痔になりやすい生活習慣とは?

一万石 大名には家来は何人ぐらいいたのでしょうか
また 家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか

A 回答 (2件)

諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められています。


備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています。
慶安2年(1649)の軍役規定を見ますと、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています。
この人員が軍役として必要とされる人数ですので、基本的にはこの人数が大名家の抱える家臣ですが、「中間」は武士階級でないので、この人数を引いた数が武士としての家臣です。
中間などを約100名として、1万石の大名家の抱える武士は120名~150名ではないでしょうか。
また1万石の大名の参勤交代の行列は馬上3騎・足軽20名・中間人足30名となっています。
江戸における幕府からの拝領屋敷地は2500坪。
なお幕末時点で城持ちの城主大名家が158家あり、無城大名家(陣屋敷のみ)が100家あります。この無城大名家の総石数が151万石なので1家平均1・5万石となります。
この様に1万5千石以下の大名は陣屋敷のみの大名が多く、1万石大名で城持ち大名家は松前城の松前家、美濃苗木城の遠山家の2家のみです。
(以上、コピペ)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …



家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか
  ↑
藩にもよりますが、無役、つまり何もしないで
遊んでいる武士が多かったとされています。
つまり、仕事が無いのです。

仕事がある人も、ほとんどが三日に一日
出勤とかする程度が多く、釣り三昧、という
家来も多くいました。

仕事は、藩という地方自治体の官僚と同じ
ような仕事です。
一部の幹部は忙しかったようです。

仕事に就かないと出世も出来ませんので
仕事を得る為の猟官活動が盛んでした。
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この回答へのお礼

有難うございました 私の住む(現在人口7000人)近くの山に1300年に一万石の神楽城が築城されました 30年後城主が代わり抱城となりました 約150人分+家族の米と備蓄米=一万石とすれば ほぼ我が町だけで賄えたと思えます またこの地には大きな川が3つあり魚が沢山のいました 武士の生活が少し見えたようにあります

お礼日時:2016/06/03 09:05

まあ江戸時代ぐらいでないと差が激しすぎるので、その辺だとして。


1万石というと、最小規模の大名になります。

狭山藩(現在の大阪狭山市辺り)とかがその規模ですね。
家臣(藩士)の数は、130名〜140名といったところのようです。
(地元に100名強、江戸屋敷に30名前後)

日々の暮らしは、役職によって大きく異なります。
江戸時代にはすでに戦は無くなっていましたので、
ほとんどの藩士は事務員でした。まあ、今の公務員と大差ありません。
基本は毎日登城し、仕事をして帰宅し、武芸の鍛錬をしたり、書を嗜んだりする。
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この回答へのお礼

有難うございました 一万石大名と生活を調べていました。参考になりました

お礼日時:2016/06/03 09:21

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Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Q1万石はいくらですか。

1万石はいくらですか。
今のお金でお願いします!!

Aベストアンサー

江戸時代の大名の収入としてなら、
白米小売価格でなく玄米卸価格のほうが妥当でしょう。

http://www.japan-rice.com/market-price-transition-21.html

2009年度玄米60kgで15,000円弱といったところ。
仮に60kg15,000円として、1kg当たり250円。
1石150kgとして1石当たり37,500円。
1万石だから3億7500万円。

余談を少し。
概算ですが、四公六民として藩の取り分は1億5千万円。
そのうち半分が藩士の俸給で費やされるとして、
領主の取り分は1万石当たり7500万円。
米沢上杉家のように石高に比して藩士が多いと
領主の収入は更に減ることになります。
米沢上杉家における上杉鷹山の出現は
ある意味必然的だったのでしょうね。

Q1万石??

