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幕末に桜田門外の変など事変が起こる世の中なのになぜ大名は
馬ではなくて駕籠にのるのでしょうか。
そこまでして乗る理由があったのでしょうか?
教えてください。

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A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>馬ではなくて駕籠にのるのでしょうか。そこまでして乗る理由があったのでしょうか?
(1)NO3の方の言われるように、「謀反を起こすのではないか」と受け止められないこと。
(2)高貴な人は歩くべきではない、と言う考え方も古くからありました。奈良時代、平安時代の朝廷に仕える人たちも牛車で行き来したくらいですから。また、戦国時代でも、桶狭間の戦いで敗れた今川義元なども駕籠と言うよりも、台座に乗って戦に向かっていますよね。
(3)町人でも、町駕籠に乗れるのは裕福な人で、大名も一種の権威付けで駕籠が定着しました。しかし、小大名などは馬で登城する者もいました。

(よもやま話)
(1)大名は格式により、大手門と内桜田門(現:桔梗門)の2つの門から城へ入りました。
(2)それぞれの門の手前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的には、ここで馬から降りたり、駕籠から出て徒歩で入城しました。
(3)やや格式の高い大名や老齢で幕府の許可を受けた大名は、その先の下乗橋の手前にある「下乗所」というところまで駕籠に乗ったまま入ることが許されました。
(4)加賀の前田家だけは「下乗所」でも、一番「下乗橋」に近いところが確保されていました。
(5)御三家は、さらに進んで「中雀門(ちゅうじゃくもん)」まで駕籠を乗り入れました。
千代田城(これも、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、「舞鶴城(ぶかくじょう)または「千代田城」と呼び、町人はただ「御城」とよんでいました)の配置図。
http://www.viva-edo.com/edojou.html
(6)お供の人数もある程度決まりがありました。しかし、意外と各大名家においてもお供の人数を正確に記した史料は乏しく、一例としては、伊予(現:四国の愛媛県)吉田三万石の伊達家(宇和島伊達家の分家)の記録によれば、文化13(1816)年閏(うるう)8月15日に当主の宗翰(むねとも)の登城の際の人数を見てみると、当時は伊達家も経費節減を強いられて「倹約中」とありますが、士分8人、徒(かち=徒目付を含む)6人、道具持および小者53人、「合計67人」と書かれてあります。そこから推測すると、十万石前後では、上記人数に多少加わるくらいで、多くの大名は50~100人前後だったと考えられます。
(7)広島藩主浅野長勲(ながこと、または、茂勲もちこと、とも呼ばれた。かの有名になった赤穂浅野家の本家)の逸話では、浅野家の本宅(現:霞ヶ関付近)を出た先頭が西ノ丸下馬所に到着したが、最後尾はやっと本宅の門を出たくらいだった、そして、行列を「切り」と称して1~2箇所隙間を空けてやり町人たちが通れるよう配慮した、と言われています。
(8)また、「礼式日」になると、かなりの供回りの数は増えました。
「礼式日」とは、元旦、五節句、八朔(はっさく)などの幕府にとって重要な日を指しますが、月並登城(つきなみとじょう)と言われる月例の登城日には、江戸在中の全大名が総登城します。しかし、大広間(おおひろま)詰、帝鑑間(ていかんのま)詰、柳間(やなぎのま)詰の大名たちは「表大名(おもてだいみょう)」と呼ばれ、以下の「礼式日」にしか登城しませんでした。御三家は、自分が用がある時や礼式日、そして、公方(くぼう)さま(江戸時代、「将軍さま」とは呼ばず「公方さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれていた)などから諮問があった時だけ登城しました。
良くテレビで「将軍さまの御成り~」などと叫びますが、これは、単なる視聴率を上げるための所業。
「控えの席」は次のサイトで・・・。
http://bakumatu.727.net/iroha/mame-hikaema.htm
「元旦」
元旦・・・これは、もちろん、正月1日。
「五節句」
人日(じんじつ)・・・正月7日
上巳(じょうし)・・・3月3日
端午(たんご)・・・・5月5日
七夕(たなばた)・・・7月7日
重陽(ちょうよう)・・9月9日
「八朔」
八朔(はっさく)・・・8月1日(この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日とされました)。
