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守護と地頭とはなんでしょうか?
どっちも領主ですか?

A 回答 (8件)

>軍事警察権と武力支配権は違うんですか?



守護の軍事警察権は国家権力ですが、地頭の武力支配権は武士の私的権力なのです。守護も地頭も鎌倉殿の御家人ですが、守護は上級御家人で、地頭は下級御家人なのです。また、元々地の武士が御家人になり地頭になった場合もあるでしょう。守護は地域支配が目的ですが、地頭は大荘園支配が目的なのです。
貴族が支配していた大荘園は独立性が高かったので、守護だけでは取り締まれなかったのです。『泣く子と地頭には勝てぬ』と言われるぐらい無茶をして地頭は大荘園乗っ取りを行ったのです。

元々は貴族支配であった社会を武家支配に切り替えようとするのですから混乱は必至です。平家は武家支配ではなく貴族化してしまったので滅んだのです。この社会的混乱は延々と続くのです。関東は幕府支配で、関西は朝廷支配です。政権が2つあったようなものです。
この状態を解決したのが、元寇だったのです。元からの服従を求める国書は朝廷に届けられるが、朝廷は責任放棄して、この返書を鎌倉に委ねたのです。朝廷は国家として一番大事な防衛を鎌倉幕府に任せてしまったのです。これを口実に鎌倉幕府は国土防衛を口実に九州にまで支配権を伸ばしたのです。島津家や大内家もその時に着任した守護で、後に守護大名に成長するのです。

地頭はやがて荘園主になり、開墾も行ない農場主でもあるのです。しかし、時代が進むにつれて地頭は守護に取り込まれてゆくのです。その理由は守護には徴税権がなく、地頭にはそれがあったからです。このようにして、守護は軍事警察権と徴税権を手に入れ大名になったのです。地頭の中で守護に組み入れられなかった者が国人となり、その後に戦国大名になったのが毛利家です。
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この回答へのお礼

なるほど国人ってそういうものだったんですね。

国家権力ということは守護はその地域の支配には自分の武力だけでなく、その地域の他の御家人の武力を使えるということで正しいですか?

早速回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 23:51

No3



これは所領の安堵とはまた別なんですか?

ある土地に対して単一の支配が確定していくのは、戦国時代を通じてであり、最終的には秀吉の太閤検地の段階になります。
歴史上これを「一円知行」といいます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%86%86% …

ある土地に対していろいろな権利者(権利を『職』と呼んだ)がいるというのが、鎌倉時代を含めた中世の実態でして、鎌倉時代に置いては「所領の安堵」とは一般には、ある土地に対する「地頭職」に任ずる事を言います。

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/app/search/cu …

鎌倉時代。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が、北関東の御家人の小山朝政に宛てた下文。将軍家政所より発給された地頭職補任状を再度承認したもの。

これが所領安堵の具体的なカタチです

全国一律で地頭職ということではなく、ある土地に対する「取り分」の保証が所領安堵になりますので

http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/jose …

元暦2(1185)年8月17日付で源頼朝より摂関家の一つ近衛家の所領で薩摩・大隅・日向に広大な面積をもつ島津荘の下司職(げししき)に補任された。

という場合もあります
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この回答へのお礼

なるほど合点がいきました。

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 23:56

 みなさんが丁寧な説明をされていますが、簡潔で間違いのない説明をします。


お年がわからないので中高生扱いになっても気分を害さないでください。

鎌倉幕府の成立とほぼ同時期に守護・地頭が任命されました。
守護は国毎におかれた追捕使(警察長官)です。主目的は平氏殲滅。
地頭は荘園毎においた。荘園におかれた鎌倉幕府の代理人。荘園領主は貴族・寺社。
そして荘園内部には有力農民もいますから、地頭は最初からやりにくくてしかたがない。
荘園に無理に入り込みいきなり農民を苦しめる地頭から中に
入れず外に居を構え無収入のままの地頭まで様々でした。
 全体としては急速に荘園内での地位を高めていく地頭。
ついには困り切った領主が荘園の半分を地頭に譲るまでに。

 守護は職としては無収入ですから地頭を兼ねていた。が、
鎌倉幕府も終わり頃になると名門武士として貴族の国司など
ものともせず、領国内の地頭たちを家臣として守護大名に成長
します。こうなれば守護も立派な領主です。
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この回答へのお礼

なるほど、まるで別物なんですね。

ありがとうございました

お礼日時:2014/07/28 03:57

守護と地頭の設置は義経の京都脱出を知った時に頼朝が設置したものである。

側近の大江広元の発案と言われる。義経の捜索と逮捕を名目に部下の御家人武士を各地方の守護に任命し、各荘園には地頭を任命して支配権を強めようとした。

守護は後の名で当時は追捕使と呼ばれ各地方の軍事警察権を持っていた。地頭は荘園支配で武力支配権を持っていた。守護は地方単位で、地頭は荘園単位であった。それは荘園が小さな独立国のようであったからです。

追捕使は義経の探索逮捕の名目がなくなると守護となるが、警察支配権を有するので守護大名へと成長する。地頭は支配地域が小さく年貢の徴収と納入が主な任務であるが警察権も持っていたので、これも大名に成長していった。

