というのは、仏教の最高神・大日如来の教化(仏の教えを諭す)の姿だと言われています。

 
不動明王の膝元にすがる人々は、自分の体についた魔物(悪い考えや、弱い考え)を後輪の炎(後ろにある炎の事)で焼き尽くし、右手に持った剣(破邪の剣とも呼ばれる)で自分に取り付いた魔物のみを滅ぼし(人間の体は傷付かないとも言われる)、再び自分に取り付こうとする魔物を憤怒の形相にて威嚇し近づけさせないとも言われています。

また自分の悪い心や弱い心を後輪の炎で焼き尽くす時、人は想像を絶する苦痛を課せられるとも言われ、弱い心の人間は苦痛に耐え切れず不動明王の膝元から去ろうとします。
その様な人を救うために左手に縄(ケンサクと言います。漢字が判りません)を携え、自分の元を去ろうとする人を縛り付け、自分の身を共に焦がして人を救おうとされているそうです。

結局最後は自分を捕まえてくれていた縄によって、再び不動明王の膝元に戻った(縄をたぐり寄せて貰った)と考えて良いのではないでしょうか?
何と言っても慈悲の神様の最高神ですから。
また、不動明王の元で悟りを開いたならば、不動明王は大日如来に戻るとも言われています。

以上偉そうな事を書きましたが、宗教というのは色々な角度から見る物ですから、人や寺によって微妙に解釈が違います。  が、そんなに間違ってはいないと思います。
不動明王の名前の如く、常にどんな事に動じる事のない不動の心(度胸)を持っていたいものですね。
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#2や#5の方の回答を、よーく読んでください。



「神様」っていうのは、人間とは別個に存在するというものではなく、人間の心の中にいるのではないでしょうか?

また人間の心には同時に「憎悪」や「狂気」、「怠惰」や「欺瞞」などの「悪魔」もいます。

時によって、悪魔が前面に出てきて、悪いことやつらいことがもっと悪くなったり、逆に神様が出てきてよくないことが思った以上の幸せに結びついたり・・・

とまぁ、私の「神様」というのはそんなモンなんですよ。

あなたの神様はご質問にあるように「見守ってくだされる存在」なんでしょうね。
そしてあなたは、誰かを憎むことをやめ、反省した。

>こんな私でも許して下されるんでしょうか?
許してくださると思いますよ。

そして、また立ちあがって、一生懸命に生きていくことを望まれていると思います。

(注意)
許してくれたかわりに、お布施やお祈り、修行などは望まれていないはず。
だって、あなたの神様も、あなたの心の中にいるのだから・・・

個人的には、私はこの質問でちゃんとフォローアップしたあなたを「えらいひとだ」と思います。
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信仰は確かに心の支えにはなってくれるでしょう。

私自身は基本的には無宗教ですが、何故か子供の頃から周囲には何かしらの信仰を持っている人が多く、たまたまミッション系の学校に行ってキリスト教の知識を得たことで、宗教に対して尚更疑問を持つようになってしまいました。思想としては認めます。ですがそれに何も期待しないことです。客観的に信仰、特にクリスチャンなどはわざわざ不幸を探し、「私は神に試されている」と言ったり、「人間は平等だ」などと言いますが、
人間は不平等で世の中は不条理なのです。それに耐えられない人が信仰に走るのだと思います。それからお不動様は神様ではありません。ですが日本古来の八百万の神々の遺伝子が日本人にはあり、また仏教の影響も代々伝わっていからと言うのではありませんが、マクロ的に見るとほぼ同じものです。ただ結局は信仰は生きるためのマニュアルにすぎないと個人的には思います。いいことがあれば「誰それ様のおかげ」悪い事があれば「誰それ様が怒っておられる」それはそれで一人一人がどう考えようと自由ですが、現世利益を求めるのだったら信仰はお捨てになった方がいいと思います。現世では神仏に何を求めてもほとんど無駄です。敬意を表すのは良い事だとは思いますが、「極楽に行きたいから功徳をつむ」「天国に行きたいから良いことをする」それは虚しくはありませんか?今生きているならこの世界でどうやって生きていこうか考え、行動すればいいのです。棺おけに片足を突っ込んだ
ような生き方は虚しいです。信仰はあくまで生き方のマニュアル、つまり道具です。道具に左右されてしまうのは愚かなことです。理想としては信仰に頼らず、
現世を紆余曲折しつつ日々をすごすことがこの世界で本当に生きるということです。神仏に頼っては生きている意味がありません。生きることは自分でマニュアルを作っていくことです。神仏のことを心配されるのは、死んでからでも十分間に合うと思いますが。
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裏切ると怖いから反省しているのか