なお、この「礼式日」では、登城する大名も多くなりますので、御三家や特に許されて城内近くまで駕籠で入れる大名以外は、「下馬所」より手前の城門(鍛冶橋、呉服橋、常盤橋)で下馬ないし駕籠をおりなければなりませんでした。
(9)ここからは、
侍・・・4~5人
草履取りおよび挟箱持・・・各1人
駕籠者(駕籠の乗り入れが許された大名)・・・4人
雨天傘持・・・1人
となり、その他の従者は、どんなに雨が降ろうと雪が降ろうと「下馬所」で待機させられました。
しかし、ゴザをひくことだけは許されており、腕枕で寝る者、チンチロリンの博打にふける者、唄を歌う者等々さまざまなことをして刻を潰しました。
(10)摂家や宮家は「御玄関式台」と呼ばれる玄関まで駕籠ではいれました。また、公家と芝方丈(しばほうじょう=増上寺の最高位の僧)は、「御玄関白洲」と呼ばれる「御玄関式台」よりもやや手前まで駕籠で入りました。
(11)面白いところでは、築地本願寺と浅草本願寺の高僧は、はるか手前で駕籠を降りることとなっていましたが、「旧事諮問録」という本によると、なんと「玄関番」が「そこまで、そこまで」と言いながらも、そのまま「御玄関白洲」まで、逆に、後押しをしてくれたとか。さぞかし、両本願寺からは、玄関番に「多額の?」「心付け」が渡されていたのでしょう。芝方丈並みに扱われたようです。
(12)大名たちの玄関は、と、言うと、これも格式により入り口が違っていました。
御玄関・・・・・正式な玄関で、「表大名」と「溜の間詰大名」。
中之口・・・・・奏者番、寺社奉行などの役職者、役職者ではないが「半役人(はんやくにん)」とされる「雁(がん)の間詰大名」と「菊の間縁側詰大名」。
御納戸口(別名・老中口)・・老中、所司代、大阪城代、若年寄など。
御風呂屋口・・・御三卿とその家老、中奥役職者。
(13)大名が玄関を入ると300人ともいわれる「表坊主衆」がお出迎えをし、坊主たちと懇意にしている大名を、それぞれの部屋へ案内をしました。殿中は複雑な間取りになっているため、一人では自分の詰の間まで行けなかった、と言われています。さらに、部屋を間違えて一歩でも入ってしまうと、お咎めを受けました。明暦3(1657)年に旗本であった八王子千人頭の石坂勘兵衛正俊が殿中を迷い、違う部屋へ足を入れてしまった。「まいるまじき席に入りし越度(おちど)」と処罰され、千人頭の職は一代限りで「躑躅(つつじ)の間詰」から「御納戸前廊下詰」に降格させられた事件があります。
(14)大名行列は家の格によってさまざまに異なりました。特に、道具の一つといわれる槍の飾鞘(かざりさや)は、形や虎皮、ラシャなどの材質で、その家がわかりました。つまり、先頭の槍を見ればひと目で何家の行列かがわかったというわけです。そして、大名行列で「道具」というと「槍」だけのことを指し、弓や鉄砲はそのまま弓、鉄砲といいました。また、「打物(うちもの)」というと長刀(なぎなた)のことを指しました。
(15)大名行列では、必ず、「御道具(=槍)」を持つことが決められていましたが、
三万石以下は1本で、俗に、「1本道具」と称しました。
2本は、三万石以上および十万石以上の大名の嫡子と老中の嫡子。
3本は、薩摩島津家と仙台伊達家。その後、天保6(1835)年越前松平家、嘉永6(1853)年肥後細川家と長門毛利家、安政2(1855)年出羽佐竹家、万延元(1860)年筑前黒田家と肥前鍋島家。
4本は、御三家・・・しかし、「礼式日」のみで、普段は2本でした。
(16)御道具の位置、つまり、徒の前に立つか横に立つか、後ろに立つかも各家によって違っていました。
(17)通常、町中で大名同士の駕籠がすれ違ったりする時は、御道具の数(槍の数)が同じか2本ぐらいであれば、お互いに駕籠の戸を開けて軽く会釈をする程度で、駕籠も止まったりはしませんが、相手が格式が上だったりすると、つまり、こっちが1本で相手が3本、4本だと、わざわざ駕籠から降りて腰を折らなければなりませんでした。「面倒くさい」「カッコ悪い」等々。そこで、各家では御道具の数や駕籠の形などで何々家の駕籠と判断する好事家(こうずか=物知り博士)をつくりましたし、100年後位には「武鑑」なども発刊され、それを頼りに、例えば「向こうから御三家が来た」などと叫ぶと、下級大名の駕籠は慌てて横道にそれて逃げ回りました。

まあ、まだまだ面白い話もありますが、長くなりましたので、この辺で・・・。
少しでも、あなたのお役に立てればと、思います。
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この回答へのお礼

なるほど。よくわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/28 20:26

単純に、護衛しやすいからじゃ、ないですか?