この守護と地頭の設置により頼朝の支配が全国に及ぶことになった。鎌倉政権が確立した時とも言われ、後の鎌倉幕府の成立につながる。
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この回答へのお礼

軍事警察権と武力支配権は違うんですか?
ここは職権がかぶらないのでしょうか?
守護も荘園内のことには手が出せないのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 03:59

どちらも鎌倉時代に定められた身分(職制)です。


言葉としては地頭のほうが古く平安時代の末期から使われていました。
地頭は慣用的な言葉としては江戸時代まで使われていました。
江戸時代を舞台とした歴史小説などでも時々登場する役職名ですが、江戸時代には慣用語としてのみ使われていたことから、鎌倉時代や室町時代とは職制上の性格が違います。

平たく言いますと、地頭は土地を管理し年貢の徴収管理を主な仕事としていました。
守護は国を管理して治安の維持を担っていました。
税務署のお役人と警察官(機動隊)との関係とでもお考えください。

日本史の言葉で、領主とか国司とか大名とか、領国、荘園などといろいろ出てきますが、要は年貢即ち租税の徴収権を誰が持っていたか、ということだけです。
その徴収権を持っていた人間の役職名がいろいろ変ったり、その徴収できる範囲(縄張り)にいろいろ名前がついているだけです。

701年に定められた、大宝律令に基づいて、朝廷から、各地方へ、この徴税官を派遣していました。
国司と呼ばれます。
朝廷即ち天皇家の政治力が低下するにともない。お公家さん達がここはオレの縄張りだから、税金はオレに払えとやりだしました。
この縄張りを荘園と呼びました。
京都にいるお公家さんが、自ら遠い地方へ出掛けて行くなどということはせずに、家来に任せました。
地方で暮らしていて、セッセと税金を集めて、雇い主のお公家さんへ送ってやっていた人達が、やがて地頭と呼ばれるようになりました。
朝廷から正式に派遣された国司がいますから、当然もめます。
もめても、肝心の朝廷があてになりませんから、現地で話をつけようということになります。
こうなると、腕力の強い方が有利です。
鎌倉時代に、頼朝がこの腕力の強い連中を正式に認めろと言いだして、朝廷に認めさせてしまいました。
ここで、治安は守護という役職の者の責任で、税の徴収は地頭の責任だ、と責任と権限を分担させました。
守護の多くは鎌倉から派遣されてきましたが、地頭は元々地元の人間ですので、そのまま鎌倉幕府の組織に組み込まれていきました。

この制度の元締めである幕府なるものがしっかりしていれば、問題はありませんでしたが、鎌倉幕府のあとを継いだ室町幕府が地方行政などと面倒くさいことはやめたと放り出して、お茶だ絵画だ文化だと京都で楽しんでばかりいました。
こういうことになれば、地方で武力を持っていた守護の連中が、オレはオレとやりだしました。
守護大名と呼ばれます。
腕力の強い人間はどこにでもいます。この守護大名をぶっ潰して乗っとる連中が現れました。
下剋上といいます。
この連中が、守護大名を乗っ取るだけでは気が済まずに縄張り争いを広げました。
この連中を戦国大名、縄張り争いの時代を戦国時代と呼びます。
結果として江戸時代へとつながっていきます。
元来事務屋さんだった地頭とよばれる人達は、どの時代でも、税を徴収する実務者として残り続けました。
税を納める庶民(主として農民)にとっては、窓口は変わらないということになります。
結果として江戸時代にも地頭という言葉は残りました。

超々大雑把に守護と地頭の説明をしましたが、何かあれば補足でご指摘願います。
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この回答へのお礼

わかりやすかったです。

ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 04:01

地頭


各荘園などの領地単位での徴税責任者

徴税の責任があるということは、徴収した税金から自分の取り分を取れるということ。
この「自分の取り分」の保証を鎌倉殿(将軍)が行いました。これが「御恩」
この御恩に対して奉公をする必要があり、国単位でその奉公の指示・監督を行ったのが守護。
守護は自分が担当する徴税地域があるという意味では、地頭でもある。
大番役として京都や鎌倉の警備をすることとか。その警備の監督が守護

どちらも領主ですか?
と、聞かれれば、領主ではない。

地頭が徴税して、その税金を全部自分の取り分にしてしまい、『領主』に税金を払わなくなると、地頭は領主になります。
地頭の奉公(警備という武力行使力)を将軍の命令を受けて行うのではなく、自分や近所の地頭連合のために行うようになると、地頭は守護の部下となり守護は守護大名になる。
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この回答へのお礼

これは所領の安堵とはまた別なんですか?

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/07/28 03:56

守護は一国の主


地頭は地主

今風に言えば
守護が東京都知事 地頭が23区の区長長
と考えれば分かる
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この回答へのお礼

なるほど

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 04:02

>どっちも領主ですか?


いや、領主とはちょっと違うかな。
どちらも、幕府の役職として任命されているので、一般的に領主といわれる存在ほど自由は無かったと思いますよ。

参考
http://manapedia.jp/text/index?text_id=1646
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7
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この回答へのお礼

なるほど

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/28 04:03

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