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特に仲の良かった大名同士(旗本同士)・特に仲の悪かった大名家(旗本)を教えて下さい。

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A 回答 (3件)

越前松平家と越後(津山)松平家は仲が悪い。


両家とも徳川家康の次男、松平秀康の子孫だが、越前松平家の2代目忠直の時代に改易になり、息子は越後へ転封、代わりに越後藩主の弟が越前松平家を継いだ。
つまり越後と越前は藩主と藩士がセットで入れ替わった訳です。
元々越前松平家は長幼の順では将軍家より上位で、家門筆頭ですから、以降は越後か越前かどちらの松平が本家か争い、仲が悪かった。

仲のよいのは安濃津の藤堂家と前橋の酒井(忠清)家。
女婿と舅になりますが、下馬将軍と言われた酒井忠清が失脚。
死んだ時に幕府から、あて付けに切腹したのではと疑われ、藤堂高次が必死に弁明して事なきを得た。
上杉家と会津の松平家も、上杉家が改易になりかけた時に会津松平家の初代保科正之(秀忠の3男、家光の弟)に救って貰ったので仲がよく、幕末は奥羽戦争で同盟した。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
伊勢の藤堂と酒井雅楽は親密だったのですね。

お礼日時:2005/08/22 09:20

仲の悪い大名家だと



薩摩島津家と飫肥伊東家。
戦国以来の不仲 →交互に参勤、同席させず。

鳥取・岡山池田家と櫛羅永井家。
小牧・長久手の戦いの因縁(永井直勝が池田恒興を討取る)に加え、荒木又右衛門の仇討ちで永井側が仇を匿った事情? 
→顔を合わさせない。

金沢前田家と二本松丹羽家。 →同席させず。
富山前田家と二本松丹羽家。 →同席でも挨拶せず。(幕末に和睦)織田家家臣時代の序列に加え、関ヶ原時の北陸での合戦が原因?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり過去の因縁が尾を引いていますよね…

お礼日時:2005/08/22 09:22

仲が悪かった大名といえば津軽と南部(南部の臣下であった津軽がどさくさにまぎれて大名になった)、細川と黒田などがあります。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
南部と津軽は相馬大作事件が有名ですね。
細川越中と黒田筑前も険悪だったのですね。

お礼日時:2005/08/21 21:20

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Q旗本と大名

昔の日本で、旗本と大名どっちが偉かっんですか?
例えば、道ですれ違ったときに道をゆずるのはどっちとか

Aベストアンサー

それぞれが『殿様』と呼ばれていた階級です。大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。
江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。しかし、幕末になると旗本株をお金で売買するようになりました。江戸城の無血開城談判で有名な幕格の勝海舟は祖父の代に旗本株を買った家系です。
旗本の中では書院番や幕格の旗本は格が高いのです。将軍のお側近くにはべるので特別なのです。外様大名は将軍に近づくことも出来ませんでした。江戸城松の廊下で『殿様』同士が出会うと格式の差でいろいろとあったでしょうね。
格から言うと徳川御三家、徳川御三卿家、松平家、親藩大名、外様雄藩大名、幕格旗本、外様小藩大名、旗本の順です。

Q江戸時代。大名同士の付き合い。

幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。
制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。
この法を監視する役職は何ですか。
違反して咎められた大名家はありましたか。

江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。
すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。
しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。
それをどこまで管理できたのかという疑問です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

基本的には制限は無いと思います。
下記は江戸中期の大名交流の一情報に過ぎませんが…

・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>点取俳諧集
http://kikutsura.com/tentori/
菊貫(真田幸弘)は、安永初年頃から文化12年までのおよそ40年間、
米翁(柳澤信鴻)や華裡雨(細川重賢)などの大名俳人や家臣たちと江戸藩邸や松代城下で、
百韻(俳諧連歌のひとつ)を巻いて遊んだ。

・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>フォーラム案内
>真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録冊子(PDFファイル)
<9~16/64> 西田耕三先生「細川重賢の俳諧」
http://kikutsura.com/wordpress/wp-content/uploads/2012/06/2db36775d88aa353799ba8d1475c1af8.pdf
<12/64>
…それから興行場所は江戸藩邸が多い。細川の場合はほとんどそうですね、江戸です。…
…それから上野の寛永寺でやっている。もちろん他でもやっている。
残っている作品で申し上げているわけですけどもね。
ですから、圧倒的に江戸藩邸が多い。表海楼という部屋と蘭嘯閣という部屋があって、
大名によって区別をしているんですね。
気の張る大名だったら蘭嘯閣に呼んで、それで大した、大したって言うのもなんですけども、…
…親しい大名だったら表海楼、常の居間って言っているんですけど、そこでやるんです。
これ、歴然としているんです。そういう意味では、これ、参考になるんですね。…
<13/64>
…で、これは裏付けがとれるんです。これはまた、作品が残っているわけです。
で、今日は一点集中というか、安永四年、十月二十五日の俳諧興行について
こういう約束が一つある。で、実際の俳諧が二枚目の下の段と上の段と言いますか、
上の段の下の方にある32段の百韻書き起こし、安永四年、十月二十五日、表海楼という、
これはさっき言った気の張らない仲間ですね。
これが先程の三花を呼んでくれという。で、三花は登場して来ませんからね、
多分都合が悪かったんだろうと思いますね、青木甲斐守。…

〇真田幸弘<信濃・松代藩主/宝暦2年(1752)~寛政10年(1798)>
外様(譜代格)/帝鑑間 [元文5年(1740)生─文化12年(1815)没]

〇細川重賢<肥後・熊本藩主/延享4年(1747)~天明5年(1785)>
外様/大広間 [享保5年(1721)生─天明5年(1785)没]

〇柳沢信鴻<大和・郡山藩主/延享2年(1745)~安永2年(1773)>
譜代/帝鑑間 [享保9年(1724)生─寛政4年(1792)没]

〇青木一貫<摂津・麻田藩主/明和7年(1770)~天明6年(1786)>
外様/柳間 [享保19年(1734)生─天明6年(1786)没]

以上 御参考まで^^

基本的には制限は無いと思います。
下記は江戸中期の大名交流の一情報に過ぎませんが…

・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>点取俳諧集
http://kikutsura.com/tentori/
菊貫(真田幸弘)は、安永初年頃から文化12年までのおよそ40年間、
米翁(柳澤信鴻)や華裡雨(細川重賢)などの大名俳人や家臣たちと江戸藩邸や松代城下で、
百韻(俳諧連歌のひとつ)を巻いて遊んだ。

・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>フォーラム案内
>真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録冊子(PDFファイル)
<9~16/64> 西田耕三先...続きを読む