忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。


どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。
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#10 の最初のところに補足&突っ込み:


旗本は基本的に常府で, 吉良上野介も当然「ず~っと江戸にいた」ということになります. つまり領地に足を入れたことはなかったはずで, そういう意味では「領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんどなかったはず」というのはその通り. ただ, だからといって「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」といっちゃうのはどうかなぁ. そういってしまうと水戸藩藩主も同じように「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」になっちゃうんだよね.... ちなみに「大名ではないので、藩を統治していたわけじゃありません」というのはじっと考えると意味不明だったりします.

ああそうそう, 「お話」レベルでよければ, 「吉良上野介が浅野内匠頭に『塩の作り方』を聞こうとしたが断わられて~」というのもありますね.
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吉良さんは領地では名君だったという説が一般的ですが、


そもそも吉良さんは大名ではないので、藩を統治していた
わけじゃありません。昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな
関係で、領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんど
なかったはずです。
善悪というもののとらえかたを現代人の感覚ですると誤った
見かたになると思います。この時代、賄賂というのは今よりも
遥かに当たり前の習慣だったはずですし、幕府で(政治的に)
影響力なんてなかった吉良さんがそれほどの賄賂にありつけたとは
思えません。むしろ旗本の吉良さんからすれば大大名の伊達さんや
浅野さんにお小遣い程度の賄賂をせびるのはそれほどひどいこと
ではなかったと考えられます。
賄賂を要求のくだりは実は暗に当時の最高権力者柳沢吉保を
批判したものという説があります。
映画などでよく出てくる吉良さんによる浅野さんへのイジメは
ほとんど創作と言われていますし、そもそも浅野さんは
勅旨接待をするのは2回目だし、直接の采配は江戸で採用された
家臣たちがしたはずなので、あからさまな邪魔はできなかったでしょう。
まだ若手の大名である浅野さんから見れば年寄りの旗本である
吉良さんのことを見下していた可能性があるし、その目下の旗本から
嫌味や小言を言われれば武士の面目が!と怒った可能性もあります。
大名なんてお坊ちゃん育ちですから短気でしょうし、浅野長矩は
神経症的な症状があったという説もあります。まぁカーとなっちゃったんでしょう。
どちらが理不尽なのかは分からないし、分かったとしても現代人の感覚では
理解できないでしょう。ただ第3者が「遺恨あり」と聞いたんだから、
大名の浅野さんをめちゃくちゃ怒らせてしまう何かを吉良さんは
やっちゃったんだでしょう。なお浅野長矩は江戸生まれですんで
「田舎大名」じゃない、そのことは吉良さんも分かってますんで
「田舎大名」と罵ったというのも創作でしょうね。
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ふっ。


善人は斬られたり斬り殺されたりしませんよ! つ^_^)つ

いちいち覚えていないとシラを切る。

ぜってー身に覚えあんだよこいつ!!
当時だからそれで済んでるだーけっ!
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 「忠臣蔵」はあくまでも「勧善懲悪」を主題とした物語です。

彼がヒントを得た事件、所謂江戸城内での刃傷沙汰事件はあったものの、それをどの様に評価するかはさして意味のないことに属します。
 この作品は創作段階で直接的な表現を避けています。例えば「大石由良助」が物語では「大星由良助」となっています。これは事実をそのまま作品として上演した場合に「幕府に対する批判」として上演禁止になることを恐れたからとされています。
 少なくとも物語で討たれた吉良上野介は領民にとって「評判の悪い殿様」ではありません。また職掌として「古今伝授」を司ることで何らの落ち度はなかったといえます。拍手喝采を浴びる者だけがヒーローであるとは限りません。
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地元の愛知県吉良町で300年を経た今でも名君として、


尊敬されてますよ。

御存知の事とは思いますが、忠臣蔵は寛永(1748年頃)に作られた
人形浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵が元に、なっていて、人形浄瑠璃、歌舞伎
浪曲、講談、落語などで演じられ、今に伝わってます。
人形浄瑠璃や歌舞伎で善と悪をハッキリと分けた方が解りやすく、
観衆にも受けるので、そのような脚色します、浪曲と落語は更に
人情が加わります。

