忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。


どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。
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#10 の最初のところに補足&突っ込み:


旗本は基本的に常府で, 吉良上野介も当然「ず~っと江戸にいた」ということになります. つまり領地に足を入れたことはなかったはずで, そういう意味では「領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんどなかったはず」というのはその通り. ただ, だからといって「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」といっちゃうのはどうかなぁ. そういってしまうと水戸藩藩主も同じように「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」になっちゃうんだよね.... ちなみに「大名ではないので、藩を統治していたわけじゃありません」というのはじっと考えると意味不明だったりします.

ああそうそう, 「お話」レベルでよければ, 「吉良上野介が浅野内匠頭に『塩の作り方』を聞こうとしたが断わられて~」というのもありますね.
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吉良さんは領地では名君だったという説が一般的ですが、


そもそも吉良さんは大名ではないので、藩を統治していた
わけじゃありません。昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな
関係で、領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんど
なかったはずです。
善悪というもののとらえかたを現代人の感覚ですると誤った
見かたになると思います。この時代、賄賂というのは今よりも
遥かに当たり前の習慣だったはずですし、幕府で(政治的に)
影響力なんてなかった吉良さんがそれほどの賄賂にありつけたとは
思えません。むしろ旗本の吉良さんからすれば大大名の伊達さんや
浅野さんにお小遣い程度の賄賂をせびるのはそれほどひどいこと
ではなかったと考えられます。
賄賂を要求のくだりは実は暗に当時の最高権力者柳沢吉保を
批判したものという説があります。
映画などでよく出てくる吉良さんによる浅野さんへのイジメは
ほとんど創作と言われていますし、そもそも浅野さんは
勅旨接待をするのは2回目だし、直接の采配は江戸で採用された
家臣たちがしたはずなので、あからさまな邪魔はできなかったでしょう。
まだ若手の大名である浅野さんから見れば年寄りの旗本である
吉良さんのことを見下していた可能性があるし、その目下の旗本から
嫌味や小言を言われれば武士の面目が!と怒った可能性もあります。
大名なんてお坊ちゃん育ちですから短気でしょうし、浅野長矩は
神経症的な症状があったという説もあります。まぁカーとなっちゃったんでしょう。
どちらが理不尽なのかは分からないし、分かったとしても現代人の感覚では
理解できないでしょう。ただ第3者が「遺恨あり」と聞いたんだから、
大名の浅野さんをめちゃくちゃ怒らせてしまう何かを吉良さんは
やっちゃったんだでしょう。なお浅野長矩は江戸生まれですんで
「田舎大名」じゃない、そのことは吉良さんも分かってますんで
「田舎大名」と罵ったというのも創作でしょうね。
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ふっ。


善人は斬られたり斬り殺されたりしませんよ! つ^_^)つ

いちいち覚えていないとシラを切る。

ぜってー身に覚えあんだよこいつ!!
当時だからそれで済んでるだーけっ!
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 「忠臣蔵」はあくまでも「勧善懲悪」を主題とした物語です。

彼がヒントを得た事件、所謂江戸城内での刃傷沙汰事件はあったものの、それをどの様に評価するかはさして意味のないことに属します。
 この作品は創作段階で直接的な表現を避けています。例えば「大石由良助」が物語では「大星由良助」となっています。これは事実をそのまま作品として上演した場合に「幕府に対する批判」として上演禁止になることを恐れたからとされています。
 少なくとも物語で討たれた吉良上野介は領民にとって「評判の悪い殿様」ではありません。また職掌として「古今伝授」を司ることで何らの落ち度はなかったといえます。拍手喝采を浴びる者だけがヒーローであるとは限りません。
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地元の愛知県吉良町で300年を経た今でも名君として、


尊敬されてますよ。

御存知の事とは思いますが、忠臣蔵は寛永(1748年頃)に作られた
人形浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵が元に、なっていて、人形浄瑠璃、歌舞伎
浪曲、講談、落語などで演じられ、今に伝わってます。
人形浄瑠璃や歌舞伎で善と悪をハッキリと分けた方が解りやすく、
観衆にも受けるので、そのような脚色します、浪曲と落語は更に
人情が加わります。

現実の赤穂浪士は失敗は許されないのですから、用意周到で準備
し作戦を立てて、目的達成の為有りとあらゆる手段を用いたと、
思いますよ。
秘密行動ですから証拠になるような物はほとんど残っていず、
真実は解らないのです。

生類憐れみの令は当然、人間も対象ですから犯罪者とは云えども
取調べを行った上で判決を下しています、彼らは元々武士ですので
幕府が取り調べをしています。
残った家族、親戚縁者、援助した人に類が及ぶので討ち入り当夜の
事以外は詳しくは話さなかったと、私は推測します。
現在の我々に伝わっているのは、それらの記録から推測、推定された
物で参考程度にすればよい代物かと・・・

日本国が有る限り未来永劫に渡って伝わる物語ですね。
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まず、この話は定説がなく誰にも解答できません。