江戸時代,将軍から1万石以上の領地を与えられたものを大名と呼んでいますが、
「1万石は,現在の貨幣価値にして,どのくらい」なんでしょうか。

Aベストアンサー

以下は一応の目安として考えてください。米一石は150kgですから、1kgの米の値段を500円とすれば一石で7万5千円となります。つまり、単純に一万倍すれば7億5千万円の年収ということになります。

しかしながらいろいろな要因が考えられますのでこれで決まりという訳にはいきません。と、いうのは大名の手に入るのは五公五民としてその半額ですから実収入は3億7500万円とも考えられますし、米相場は上下しますから、米の価値をもっと高く見ることも可能です。さらに、他のものの物価との比較も考えなくてはなりませんし、江戸時代の中でも初期の寛永のころと中期の寛政、末期の安政とでは物価も経済規模も違いますから一概には言えなくなるわけです。

そういうことを全てひっくるめての概算として私は分かり易いというう理由から上の数値を使っています。

Q100万石は今で言うとどのくらいすごい?

戦国武将が100万石の領土を持っているのって
今でいうと、どのくらいの資産・土地を持ってるくらいすごいのでしょうか?

100億円持ってるぐらいすごいですか?
100戸の家を持ってるぐらいすごいですか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資産の額との比較は出来ません。
1石を年間一人の生活費と考えれば、100万石は100万人の生活費相当ということになります。
 
領土全体の総生産高ですから、住民の生活費も、戦国武将の家臣や家臣の家族の生活費も、この中で賄います。戦国時代の武将ならば、築城費、河川改修費、干拓や開墾費、武器弾薬の購入費もこの中から出します。
 
なお、現在のように戸籍制度や帳簿制度、通貨制度がはっきりしていて、集計をする人が同じ方法で集計しているのではないですから、石高1万石と公表されている地域が10箇所あれば、10箇所が全部違う実態で、7000石~16000石程度にはばらばらだったでしょう。
また、天候などにも生産高は大きく左右され、戦争があれば農地も荒れたり、兵隊や労役にかり出されたりしたでしょうから、いつも同じ生産があるとは言えないと思います。 

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資...続きを読む

Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q直参と陪臣について

将軍家直属の家臣を直参、大名の家臣を将軍から見て陪臣というと思うのですが、
御三家や御三卿の家臣の場合は直参と陪臣どちらになるのでしょうか?

あと、おまけ(?)にもう一つ。
水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか?
暮らしぶりなど、なんでもいいので教えて下さると嬉しいです。

どちらか一方だけでも結構ですので、回答のほどよろしくお願いします。

Aベストアンサー

直参はあくまでも「将軍直属の家臣」ですので、御三家でも御三卿でも家臣は「陪臣」です。
それらの家の当主は将軍の身内ではあっても、将軍ではありませんから。


>水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか?

かなり上ですよ。
まず、直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。
一口に侍と言っても、現在のサラリーマンのように給料(当時は米)を貰う「蔵米取り」と、領地を与えられる「知行取り」の2種類に分かれ、当然、領地を与えられる後者の「知行取り」の方が格上。
領地を与えられる「知行取り」を現在で言えば、会社の一つの営業所なり支店をまかされてその売り上げを全部お前の好きにして良いってことになります。(但し、売り上げが悪かったら収入は減りますが)
でっ、この「知行取り」は500石からなのですよ。

小藩なら500石は家老クラス。
水戸藩には家老が17,8人いて、一番禄が低い家老が800石。
水戸藩で500石以上の禄を貰っていたのは、家臣全体の中の上位15%前後(30人前後)に過ぎなかったはずです。
ただこの家臣全体と言っても記録に残っている、あるランク以上の家臣であり、下っ端の記録にも残らないような家臣もいますから、比率の少なさはもっと上がるかもしれません。

直参はあくまでも「将軍直属の家臣」ですので、御三家でも御三卿でも家臣は「陪臣」です。
それらの家の当主は将軍の身内ではあっても、将軍ではありませんから。


>水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか?

かなり上ですよ。
まず、直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。
一口に侍と言っても、現在のサラリーマンのように給料(当時は米)を貰う「蔵米取り」と、領地を与えられる「知行取り」の2種類に分かれ、当然、領地を与え...続きを読む

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む


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