現実の赤穂浪士は失敗は許されないのですから、用意周到で準備
し作戦を立てて、目的達成の為有りとあらゆる手段を用いたと、
思いますよ。
秘密行動ですから証拠になるような物はほとんど残っていず、
真実は解らないのです。

生類憐れみの令は当然、人間も対象ですから犯罪者とは云えども
取調べを行った上で判決を下しています、彼らは元々武士ですので
幕府が取り調べをしています。
残った家族、親戚縁者、援助した人に類が及ぶので討ち入り当夜の
事以外は詳しくは話さなかったと、私は推測します。
現在の我々に伝わっているのは、それらの記録から推測、推定された
物で参考程度にすればよい代物かと・・・

日本国が有る限り未来永劫に渡って伝わる物語ですね。
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まず、この話は定説がなく誰にも解答できません。


事件の真実は解明されていなく、だから小説家が自由に物語を書くことができて、人それぞれいろんな解釈ができるのです。

1.そんな事実はありません。領地では名君との言い伝えがあり、吉良では忠臣蔵の上演上映は不可能だったようです。
赤穂市が仲直りしようと、姉妹都市の申し入れをして断られたとか、そんなB級ニュースもあったような気がします。
2.浅野が失敗したら、それは吉良上野介の責任になります。浅野が重大な失敗をしたら吉良も連帯責任を免れません。
3.幕府にそんなことをする必要はありません。
4.それは 「小説」 を 「脚色」 したテレビドラマです。

小説と歴史を混同して、吉川英治の宮本武蔵を真実だと思ったり、山岡荘八の徳川家康に描かれた家康を実像だと思い込んだりした人は、昔からいました。
今は大河ドラマで歴史を勉強する人も出てきました。
小説は全部の作品が史実とは関係ありません。 吉村昭はかなり歴史資料を調査して書いたと言われます。 司馬遼太郎は歴史研究も緻密だったように言われていますが、使った資料の質が悪く、いい加減なところがあると指摘され始めています。
テレビドラマをみて、それが歴史と関係があると思うことがおかしいのです。
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本来は悪人ではないと思います。


忠臣蔵の演劇は討ち入りして間もなく出来たそうです。
世の中の娯楽の為に悪人に仕立てられたものと思われます。
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まず, 饗応役という意味では吉良上野介が責任者で, その下で浅野内匠頭らが働くという指示体系になっていました. ということで, 「(高家肝煎でもある) 吉良が浅野にいろいろ指図をする」という構図です. で, 当時はそのように指導を受けたらそれなりの付け届けをするのが「常識」でした.



ところが, 浅野は 2度目の饗応役なので, 「どうすればいいか」は知っているわけです. そのため「ケチ」な浅野が付け届けをしなかった, ようです (「本当に知らないこと」を教えてもらった場合にはしているようなので, 「もう知ってるから別に教えてもらわなくてもいいし~」って感じでしょうか).

で, 「吉良が邪魔をした」ということはあったかもしれませんが, 「浅野が失敗しない程度の陰険な邪魔」ということになります. 少なくとも, 吉良にとって「浅野に失敗させる」必然性は全くありません.

もっとも, 吉良の評判がよくないというのもまあ事実でしょう. 「武家」のくせに武芸はからっきしだし. また, 「赤穂藩士への聞き取り調査」はなされていないはずです. この事件は下手すると幕府の存続に影響しうる (事件が起きたのは, ちょうど朝廷使者が帰る日です) ためバッサリ処分しています.

とはいえこの事件の真相はもう「闇の中」でしかありません.
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歌舞伎の演目として大ヒットした話ですからいろいろな脚色があります。


諸説ありますが一番有力なのは吉良が悪人だったのではなく浅野がヒステリーだったという説です。
自己中でキレやすい性質だったのが災いしたようです。
一番迷惑したのはそんな主君を持った家臣たちです。
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Q赤穂浪士の吉良邸襲撃の成功の要因は?

赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入って、吉良殺害を成し遂げました。
吉良家は死者16人、負傷者23人に対して赤穂浪士は数人の負傷ですみました。
この圧倒的な差の要因は何でしょうか?
赤穂浪士は甲冑を着て戦っていたのでしょうか?
あるいは吉良家には戦える武士が少なかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

物理的に検証しますと、
1.浪士側は鎖帷子を着込み防御武装していた。  この防御武装では刀では斬れず打撲傷を与える位です。
一方吉良側は寝込みを襲われ寝間着のママの防戦でした。
2.浪士側は暖かい食事、酒で暖をとり十分な準備をしていました。
吉良側は寝起きから寒い寒気に曝され、しかも裸足が多かったといいます。  ある実験では雪中裸足でいると、感覚が麻痺し適格な判断能力や運動能力を欠くようになるという結果が出ています。
3.浪士側は吉良側の長屋の雨戸をくさびで開けられぬようにし、屋外で多数の人数が居るように見せかけのかけ声を交わし、弓を雨戸に射て飛び道具があるように擬装して吉良側の戦意をくじく工夫をした。
吉良側は雨戸が開かず、戸外に出る事ができず、(当時の長屋の雨戸は一カ所でも動かないと開けられない構造でした) 多数の敵がいると錯覚した。
4.浪士側は敵1人に対し2~3人が組になって戦うことにしていた。

このように準備が万全な浪士側に対し統制のある抵抗はできなかった事が吉良側の敗因でした。

Q浅野内匠頭と吉良上野介の上下関係

内匠頭は江戸城の調度品担当長官、上野介は群馬県
担当副長官と考えます。殿中刃傷事件の要因として、
群馬の副長官の内匠頭に対する"いじめ"が挙げられる
はずです。上野介と内匠頭はそんな関係なのですか?
逆はありえないのですか?

ご教授の程よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なぜ刃傷を起こしたかはさておき、上下関係のみ回答します。
上下関係でいうと吉良は浅野より3ランク上位です。
断っておくと、官職は時代で意味合いが異なってきます。他の回答をみますとある時代ではそのとおりだが、他の時代では異なることもあります。

 江戸時代に限りますと、官職には2つの意味があり通称として用いる官職と序列を示す官職があります。さらに位階というものがあります。内匠頭と上野介は通称として用いる官職です。序列を示す官職は
・諸太夫(位階が従五位下で序列を示す官職なしのこと)
・四品(位階が従位四下で序列を示す官職なしのこと)
・侍従 (官職名)
・少将(官職名、正式には左近衛権少将)
とです。侍従以上になるとさらに位階で細かく序列が定められ、同じ少将でも従四位下、従四位上と細分化されてます。
それで、浅野は通称としての官職は内匠頭、序列としての官職はなしで、位階は従五位下です。一方、吉良は通称としての官職は上野介、序列としての官職は少将で、位階は従四位上です。よって吉良は浅野より3つ上、従四位下少将・従四位上少将を区別すると4つ上です。

 江戸時代までは長距、義央という下の名は忌み名といい、文字通り使用するのを避けていました。代わって名乗りためにもちられたのが内匠頭と上野介という官位名です。これは建前上、朝廷から任命されるものですが、通常は自己申告すれば、ほぼ申告どおり任命されます。もちろん本来の官職の職務とはなんのかかわりもありません。単なる呼び名です。

勅使饗応役うんぬんについては他の回答があり、私よりも詳しいので私からの回答はしません。

なぜ刃傷を起こしたかはさておき、上下関係のみ回答します。
上下関係でいうと吉良は浅野より3ランク上位です。
断っておくと、官職は時代で意味合いが異なってきます。他の回答をみますとある時代ではそのとおりだが、他の時代では異なることもあります。

 江戸時代に限りますと、官職には2つの意味があり通称として用いる官職と序列を示す官職があります。さらに位階というものがあります。内匠頭と上野介は通称として用いる官職です。序列を示す官職は
・諸太夫(位階が従五位下で序列を示す官職なし...続きを読む

