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江戸時代の大名や旗本の領地にはしばしば飛び地があります。
内陸の藩が最寄の海沿いに飛び地を持つのは運輸・交通のためでしょうが、中にはずい分遠くに飛び地があることもあります。
私の住む岡山県内には古河藩(現・茨城県内)、挙母藩(愛知県内)、亀山藩(京都府内)などずい分遠くからの飛び地がありました。
また当地の浅尾藩は現・豊中市内や神戸市内などに、岡田藩は岐阜県内に飛び地を持っていました。
このように遠隔地に飛び地を持つのは特別な理由があったのでしょうか?
単に知行高を合わせるためですか、それとも戦などの時に補給地などとして使うといった目的があったのでしょうか?

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A 回答 (3件)

こんにちは。


藩側が様々な思惑で飛地を得るということも勿論ありますが、幕府によって意図的にそのようにされている面も大きかったようです。
一部の例外を除いて転封が頻繁に行われる大きな理由の一つに「地縁的な繋がりが強まるのを回避する」ということがあったように、領地が一所にまとまっているというのは非常に危険であると考えていたのでしょう。もう既に強固な地縁を築いていた旧族外様大名を動かすことは困難でしたが、小藩になればなるほど領地は各地に散らばっており、更に旗本領が集中していた房総などはまさに虫食い状態であったといいます。
幕府はそうした面からも各藩が飛地を持つことを積極的に受け入れ、転封などの際には一部を残して交換するようなこともしていたようです。
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この回答へのお礼

そういえば旗本など小藩に飛び地が多いように思います。私は小藩ほど地縁的な繋がりは強かったと思っていたのですが、意外でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 01:24

理由はいろいろあります。


1 京都守護職、京都守護代、大坂城代などになると京都での生活維持のため近畿地方に飛び地を貰うことがあったようです。
2 知行高あわせ
3 実高が少ないところを元々知行地に宛がっていた大名に対して一部実高が高いところと交換した。
4 縁故の地
5 その他
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この回答へのお礼

生活維持のために領地を貰ったというのはおもしろいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 01:20

親藩譜代の場合、石高のつじつま合わせというのもけっこうあります。


特に急激に石高が増えるような立身出世をした大名などは、増やそうにも、隣にあげられる、幕府直轄領が無ければ、他で与えることになります。
後使役に古河藩、挙母藩、亀山藩などは、典型的な親藩譜代となります。
そのほかに、外様の場合、参勤交代の補給連絡地として、給付されたケースがあります。
http://www.wdic.org/w/SCI/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8% …
これは秀吉から島津家が播磨に飛び地をもらった謂われというか、今の島津製作所がなぜ 島津なのかというやつ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94% …
伊達政宗も、近江と常陸に飛び地をもらっています。
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この回答へのお礼

本拠地の近くに適当な地域がないと加増しようにもできませんね。
飛び地にならざるを得ないというわけですか
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 01:15

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参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

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なお、質問の根拠はヤフオクの記事です。

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http://ps03.aucfan.com/aucview/yahoo/d97675092/20091031/

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以前小生が同じようなお尋ねをしたことがあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2850917.html

「データベースれきはく」の「旧高旧領取調帳」に石高が出ています。
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param の左の「旧国名」の▼をクリックして「旧領名」に直し、その右の欄に「忍藩」と入力すると、忍藩領だった全国の村が出できます。
伊勢国には約70か村、播磨には15か村ほどあったようです。

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もともとこの北山村は林業によって支えられています。
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新宮に持っていっていました。
そのため生活上、商業上和歌山県とのつながりが
非常に強いです。

もともとは奈良県に属する予定だったんですが
村民が新宮との深いつながりを理由に
和歌山県への編入を希望し
その希望を受け入れ和歌山県に入りました。

最近の市町村合併の流れで
どこと合併を希望するかの住民投票でも
隣接地ではなく、離れた新宮市・熊野川町との合併を
臨む声が7割にも達しており
その深いつながりは今でも色褪せることなく
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参考URL:http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/

Q日本のミサイル防衛にTHAADが無いのは何故?

【ワシントン共同】米陸軍当局者は26日、米領グアムに配備した高性能の地上発射型迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)が完全な稼働状態に入ったことを明らかにした。との報道です。
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>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

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一方、日本が Aegis 艦に搭載している SM3 (Standard Missile 3) 161B Block IA は射程 400km、射高 250km で、先端部が Kinetic 弾頭と呼ばれる高機動弾頭になっているように、空気のない大気圏外での超高速運動能力を持たせたものとなっていて、THAAD よりも高性能な Missile になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=Clny6teU5ik&feature=youtu.be

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http://www.youtube.com/watch?v=A6CIu9fRk3k

地上発射型で射程が 200km しかない THAAD では幅数百km 長さ 2000km 余りの日本列島に数十基の発射機を配置しなければならず、何時 Terrorism だの過激な反対運動の前に壊されるか判ったものではないのに比べ、SM3 は部外者など近付けない Aegis 艦の中にありますし、相手国の Missle 発射機から 400km 以内の海域に派遣すれば 1 隻で事足ります。

相手国が日本に向けて発射する Missile の Course は決まっていますので、日本列島近海に配置する Aegis 艦の数も数隻あればよく、既に海上自衛隊は上記「こんごう」型 Aegis DDG (Missile 護衛艦) を 4 隻、次級の「あたご」型 Aegis DDG を 3 隻運用していますので、2~3 隻が定期整備中であっても常時 4~5 隻は緊急配備に就くことができるようになっています。

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km ...続きを読む

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Q上屋敷、中屋敷、下屋敷

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よろしくお願い申し上げます。

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江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別荘の役目にあたり、藩主の休息所や側室の住居、など内々の用途にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 このため藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事もあったようです。
詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣は都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。

中屋敷はそれを持てるのは限られていて江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。
それぞれ用務が多いなど必要があったからです。
事務所のようなものと考えれられます。
側室の住居などが置かれる事もあったようです。

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下屋敷は別...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

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Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

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室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
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Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
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それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

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直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.


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