事件の真実は解明されていなく、だから小説家が自由に物語を書くことができて、人それぞれいろんな解釈ができるのです。

1.そんな事実はありません。領地では名君との言い伝えがあり、吉良では忠臣蔵の上演上映は不可能だったようです。
赤穂市が仲直りしようと、姉妹都市の申し入れをして断られたとか、そんなB級ニュースもあったような気がします。
2.浅野が失敗したら、それは吉良上野介の責任になります。浅野が重大な失敗をしたら吉良も連帯責任を免れません。
3.幕府にそんなことをする必要はありません。
4.それは 「小説」 を 「脚色」 したテレビドラマです。

小説と歴史を混同して、吉川英治の宮本武蔵を真実だと思ったり、山岡荘八の徳川家康に描かれた家康を実像だと思い込んだりした人は、昔からいました。
今は大河ドラマで歴史を勉強する人も出てきました。
小説は全部の作品が史実とは関係ありません。 吉村昭はかなり歴史資料を調査して書いたと言われます。 司馬遼太郎は歴史研究も緻密だったように言われていますが、使った資料の質が悪く、いい加減なところがあると指摘され始めています。
テレビドラマをみて、それが歴史と関係があると思うことがおかしいのです。
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本来は悪人ではないと思います。


忠臣蔵の演劇は討ち入りして間もなく出来たそうです。
世の中の娯楽の為に悪人に仕立てられたものと思われます。
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まず, 饗応役という意味では吉良上野介が責任者で, その下で浅野内匠頭らが働くという指示体系になっていました. ということで, 「(高家肝煎でもある) 吉良が浅野にいろいろ指図をする」という構図です. で, 当時はそのように指導を受けたらそれなりの付け届けをするのが「常識」でした.



ところが, 浅野は 2度目の饗応役なので, 「どうすればいいか」は知っているわけです. そのため「ケチ」な浅野が付け届けをしなかった, ようです (「本当に知らないこと」を教えてもらった場合にはしているようなので, 「もう知ってるから別に教えてもらわなくてもいいし~」って感じでしょうか).

で, 「吉良が邪魔をした」ということはあったかもしれませんが, 「浅野が失敗しない程度の陰険な邪魔」ということになります. 少なくとも, 吉良にとって「浅野に失敗させる」必然性は全くありません.

もっとも, 吉良の評判がよくないというのもまあ事実でしょう. 「武家」のくせに武芸はからっきしだし. また, 「赤穂藩士への聞き取り調査」はなされていないはずです. この事件は下手すると幕府の存続に影響しうる (事件が起きたのは, ちょうど朝廷使者が帰る日です) ためバッサリ処分しています.

とはいえこの事件の真相はもう「闇の中」でしかありません.
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歌舞伎の演目として大ヒットした話ですからいろいろな脚色があります。


諸説ありますが一番有力なのは吉良が悪人だったのではなく浅野がヒステリーだったという説です。
自己中でキレやすい性質だったのが災いしたようです。
一番迷惑したのはそんな主君を持った家臣たちです。
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4.吉良上野介は被害者。
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・翌15年12月に起きた大石内蔵助以下47名の浪士による“吉良邸討ち入り事件”

以上の二つの実際にあった事件を題材にして、世間の人に共感を呼びそうな内容で脚色し、人形浄瑠璃として作られた物語が“仮名手本忠臣蔵”です。
現在の我々が目にする時代劇としての忠臣蔵物は全てがこの“仮名手本忠臣蔵”を元にストーリーが考えられています。

実際にこの物語が完成し上演されたのは事件から47年後になってからのようですが、事件の起きた元禄時代は5代将軍綱吉の時代であり、“生類憐れみの令”等によって庶民はお上に対してかなりの反感を抱いていた時代です。

こうしたお上に対する反感は取り締まりの対象になりますから、陰でコソコソと愚痴を言い合うくらいしかできません。
そんな当時の時代背景からお上に反抗する目的でできたのが“仮名手本忠臣蔵”であるので、当然その内容は創作物語としながらお上への反発を表したものになっています。
こうしたお上への反抗心が当時の庶民の熱烈な指示を得て広まり、また、その後の社会では忠誠心といった概念を世間に植え付けるために逆に利用したのではないでしょうか?

1.浅野内匠頭は元々ノイローゼのような今で言う躁鬱病のようなタイプだったようです。
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3.吉良上野介は地元の灌漑開発を促進し名君と云われています。
4.吉良は被害者です。
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刀を抜いたということで浅野は切腹であり、刀を抜いていない吉良は無罪なのです。
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Q忠臣蔵の吉良は、殺されるほどの悪いことをしたのですか?

「忠臣蔵」は人気のあるドラマです。
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Aベストアンサー

義士伝(忠臣蔵)に興味を持っていただいてありがとう
年寄りの一人としてうれしくおもいます

>吉良は本当に悪いこと(違法なこと)をしたのでしょうか?