Q吉良上野介の義理の息子・吉良左兵衛義周について。

赤穂浪士討入後、信州諏訪の高島藩のお預かりになった
吉良上野介の義理の息子(実際には孫だそうですが)
吉良左兵衛義周についての詳しいお話または資料を教えて下さい。
No.212488の質問にも同様のものがありますが、
更に詳しいお話をお聞きしたいので、
書き込みさせて頂きました。
ちなみに私が今まで集めた資料は、
『吉良の言い分・外伝』
『吉良さま御味方』
『上野介の忠臣蔵』
です。
亡くなった年齢や墓地のあるお寺等はわかったのですが、
高島藩での義周への対応等について
詳しく知りたいです。
(『吉良さま御味方』には高島藩の対応は悪かったと、
『吉良の言い分・外伝』には悪くはなかったと書いてあるのですが…)

Aベストアンサー

下記のHPに吉良義周受け入れ時の高島藩の対応が古文書で示されています。それによりますと、吉良家の当主らしく丁寧に扱われています。当時、城主格の人物が流罪になるときには、将来、再興されることがありますで、あまりおかしな真似はできません。同じ綱吉の治世、高田藩、松平光長・綱国父子が松山や福山に流されましたが後、津山10万石として再興されました。

参考URL:http://www.city.suwa.nagano.jp/scm/kikaku/kira/index.htm

Q吉良上野介ご先祖のお墓

東京は万昌院功運寺に吉良家のお墓があるようですけれども、上野介(義央)の父=義冬、その上の義弥、義定のお墓が並んでいるようです。義央の戒名、並びにお墓に書いてある日付、名前は調べられたのですが、彼のご先祖様方々の戒名が分かりません。それぞれ、要山、法山、興山であるらしいことは wiki で分かりましたが、2文字だけの戒名でしょうか、、、?最低、フルで義冬の戒名が知りたいですが、もちろん義弥、義定の戒名も分かれば大変助かります。どなたかご存知でしたら教えて下さい。

Aベストアンサー

『断家譜 第三/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』
(88~90頁)によれば、下記のとおりですが如何でしょうか?

◇義定…寛永四年丁卯九月十五日没、年六十四、葬市谷万昌院、
法名「長松寺興山中公」

◇義彌…寛永二十年十月二十四日於京洛而卒、年五十八、
法名「華蔵寺法山猷公」
(「猷」の文字表記は、偏側の上部<八>+下部<酉>で旁側<犬>)

◇義冬…寛文八年戊申三月二十五日卒、年六十三、葬牛込万昌院、
法名「大雄寺要山玄公」

◇義央…元禄十五年壬午十二月十五日為浅野内匠頭家士等被討畢、
年六十二、葬牛込万昌院、
法名「霊性寺実山相公」


◆GoogleBooks『断家譜 第3/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』
http://books.google.co.jp/books?id=ooghXCt8gfQC&pg=RA4-PA47&lpg=RA4-PA47&dq=%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%9A&source=bl&ots=89h3YWSPsy&sig=2rvKJYiAwoOlKjF8XWbWP90d1JM&hl=ja&ei=SKaeTeCSNYKOvQPh8tySBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CDAQ6AEwAg#v=onepage&q&f=false

『断家譜 第三/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』
(88~90頁)によれば、下記のとおりですが如何でしょうか?

◇義定…寛永四年丁卯九月十五日没、年六十四、葬市谷万昌院、
法名「長松寺興山中公」

◇義彌…寛永二十年十月二十四日於京洛而卒、年五十八、
法名「華蔵寺法山猷公」
(「猷」の文字表記は、偏側の上部<八>+下部<酉>で旁側<犬>)

◇義冬…寛文八年戊申三月二十五日卒、年六十三、葬牛込万昌院、
法名「大雄寺要山玄公」

◇義央…元禄十五年壬午十二月十五日為浅野内匠頭家士等被討畢、
年...続きを読む

Q吉良が浅野をいじめた証拠は?(赤穂浪士)

