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荘園と公領を支配している人の違いがよくわかりません。

荘園を支配していたのは有力な貴族や寺院また皇族などの有力者だということはわかるのですが、公領を支配していた国司とはどのような存在の人たちだったのでしょうか? 

国司も中央から派遣されてきた従六位下以上の人たちであって荘園を支配している有力貴族と同じ存在のように思えるのですが。

たとえば、藤原氏の一族の中から誰かがある国の国司に任命されたとして、その国の荘園も寄進をうけて藤原氏が所有しているとしたら荘園も公領も支配者は同じということになりますよね?

わかりにくい質問ですいません。

A 回答 (2件)

>荘園と公領を支配している人の違いがよくわかりません。



失礼ながら初期荘園と寄進地系荘園を混同しているようですが、初期荘園は墾田永年私財法に基づき、皇族・貴族・大寺院などが開墾・買い入れなどにより私有した荘園を言います。開墾は中央権力者が直接資金を提供し、浮浪人やなどを動員して開墾した荘園です。8~9世紀に成立します。
これに対して寄進地系荘園は、開発領主と呼ばれる地方の富豪の輩や大名田堵などの開発した土地を中央の権力者に寄進し、その権力を背景に所有権、不輸(税金を納めない)権、不入(検田使などの役人の立ち入りを禁ずる)権などの権利を国司の圧迫から守るためのものです。開発領主は現地の荘園の管理者としての荘官として、荘園の実効支配をしました。国司の圧迫から守るために大寺院や、国司の任免に影響を持つ中央の上級貴族などに寄進し、所有権を持ってもらったわけです。そのため、摂関時代には摂関家に、院政期には院及び天皇家の周辺に寄進が集中するようになるのです。また、新たな権力者に再寄進することもおこってくるわけです。開発領主の中には国司として任国に下向したものが、現地の有力者に婿入りしたり、任果ててからもそのまま土着したりした者や、その子孫も多く見られます。国司時代から、開発をしたり、前国司としての権威や財力を用いたり、婿入り先の力を利用したり、自力、他力を問わず開発をするものが含まれますが、基本的には現任の国司ではありません。また、開発領主と呼ばれる地方の富豪の輩や大名田堵などは、古代の国造や郡司から引き続く家系の者もあったといわれています。これら開発領主-現地荘官層は地方社会の中で生きようとした層なのです。
これに対して公領は律令の口分田にその淵源を発し、平安時代中期以降この公領が国衙(国司が事務を執った役所)の私領化し、国衙領と呼ばれるようになります。国司はある一定の租税を朝廷に送れば後は自由になる体制に変わったわけです。一種の荘園化であり請負体制です。国司の任期は通常4年ですから、国司は期限付きの公領支配者ともいえます。また、国司は荘園をつぶすか、税を納める輸租田にすれば自分の実入りは増えるわけですから、国司と開発領主などの荘園の領有者の利益は相反します。しかも国司はあくまでも中央からの派遣者であって現地の人間ではありません。都に帰れば5位前後の位を持つ中級貴族-受領層として新たな国司の座を狙って上級貴族への奉仕や、朝廷の行事や寺社の造営に経済的な奉仕をして官職を得ようとします。中には数カ国の受領や中央の中級官職を経て、位は3位以上、官職は参議以上となり、上級貴族の仲間入りする者も現れます。院政期には院の近臣として政治の実権を握り、家格の上昇が見られる家もあります。このように国司層はあくまでも中央の貴族社会の中で生きようとした層なのです。
このように一国が公領と荘園からなる土地の領有体制を荘園公領制と言い、院政期に確立します。また同時に知行国制も発展します。上級貴族や皇族を知行国主とし、知行国主は国司を推薦し、朝廷に任命してもらい、国司から礼物を取ったり、国司に親族や家司などを推薦し、国司の収入を得るなど、公領をより荘園化・家領化する制度も増えてきています。
国司の上司である上級貴族や皇族は、一方では荘園の領有者でもあります。公的な関係を通じて国司に影響を及ぼし、私的関係を通じて荘園を支配する(開発領主との契約関係と考えた方が良い場合も多いですが)存在です。国司に対しては太政官符や宣旨、勅旨などの律令に基づく公的文書により、荘官に対しては上級貴族の家政機関である政所の下文や御教書などにより指示を出すわけで、公私が区別されています。しかし、知行国主ともなれば関係はあいまいとなってきます。
開発領主-現地荘官層も領有者である上級貴族と私的関係を通じて官職を得ようとします。都に上り、貴族の随身などで奉仕し、位や官職を得ようとするのです。これは名誉だけでなく、国司との関係で位や官職を持っていることが有利であったことによります。さらに、国衙組織の中にも入り込み、在庁官人として実務を受け持ち、荘園経営にも有利に働くようになります。中には、千葉氏のように次官である介になる者も現れ、国司と開発領主-現地荘官層の関係もあいまいになってきます。
このような在庁官人層の中から鎌倉幕府の守護が出て、国衙機能を吸収していきます。また、荘園では開発領主-現地荘官層が本来の権利を求めて鎌倉幕府により地頭に任命され、領主層である上級貴族や皇族への立場を強め、荘園の利権の回復を図っていくわけです。