申し訳ない気持ちから反省しているのか

全然違うようだけど
結局は同じかと。

反省していればそれだけで良いかと。

どうせ削除されるだろうから
適当に書いてみました
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悪人は反省しない



あなたは反省している

あなたは悪人ではない

あなたは罰せられない
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obrigadoさんの質問文にある「神様」と「お不動さん」は同一のもの(失礼)を指しているのだと思ってアドバイスを



以後文中で混乱を避けるため「神様」と「お不動さん」はまとめて「それ」と表現させていただきます。

>やはり私は神様はいると思うようになりました。
>皆さんの言われるように直接は手を下さないけれど見守ってくだされる存在だと。

obrigadoさんが仰るように直接は手を下さないけれど見守って下される存在であるならば

>お不動様は裏切るとすごく恐いと昔聞いた事があります・・・

このように恐れることもないと思います。
「それ」がどうお考えになっていもobrigadoさんを見守ってくださることと思います。
「それ」が怒っておられること自体が怖いのであれば
obrigadoさん自身が「それ」が怒っているだろうなと考えている期間中は
恐れや恐怖をobrigadoさんが感じることになります。

許してくれるかどうかについては「それ」は見守っているわけですから
けなされても褒められてもお供え物をもらっても見守っているだけなのでしょう。

「それ」がどうお考えかは「それ」自身の意思よりも
「それ」に対している者(この質問においてはobrigadoさんの立場の者)がどう思っているかに影響されます。
obrigadoさんが「それ」に対して恐れを抱くのもobrigadoさんの考え一つで決まります。
なぜならば「それ」は見守っているだけなのです。

ある意味一般のイメージからは逆転した主従関係のような構図と言いましょうか
「それ」がどういう存在になるのかも「それ」に対している者の考え方のさじ加減ひとつで決まってしまいます。

obrigadoさんが何も気にしなければ「それ」は見守っているどころか無になります。
言うならば「それ」は鏡のような存在でしょうか。

以上質問文から私が読み取れる範囲内で考えアドバイスをしてみました。


自分の考えを少しだけ述べさせていただくと
神様が人間を創ったのではなく、人間が神様を創った
このようなニュアンスになります。
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許すも許さないもないと思います。


私も、他の方もたくさん書いておられましたが、神様は結局傍観者、「見守っている人」なのです。
人がどうこうするのを見て、喜んだり怒ったりするのではなく、それを見守っているだけ。
「悪い事をすると天罰が下る」と言いますが、何かしらの理由で荒れてしまって、自分が悪く言われたと怒り出すような神様がいるでしょうか?
それを反省している人間に、さらに罰を与えるような自分勝手な神様がいるでしょうか?

神様は聞き上手な人と同じだと思いますよ。
人の話を「うんうん」って頷きながら聞いているのと同じだと思います。
そうやって人に話すことによって、自分で冷静さを取り戻したり、道が見えてきたり…という経験はありませんか?
私は田舎がお寺の割に信仰心0ですが、神様がいるとすれば、それはそんなに「人間らしい」ちっぽけな感情で動くようなものではなく、もっと大きな大きなものなのだと思いますよ。
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