元禄14年2月4日:吉良義央と浅野長矩が勅使饗応役を拝命
2月29日:京都から吉良が戻る
3月12日:勅使・院使が登城し、聖旨・院旨を将軍に下賜する儀式
3月13日:将軍主催の能の催しに勅使・院使を招く
3月14日:吉良が旗本と儀式の打ち合わせ中、浅野が切りつける

刃傷の原因ははっきりしないようですが、
両者の間にトラブルがあっとすれば2週間の間のことです。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
(2)従って、元禄14年(1701)の時も、従前にならって準備を進めたと考えられます。
(3)しかし、この年は、5代将軍綱吉の母桂昌院(お玉の方)へ従一位が贈呈されると思われた年で、将軍綱吉も「そそうの無きように」とのお声があった、とも言われています。そして、吉良上野介が京都から帰って(あなたのおおせの通り、2月29日)から、院使清閑寺熈定の一行が3月10日に品川宿に着いたことを受けて、浅野氏も同日、伝奏屋敷に入りました。だが、この年の饗応には「特別な意味合い」がありましたので、2月29日から3月10日の間に吉良氏から「数々の変更」を指摘され、予算を大幅に超える事態となった、と言われています。
(4)だが、この事が「直接の原因」として、後の歌舞伎などでは取り上げられていますが、史実は「全くの不明」です。
(5)一説には、(吉良側の史料では)、
<1>吉良の拝領地三河国幡豆郡(その他にも、上野国緑野郡、碓氷郡を拝領)で「塩田開発」を真似ようとしたが、教えてもらえなかった。
<2>元禄3年(1691)12月23日に浅野は本所周辺の「火消し大名」に任命されたが、元禄11年(1698)9月6日に起きた火災での際、鍛冶橋にあった吉良邸を全焼させてしまい、吉良は浅野を嫌っており、対立が深まった。
<3>浅野家の小姓を吉良が所望したが断られた。
<4>高家肝煎の吉良に、教えを請うのに、浅野家江戸家老安井彦右衛門や藤井又左衛門らの「付け届け」をしたほうが良い、との忠告に従わず、「授業料」を払わなかった。
こうして、二人の間に対立関係が生じた。
などとも言われていますが、いずれも「確たる証拠」は残っていません。と、言うよりも見つかっていません。
なぜならば、ご存知のように、浅野内匠頭は、ただちに、奏者番田村右京太夫(陸奥一関藩主)の屋敷にお預けとなり、即日、切腹。となりましたので、浅野がどのような「遺恨」であったかが、書き残されていないためです。
(6)後世に幾つもの「推量」で書かれた本などもありますが、
例えば、
前回にならって、畳の表替えだけで良かったものが、吉良の指図で、急遽、畳全部を取り替えるよう、前日になって言われた。
とか、勅使の好みが違うので、食材を全部調達しなおした・・・。
などと、誠しやかに書かれていますが、全くの「闇」の部分です。
(7)ただ、>>3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。<< については、江戸詰家老や江戸詰藩士たちは、実際に「困らせられる」ようなことがあったとは思いますが、江戸詰家老たちは「討ち入り」に参加をしなかったため、日記などがあったとしても、一躍、浅野内匠頭が「時の英雄」となったため「闇から闇へと」葬られた可能性が高いと考えます。
また、江戸詰藩士の中でも最長老の堀部金丸(弥兵衛)などの日記も残ってはいるようですが、一切、「いじめ」に関しての記述は見当たらないそうです。

