
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
律令制では国の中にいくつかの郡があり、郡の中にいくつかの里がありました。
それで、郡の役人の郡司が里の長の里長を使って支配していました。
国の役人の国司は各郡を回ったりして、支配のチェックをしていました。
荘園が発達するにつれて、この体制が変わっていきます。
荘園ができるようになると、中にはしだいに国や郡の役人が立ち入ることができなくなる荘園も出てきました。
荘園以外では、郡司の支配を低下させて国司の責任者に力を集中させ、一部の郡は細かくわけたりして郷とし郷司が支配したりしました。
国司の下にあった土地は公領というようになり、郡司や郷司が同程度の力で国司に従いました。
ですので、「荘園」と「公領の郡と郷」が並立していたということですね。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
江戸時代の○○守の意味は?
-
征夷大将軍とは現代で言う内閣...
-
守護と地頭とは
-
平安時代の右大臣 左大臣 太政...
-
征夷大将軍と関白
-
柳沢出羽守と松平出羽守の両立...
-
「上総介」とか「相模守」って?
-
官位?に松平を付けるのは何故か?
-
○○守とは何?
-
なぜ足利氏は天皇の外戚になら...
-
藤原氏の政治 道長の政治につい...
-
天皇制の起源
-
「矛を収める」 「刀を鞘に納め...
-
江戸時代の牢屋って?
-
苗字帯刀
-
将軍曰く「余の顔に見覚えがある...
-
戦国から江戸に続く戦闘職業の ...
-
226事件で昭和天皇が「朕自ら近...
-
戦時中の女子学生たちは,自慰を...
-
IMEパットでも探せない字を...
おすすめ情報
文の付け足しです
体制(荘園公領制)に変化していった。