馬だったら、弓で、狙われたら、一発でしょ。

井伊直すけ(すいません、うちのパソコンじゃ、出ませんでした)は、きな臭いことに、巻き込まれているのは、当人も、承知していたでしょう。
勇猛で、知られる赤備えの井伊家家臣団は、襲われたときの防御のシュミレーションなども、していたでしょう。

井伊サイドの抜刀が遅れたのは、雪のため、刀にカバーをかけていたからとか・・・。
雪以外の天気だったら、防御できたかもです。
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この回答へのお礼

井伊直弼は文武にとても優れた天才と聞いてます。
もしかしたら駕籠から降りて暗殺を防ぐこともできたかもしれませんね。ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/28 20:25

身分を誇示する為です。


大名は格式に応じた立派な駕籠が許され、一般の武士の乗るものとちがいます。   供の人数も決まりがあります。
大名駕籠行列を見ただけで、御三家の駕籠、前田百万石の駕籠、とかわかったのです。
登城には馬でも徒歩でもよいのですが、大勢の供を連れ馬で行くのは、それ謀反だと騒がれかねません。
駕籠登城が定着しきまりになりました。

領内見廻りには、駕籠、馬、お忍びでは少数の供連れの徒歩もありました。
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>そこまでして乗る理由があったのでしょうか?



先ず、登城に関して。
江戸城へは大手門、内桜田門と坂下門、西丸大手門から入ります。
が、将軍以外は乗馬のまま城内に入る事が出来ません。
御三家といえども、門前で下馬しなくてはならないのです。
ここで供の家来と別れ、数名の家臣を伴って城内に入ります。
位の低い大名は、籠に乗って城内に入る事も禁止でした。
老中・奉行・御三家並びに前田家・伊井家・保科家・讃岐松平家など位の高い大名のみが籠に乗ったまま城内に入ります。
しかし、門まで馬に乗って、門から籠に乗るのは不便ですよね。
それなら、最初から籠に乗った方が便利です。

当時の馬は、銑鉄をしていませんでした。
馬の脚のサイズに編んだ「藁ぞうり」を湿らせて銑鉄の代わりにしていたのです。
ですから、5キロも進むと馬は爪が割れ歩けなかったようです。
これでは移動手段としては使えません。
乗馬で将軍のお膝もとを走る事は、いらぬ疑いを受ける可能性もあるので遠慮したとの考え方もあります。

伊井直弼の場合ですが、当時の伊井家屋敷は桜田門から濠に沿って500メートル地点にありました。この距離だと、籠で充分です。

余談ですが、門で殿様と別れた家来は、殿様が戻って来るまで門前で待機なんですよ。雨でも雪でも、じーーーっと待つのです。
今も昔も、宮仕えは厳しいですね。
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Q駕籠

時代劇の大名行列ですと、殿様が駕籠に乗り参勤交代の旅に出ます。
ところであの駕籠ですが、最低地上高がけっこう低いように思います、つまり山道や林道ではどうしたんでしょうか?
下記はいわゆる山駕籠の写真で

http://ohoshisama.info/syowakarano/05syouwaC/syouwaC44hieizan.htm

山道で用いられたようですが、大名駕籠ではでこぼこ道で底が引っかかる、急坂で乗っている殿様が仰け反るなど、ひどく不自由な気がしますが、箱根などでは馬にでも乗り換えたんでしょうか、それとも殿様といえど自家用駕籠を降りて専門の山駕籠に乗り換えたんでしょうか?

女性ですと輿で中山道を往来する人(和宮とか)もいたようですが、江戸時代に輿で旅に出る男性はいなかったんでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

大名行列では、空馬を必ず1頭か2頭連れて行き、宿場に泊まって、次の宿場までが急な坂道や石ころだらけの場合には、殿様は馬に乗りました。
また、空馬も殿様専用のものと、家臣の馬が倒れたような時に、乗り換えました。

歳をとっている殿様や怪我をしている殿様の場合などでどうしても馬に乗れない場合は、籠を担ぐ人数を増やして持ち上げて慎重に前進しました。

それから、「したに~」「したに~」の掛け声を「先払い」といいましたが、これはもちろん先を歩く者が大声を発して「路を空けよ」ということを表しました。街道筋では通行人が道の端によけて頭(こうべ)を垂れて見送りました。しかし、江戸の街でこの「先払い」をしたのは将軍家か御三家、御三卿くらいで、他の大名は遠慮をして江戸に入ると静かに進みました。
また、「下に~、下に~」と声を上げての先払いは、自分の領内と国境、そして、江戸に入る手前だけでした。