(よもやま話)
(1)「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」、江戸時代中期の元禄時代に書かれたと思われる、当時の各藩の藩主や政治状況を解説した本。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的も未だ不明で、「謎の史料」とも言われる。
によると、
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
浅野内匠頭について、以上のような記述がされており、
「知恵」や「公正さ」があって、武士も民も豊かだった。しかし、いかんせん、「女好き」であった。そして、数え歳17歳で赤穂藩主となったため、また、筆頭家老の大石内蔵助にしても、若干25歳であったため、一番年長の大石頼母助(内蔵助の大叔父で、浅野家とも親戚)や末席家老の大野九郎兵衛知房などに政務を任せたことが書かれています。
しかし、「女好き」にもかかわらず、子息子女はできず、弟大学を養子にしています。
ただ、「土芥寇讎記」は、刃傷事件の約10年前位に書かれたものだと言われ、浅野びいきで書いたものではないことは確からしいのですが・・・。
(2)井沢元彦氏の著書「逆説の日本史・忠臣蔵はデタラメだらけ」という本によると、
<1>刃傷は「松の廊下」ではなく、白書院(公式行事用の部屋ではあるが大広間よりも少し内輪の儀式用)で、吉良が老中などとの打ち合わせを終えて出てきたところを浅野が切りつけた。従って、「松の廊下」ではなく「白書院」の前の廊下が正しい・・・と、力説しています。

しかし、「梶川氏日記」を詳細に調べた結果、(口語訳ですが)、
「御白書院(桜間)の方より、吉良殿が御白書院よりやってこられました。・・・(中略)・・・私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もあるところで、吉良殿と出会い、互いに立ったままで、私が、今日、お使いの私の時間が早くなりました。と一言二言話したところ、突然、浅野殿が・・・」
と、あり、となると、現場は「松の廊下」だ、と、中央義士会の中島康夫会長も是認しています。

この「梶川日記」は、梶川与惣兵衛の残した日記で、梶川は、いわば、饗応役の使い走りで、まず、浅野と打ち合わせをして、次に、老中との打ち合わせが終わった吉良と相談すべく、浅野の数歩先を歩いていましたが、浅野が刃傷に及んだ時、あの有名な「浅野殿、殿中でござる。殿中でごさる」と叫んで、浅野の背後から止めた人物で、その後、この褒美として、500石を加増されています。

<2>井沢氏は、「松の廊下」には、良くTVなどで見るような「大きな松」が描かれてはおらず、実際は、「松原の様子」を描いたもので、海と砂浜、松、千鳥がバランスよく描かれたものである。とも言っています。これには、1988年に東京国立博物館で江戸城本丸御殿の障壁画下絵が発見されたからだ・・・とも書いていますが、

要は、「松」が大きかろうと、小さかろうと、「松の廊下」と呼んでいたには違いないのだから・・・と、「史家」や「学者」は反論しています。

まあ、まだまだ、真実は否かは別として、「面白い話」もありますが、長くなりましたので、この辺で・・・。

少しでも、あなたのお役に立てばと、思います。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
(2...続きを読む

Q吉良上野介について

映画や小説では吉良さんは険悪な意地悪爺さんに描かれていますが、
実際はどのような人物だったのでしょうか?
それでもって最後は赤穂浪士に叩き斬られてしまうのは
なんだか可哀想に思うのですが・・・

Aベストアンサー

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りですが、元々はご存じのとおり浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのが原因です。ところがね、なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に襲いかかったのか、これが永遠の謎なんです。斬りかかったときに「覚えておろう!」みたいなことを言ったらしいんですが、それが何の話かどうもわからんのです。
聞いたことがあるかもしれないのですが、浅野内匠頭って人は以前からエキセントリックなところがあったようで、どうもその、接待役という大役のプレッシャーで精神的におかしくなったんじゃないかってのが今最も有力な説となっています。

なにしろ、浅野内匠頭はその日にロクな取り調べもないまま切腹させられました。で、本来であれば「喧嘩両成敗」なので浅野内匠頭が切腹させられるなら吉良上野介も何らかの処罰があるべきなのにそれが全くなかったのですね。おそらく、関係者の間じゃ当時「浅野さん、狂っちゃったからね」ってのが暗黙の了解だったんじゃないかって思うんですが、武士の対面からするとこれは「片手落ち」なんです。
「武士道は、死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、武士っつーのは体面が全てなんですね。だから、体面が持たないのです。これは当時の武士じゃないとピンとこないところだと思います。