松の廊下の裁きでは吉良はお咎めなし
むしろ神妙であるとお褒めの言葉をもらったそうです。

一方 大石は幕府に嘆願書をだします
○武家諸法度(法律)により喧嘩両成敗にするべきだ
○相手は軽傷であるから罪がおもすぎる
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Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
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この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q吉良上野介は

忠臣蔵で悪役となってますが地元・愛知では名君としての評価を受け、逆に浅野内匠頭は短気で世間の疎い殿様という一説がありますが地元愛知や赤穂の人たちの評価はどんなものでしょうか、またそのあたりに詳しい人、赤穂浪士は脚色されたものなのか、それとも事実に忠実に基づいたものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元の評判ですが、土木工事を積極的行なう等々、評判は非常に良く名君といわれていたようです。
今でも地元の人は上野介のことは悪く言わないようです。
逆に浅野内匠頭はさほど評判が良い人ではなかったようです。

この二人が何故あのような事件を起こすことになったのか?
原因として塩の製法を教えなかったためだとか、浅野の奥方に対して吉良が横恋慕しただとか様々言われていますが、実際にはこの原因さえもはっきりしたことが解っていないのが現実です。

後世の我々は事実を元にした創作物語である「仮名手本忠臣蔵」があまりにも有名だったために、この中の話があたかも全て史実であるかのように思い込んでいる状態です。
しかしながら、「仮名手本忠臣蔵」は当時の徳川幕府に対して正面から批判的な物語を上演することが不可能であった為に、時代設定を徳川時代よりずっと前の足利時代としてさらに登場人物も例えば大石内蔵助⇒「大星由良助」として全く違う名前で上演されています。
しかもこの「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として最初に上演されたのは実際の討ち入り事件から約50年後のことであり、下手をするとお上から上演中止になってしまう状況でしたので、物語としては非常に面白くできているのですが、反面史実としてどうなのかとなるとかなりの部分が脚色されていると判断されます。

現代の歴史小説でも宮本武蔵には「お通」という女性が必ず登場しますが、史実としては武蔵の回りにこのような女性の存在は無かったといわれており、「お通」は作家である吉川栄治の創作だということは有名ですね。
作家は単に史実を記録するだけでは小説としては全く面白く無いものになってしまう為に史実を元にある程度フィクションを混ぜていくものです。
ましてや幕府にお咎めを受けずに上演するために忠臣蔵の話は細心の注意を払って完成したもののようですので、今更事実がどうだといわれても誰にも本当のことは解らないですね。

将来的には水戸黄門が助さん・格さんをお供にして日本全国を漫遊していたという話も一般に信じられるようになっているかもしれないですね。

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元...続きを読む

Qお米の相場が知りたいです

現在一人暮らしをしており、最近自炊を始めました。
先日スーパーにお米を買いに行ったところ確か5kg2千円くらいで
10kgが4千円くらいだっと記憶しています。
とりあえず5kgを買いました。
自分でお米を買ったのは今までそんなにないのですが、買うお店がいつも同じなんでお米の相場がどんなものなのかよくわかりません。
そこでお聞きしたいのですが、5kgと10kgそれぞれの値段でいくらくらいで買えればお得だと思いますか?
もちろんお米の種類もピンキリなんで価格差は出ると思いますので、平均値でお願いします。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

きょうはディスカウントスーパーで富山県産コシヒカリ無洗米5kgを1,980円で買いました。いつもよりちょっと高め。
いつもはスーパーの特売で10kg 3,000円未満になったものをよく買います。銘柄は千葉県産や茨城県産のコシヒカリか、あきたこまちが多いです。
新潟魚沼産コシヒカリは高すぎて買う気がしません。値段が2倍でも2倍おいしいわけではない(と思う)ので。


世間の標準はどんなものでしょう。

農林水産省の食料品消費モニター調査結果
http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/heya/moniter.htm

平成17年度第3回 「米の消費及び購入動向等について」 (平成18年3月調査)
 問5-3 最近購入した米の値段(10kg換算)
   2,500円未満 …………………  6%
   2,500円以上 3,000円未満 … 20%
   3,000円以上 3,500円未満 … 22%
   3,500円以上 4,000円未満 … 21%
   4,000円以上 4,500円未満 … 12%
   4,500円以上 5,000円未満 …  7%
   5,000円以上 5,500円未満 …  5%
   5,500円以上 6,000円未満 …  3%
   6,000円以上 …………………  2%

年代別、地域別の詳細なデータは、Excelの集計表に載っています。

きょうはディスカウントスーパーで富山県産コシヒカリ無洗米5kgを1,980円で買いました。いつもよりちょっと高め。
いつもはスーパーの特売で10kg 3,000円未満になったものをよく買います。銘柄は千葉県産や茨城県産のコシヒカリか、あきたこまちが多いです。
新潟魚沼産コシヒカリは高すぎて買う気がしません。値段が2倍でも2倍おいしいわけではない(と思う)ので。


世間の標準はどんなものでしょう。

農林水産省の食料品消費モニター調査結果
http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/heya/moniter.htm...続きを読む

Q信長・秀吉・家康のホトトギス

上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

作者不明だそうです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/think/zakki_08.htm


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