(よもやま話)
大名行列はいいかげんだった?
道具、打物、挟箱、先頭警護の武士、お籠、後尻警護の武士の順で行列は進みましたが、この隊列を組み「先払い」をたのは国許の城下と領地境、宿場の発着時、そして江戸へ入る時だけで、道中では隊列をくずし、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって見物したりしました。

大名行列も道の端へ  
大名行列よりも格が上だったのが「御茶壷道中」。これは、毎年将軍家が飲用する新茶を京都の宇治から運ぶ行列のことで、この御茶壷道中の往復に出くわしたら、さあ大変。大名行列とすれ違ったりした時は、どんなに偉ぶっていた大名も籠から出て腰を深々と折って、敬意を表しました。

大名行列も回り道
江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

大名行列では、空馬を必ず1頭か2頭連れて行き、宿場に泊まって、次の宿場までが急な坂道や石ころだらけの場合には、殿様は馬に乗りました。
また、空馬も殿様専用のものと、家臣の馬が倒れたような時に、乗り換えました。

歳をとっている殿様や怪我をしている殿様の場合などでどうしても馬に乗れない場合は、籠を担ぐ人数を増やして持ち上げて慎重に前進しました。

それから、「したに~」「したに~」の掛け声を「先払い」といいましたが、これはもちろん先を歩...続きを読む

Qかごを担ぐ人

時代劇などで、殿様、お姫様やお金持ちなどが乗る「籠」を担ぐ人の事を呼ぶ呼び名を教えて下さい。前と後ろで違うんですよね。学生時代に聞いたおぼえがあるのですが、どうしても思い出せず、旦那とうなっています。

Aベストアンサー

前を「先棒」or「先肩」、後ろを「後棒」or「後肩」と言います。
「先棒」は現在でも「お先棒を振る」という言葉として残り、「人々の先頭になって物事をする。」ときに使われ、「お先棒を担ぐ」ですと「人の手先になって働くこと。」を表します。
「後棒」も「首謀者の手助けとして事に加わる。」場合に「後棒を担ぐ」と言いますね。

先棒・後棒はコンビで、後棒が先輩格になり「はあ~」と声を掛けると先棒が「ほう」と応えて担いでいきます。
落語の立川談志がこの先棒・後棒の演じ分けをすると、将に名人芸で、先棒は勢いよく棒を振り、後棒は小さく振るという細かさです。

時代劇で商家の旦那が乗るものを「宿駕篭」といって、ハイヤーにあたり、江戸では大伝馬町の「赤岩」、浅草茅町「江戸勘」、芝口の「初音屋」などの駕籠屋がありました。
壮年の男性が担ぐので、頼めばかなりの速度で運んでくれます。
飲み屋のお姉さんなどが「ちょいと駕篭屋さん」といって呼び止めて乗り込むのが「社駕篭」。
立場(駅の構内免許のようなもの)の権利を持っている駕篭かきで、駅などで客待ちしているタクシーに当たります。
中高年の駕篭かきですから、速度は出ません。
街道などでたむろして客引きするのを「雲助駕篭」といって、気の荒い連中が多いので、吹っかけられることもあったようです。

前を「先棒」or「先肩」、後ろを「後棒」or「後肩」と言います。
「先棒」は現在でも「お先棒を振る」という言葉として残り、「人々の先頭になって物事をする。」ときに使われ、「お先棒を担ぐ」ですと「人の手先になって働くこと。」を表します。
「後棒」も「首謀者の手助けとして事に加わる。」場合に「後棒を担ぐ」と言いますね。

先棒・後棒はコンビで、後棒が先輩格になり「はあ~」と声を掛けると先棒が「ほう」と応えて担いでいきます。
落語の立川談志がこの先棒・後棒の演じ分けをすると、将に名...続きを読む

Q江戸時代の駕籠かきについて

時代劇の1シーンで客を乗せて 「エイッホッ、エイッホッ」 と走る駕籠がよく登場しますよね。 早駕籠じゃなくて、街を流している駕籠です。

思ったのですが、軽量の樹脂なんて存在しない時代ですから、まず駕籠自体が数十キロあると思うんですね。 それと客の体重が約50kgあるとして、総重量は100kg近くになりますよね。

これを二人の人間が肩に担いで、全力とは言わないまでも、少なくとも歩くより早い速度で客を運ぶわけですよね。

皆さん、約50kgの重量を片方の肩に受けて、調子よく 「エイッホッ、エイッホッ」 とやれますか? それも客の目指す場所まで休憩無しで運ぶんですよ。

おそらく今だったら、プロレスラーか、ハンマー投げの室伏選手くらいの体力がなければ無理じゃないでしょうか?