説明が長くなりました。

荘園を支配していたのは有力な貴族や寺院また皇族などの有力者だということはわかるのですが、公領を支配していた国司とはどのような存在の人たちだったのでしょうか? 

「国司はあくまでも中央からの派遣者であって現地の人間ではありません。都に帰れば5位前後の位を持つ中級貴族-受領層として新たな国司の座を狙って上級貴族への奉仕や、朝廷の行事や寺社の造営に経済的な奉仕をして官職を得ようとする人たちです。」

国司も中央から派遣されてきた従六位下以上の人たちであって荘園を支配している有力貴族と同じ存在のように思えるのですが。

「中央貴族として同じですが、任命する者とされる者、奉仕する者とされる者の違いはあります。」

たとえば、藤原氏の一族の中から誰かがある国の国司に任命されたとして、その国の荘園も寄進をうけて藤原氏が所有しているとしたら荘園も公領も支配者は同じということになりますよね?

「公領の支配者は実質的には国司だと思います。朝廷は請負に出しているような方式ですから。また、上級貴族や皇族は一般に直接的に任命権をもっているわけではありません。
これに対して荘園に関して本当の領有者・支配者は誰なのかは難しい問題です。しかし、荘園の実質的な支配者は開発領主-現地荘官層ではないかと思います。領家・本家などのように実質的に支配権を持つ本所は動きますので、開発領主-現地荘官層などの在地領主は、荘園領主と呼ばれる都市領主(本所等)の上級貴族や皇族などに比べて相対的に強い勢力を持っていたのではないかと思います。ただ、名目的な所有権は荘園領主と呼ばれる都市領主(本所等)にあり、在地領主は奉仕や負担を求められることは確かです。
しかし、知行国制度の進行は公領と荘園の支配者が同じになっていくことでもあります。」

*田堵は耕作請負人で、荒廃田や連作が困難な耕地を再開発した。最初土地の所有権を持たなかったが、後所有権を持つようになり、名主に成長する。大名田堵はそのうちで大規模経営をする者。

非常に長くなってしまいましたが、参考まで。
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その通りです。



平安時代の藤原氏の栄華は律令制度下に於ける官僚(国司他)であったことによります。
荘園はその藤原氏に対して寄進されたものと、そもそもの公領を自分のものとして膨れて行きました。
鎌倉幕府が地頭を派遣して、主として行ったのは公領にたいして権利収奪して行きました。
国の官僚としていい暮らしをしていた藤原氏はこれで、没落していったのです。
荘園は、現地で荘園管理していた足利氏とかが権利を収奪していったもので、地頭の配置とは又事情は異なります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

やはりそうでしたか、このあたりの解釈がいまいちあやふやだったのですがこのご回答ではっきりさせることができました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/18 23:31

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