ですので実は吉良上野介は赤穂浪士に斬られたわけではないのです。いや実際に殺しているのは彼らなんですが、赤穂浪士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓の前に持って行って「どうぞ、無念をお晴らしください」といい、当たり前ですが何も起きないので「では代わりに失礼させていただきます」といって小刀でえい、えいと斬ったふりをするという「儀式」をやりました。
実は赤穂浪士の最終目的はこの「儀式」にあり、これができなければ全てが「ムダ」なんです。だから赤穂浪士が最も恐れたのは吉良上野介の首が奪回されることだったんです。上野介の息子が上杉藩の藩主になっていて、吉良邸と泉岳寺の間で上杉邸の近所を通らなきゃならなかったんです。もし息子が首奪回のために兵を出したら、上杉藩といえば謙信公以来非常に精強なことで有名ですから奪回されてしまう可能性が高い。ですので実は上野介の首はひそかに船で運ばれたという説もあります。

赤穂浪士は私怨で討ち入ったわけではないのです。「主君の無念を晴らすために復讐を代行した」のであり、それは当時の考え方としては「実に正しい」ことだったのです。

ああ、話が思いっきりそれてしまいました。なぜ上野介が意地悪爺さんと描かれるのかというと、もし上野介が名君ということになると赤穂浪士の正義が説得力がなくなってしまうからです。
お芝居なんかを見ると分かりますよ。たまにすごい凝ったストーリーにしているものがありますけど、途中で「あれ、こいつ悪い奴だっけ?それとも主人公の味方の奴だっけ?」と分からなくなっちゃうのです。映画でも芝居でも、名作といわれる作品て比較的ストーリーは単純なんですよ。

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りで...続きを読む

Q吉良上野介は悪人でしたか?

忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しス...続きを読む

Q吉良上野介は

忠臣蔵で悪役となってますが地元・愛知では名君としての評価を受け、逆に浅野内匠頭は短気で世間の疎い殿様という一説がありますが地元愛知や赤穂の人たちの評価はどんなものでしょうか、またそのあたりに詳しい人、赤穂浪士は脚色されたものなのか、それとも事実に忠実に基づいたものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元の評判ですが、土木工事を積極的行なう等々、評判は非常に良く名君といわれていたようです。
今でも地元の人は上野介のことは悪く言わないようです。
逆に浅野内匠頭はさほど評判が良い人ではなかったようです。

この二人が何故あのような事件を起こすことになったのか?
原因として塩の製法を教えなかったためだとか、浅野の奥方に対して吉良が横恋慕しただとか様々言われていますが、実際にはこの原因さえもはっきりしたことが解っていないのが現実です。

後世の我々は事実を元にした創作物語である「仮名手本忠臣蔵」があまりにも有名だったために、この中の話があたかも全て史実であるかのように思い込んでいる状態です。
しかしながら、「仮名手本忠臣蔵」は当時の徳川幕府に対して正面から批判的な物語を上演することが不可能であった為に、時代設定を徳川時代よりずっと前の足利時代としてさらに登場人物も例えば大石内蔵助⇒「大星由良助」として全く違う名前で上演されています。
しかもこの「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として最初に上演されたのは実際の討ち入り事件から約50年後のことであり、下手をするとお上から上演中止になってしまう状況でしたので、物語としては非常に面白くできているのですが、反面史実としてどうなのかとなるとかなりの部分が脚色されていると判断されます。

現代の歴史小説でも宮本武蔵には「お通」という女性が必ず登場しますが、史実としては武蔵の回りにこのような女性の存在は無かったといわれており、「お通」は作家である吉川栄治の創作だということは有名ですね。
作家は単に史実を記録するだけでは小説としては全く面白く無いものになってしまう為に史実を元にある程度フィクションを混ぜていくものです。
ましてや幕府にお咎めを受けずに上演するために忠臣蔵の話は細心の注意を払って完成したもののようですので、今更事実がどうだといわれても誰にも本当のことは解らないですね。