江戸時代の駕籠かきって、そんなマッチョ並みの体力があったのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の平均身長は、成人男子で150~160センチですが、
米俵(60キロ)これは平気で担いだようです。

100キロでも、2名分担なので1名50キロを担ぐ計算にはなります。

今の人間でも、殆どの男子は、バーベルを担いで練習すれば、この程度の重さは担げるようになりますが、
肝心の持久力(これを担いで走り抜ける)
これは相当な慣れが必要で、
実際には慣れるまで馬車馬のような訓練をするのは相当なクレームや問題が起こるので行えないのが実情です。

武士の場合でも、釣竿の重さをわざと重くし、刀の重さより重くし、持ち続ける。
重さを競い合うなど、絶えず武芸に通じるよう心がけ、励むのが普通であったようです。

でっち奉公の子供の場合も、1斗(18リットル)2個(計40キロ相当)を棒の両端にぶら下げて倉に出し入れは当たり前で、ささいな飯でこの体力を養っていました。

駕籠屋は、間接痛やヘルニアが多く見受けられ、心臓の病も多かったようで、中年以降相当な苦労があったようです。

プロレスラーの場合、150キロのバーベルは背負うと思います。
60キロ以上のバーベルを持ち上げるでしょう。
この観点では、

必要以上の重さは担がない駕籠屋は太刀打ちできないでしょう。
彼らが相撲で食わない所で、人の数倍力が無かったのが伺えます。

しかし、一般町民の中では力持ちの部類で、街中では立場は良かったでしょう。

しかし、客商売ですので、乱暴は思ったより働けず、上客層に対しては頭が上がらなかったのが実情でしょう。

江戸時代の平均身長は、成人男子で150~160センチですが、
米俵(60キロ)これは平気で担いだようです。

100キロでも、2名分担なので1名50キロを担ぐ計算にはなります。

今の人間でも、殆どの男子は、バーベルを担いで練習すれば、この程度の重さは担げるようになりますが、
肝心の持久力(これを担いで走り抜ける)
これは相当な慣れが必要で、
実際には慣れるまで馬車馬のような訓練をするのは相当なクレームや問題が起こるので行えないのが実情です。

武士の場合でも、釣竿の重さを...続きを読む

Q藩主と大名は同じ人物か?

江戸時代1万石以上の領地(藩)を与えられた武士を大名と言い,その領地と政治組織を藩といいます。となるといわゆる藩主というのは大名と同一人物になるのでしょうか?1つの藩に藩主は1人でしょうが,大名と藩主が同一人物でないとすれば,藩に大名は複数いたのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の藩は300とも500とも言われますが、幅がおおきのは藩、大名の規定が複雑だった事を物語っています。大名という言葉は鎌倉時代からあり、徳川幕府が一万石以上を大名と定めた事から、大名とは一万石以上の領主となりますが、例外もたくさんあったようです。先ず大大名の家来には一万石以上の者がいるわけですが徳川幕府が認めなければ家来の家来(陪臣)は大名扱いを受けていません。

大名として認知されていない領主も藩を治めていれば藩主なので、大名と藩主がイクオールでないケースも出てきます。米の取れなかった松前藩は禄高ゼロでも北海道特産物を瀑布に物納して一万石の大名扱いを受けていたそうです。

参考URL:http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/han/01-01.htm

Q江戸時代の駕籠

駕籠自体、相当重そうなのに、人を乗せてかなりの距離を走る。
昔の人の体力には感心するものの、乗ってる方も乗り心地悪そうだし、二人分の人件費がかかります。
なぜ人力車のように、車輪をつけようと思わなかったのでしょうか。大八車とか、牛車とかはあったわけで、車輪の概念はありますよね?
何かの理由で幕府が禁止していたのですか。

Aベストアンサー

江戸については幕府が人の乗る車を禁止していました。京都でも御所車以外では、牛車は人間が乗ることを禁じられていました。
言い方は悪いのですが、駕籠かき人足の「既得権益」を守るためです。実際、明治になって馬車の解禁の際、かなり揉めています。

以下の本に、まさにpastoraleさんの抱いた疑問と、その調査結果が載っています。

『日本史再発見―理系の視点から』板倉聖宣、朝日選書

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む


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