将来的には水戸黄門が助さん・格さんをお供にして日本全国を漫遊していたという話も一般に信じられるようになっているかもしれないですね。

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元...続きを読む

Q忠臣蔵・赤穂浪士・吉良について

忠臣蔵といえば映画にもなっているし、いろいろな言い伝えなどもあると思うんですが、どっちかといと吉良の方を悪く?書いているほうが多いですよね。それ前提として思うのですが、赤穂浪士の土地兵庫県赤穂市の方と吉良の土地愛知県吉良町の方は仲とかは悪いのでしょうか?もう昔の事だろうし大げさかもしれないですが、少しは現代にも何かしら尾を引いているのいでしょうか?また、やはり赤穂市と吉良町では忠臣蔵の伝わり方(内容)などは違うのでしょうか?

Aベストアンサー

事件の真相は一先ずおいといて・・・

最近は確かに交流の行事はありますが、赤穂ではやはり吉良への反感は根強く、吉良のことを良く言う方はほとんどいません。
吉良は強欲爺、浅野さんは可愛そうな殿様という昔ながらのイメージが今も息づいています。赤穂義士は当然、郷土の誇りであり英雄です。

以前、赤穂城のすぐ近くに「四十七人の刺客」という映画で使われた吉良邸の表門のロケセットを持ってきて公開していたのですが、その時も市民から大変な反対がありました。映画のロケセットとはいえ、赤穂に吉良の屋敷など気が悪い!けしからん!!と。
しばらく観光客で賑わったようですが、結局そのセットはいつの間にか撤去されていました。

ちなみに討ち入りに参加せずに逐電したことで評判の悪い家老、大野九郎兵衛は悪役として千種川の土手の改修に関する民話にも登場してきます。(大野があまりに酷使するので人夫がみんな厠に行ってしまい、ゆっくりタバコを吸っていたので奉行が交代させられた・・・というような話だったように記憶しています)

Q吉良上野介屋敷を本所に移転させたのは。

松の廊下刃傷事件後、幕府は吉良上野介の屋敷替えを命じていますが、これは討ち入りしやすいように幕府が配慮したものだ、という説があるそうです。
Wikiにも 「この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力になってきた。理由のひとつは表門の移設である」 と、それらしき記述があります。

この説の根拠を教えてください。
また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。
こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。

よろしくお願いします。

吉良上野介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

Aベストアンサー

>この説の根拠を教えてください。
元々喧嘩両成敗という基本政策に反した将軍の短慮により処罰だということが早くから問題視されていました。
当時は、江戸町奉行の支配は隅田川の西側まででした。
本所は代官支配地という管理でした。
万が一何かが起きたときには、代官が一人腹を切れば済みますが、江戸町奉行の管轄地域内ということになると責任関係者が多数となり大事になります。
この辺を考えて推定すると、幕府黙認と考えた方が妥当性が高いと言われています。
真偽のほどは実は正確に解っている訳ではありません。

>また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。
wikipediaの説明不足かと思います。
吉良邸のレイアウトを見ると屋敷の東側が正門の目と鼻の先です。
突入後ただちに屋敷内に踏み込むことができます。
吉良邸の周囲には、お長屋と呼ばれる居室と塀を兼ねた、逆に言うと居室の壁が塀の代わりとなる構造の建物が取り囲んでいます。
この居室に警護の武士が寝起きしていました。
正門の位置を変えさせられたために、警護の武士が正門に駆けつける為には時間が掛かってしまうレイアウトになってしまっていました。
討ち入り側の負傷者が少なかったのもこれが幸いしました。
狭い室内での乱闘には短期決戦であれば少人数側が有利です。

>この説の根拠を教えてください。
元々喧嘩両成敗という基本政策に反した将軍の短慮により処罰だということが早くから問題視されていました。
当時は、江戸町奉行の支配は隅田川の西側まででした。
本所は代官支配地という管理でした。
万が一何かが起きたときには、代官が一人腹を切れば済みますが、江戸町奉行の管轄地域内ということになると責任関係者が多数となり大事になります。
この辺を考えて推定すると、幕府黙認と考えた方が妥当性が高いと言われています。
真偽のほどは実は正確に解っている訳ではあり...続きを読む


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