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大河ドラマなどでよく出てくる殿様や家臣が集うあの部屋はなんという名前なのでしょうか。

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A 回答 (3件)

赤穂城明け渡しの評定が300人の家臣を集め、大広間で行われたそうですが、そのような大きい部屋は普通城にはありませんでした。


数個の部屋の仕切り(襖など)を取り外し大きい部屋を作り、大広間と呼びました。
私の見た城内部の図面で大広間と呼ぶ、大きい部屋が本丸にあったのは川越城だけでした。
城主が家臣を謁見する場合は、身分の高い者から順次に入れ替えて行い、広い部屋は必要ありません。    多くの家臣を一堂に集めることは稀で、そのため広い部屋を用意しておくのは無駄でした。
川越城は寵臣柳沢吉保が、将軍綱吉により大名に任ぜられて、将軍を招待することを考えて用意したものでしょう。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>戦国時代の城の部屋の名称について
大河ドラマなどでよく出てくる殿様や家臣が集うあの部屋はなんという名前なのでしょうか。

まず、織田信長などの時代までは、「役職者」は、全員が集まり協議することが常で「大広間」などで合議されました。

江戸幕府になると、戦もなくなり、全国の大名、小名たちも「こぞって」徳川家に従うようになりましたので、政務の実権は、ごくごく限られた「大老」とか「老中」「お側用人」などで、「若年寄」なども多少は参画しましたが、極端に言えば、10人前後で幕府(と、言うよりも国全体)を動かしました。

地方の大名などは、家中の多くに、何かを告げる時は、やはり、「大広間」で、重臣たちとだけ話すのは「書院」で話し合いをしました。

一方、千代田城内(江戸城)の公方さま(将軍)は、もう、政局も安定し始めていましたので、全大名を集めて「訓示」などをする必要がなく、各大名に用がある時は、「黒書院」に呼び出して話をしました。また、「御三家」や「前田家」「越前家」などの「重要家臣」と面会するのも「黒書院」と言う部屋でした。
そして、「白書院」と言う部屋もありますが、これは、上記以外の大名たちが「謁見」する部屋でしたが、公式行事などに使われ、例えば、庭で「剣術大会」や「槍術大会」「柔術大会」などが開催され、公方さまは広い板縁で観覧し、その周りを譜代大名で守りました。
さらに、勅使などを迎え入れたりした時や公式行事は大広間(約400畳)で行われました。また、大広間の正面に「能舞台」があり「能会」が開催されたりして、大名たちは、この大広間に集まり観覧に供しました。
通常、大名が登城すると、用があってもなくても、自分に決められた「詰所(部屋)」で「待機」していました。
各大名の「詰席」は、次のサイトを参考にしてください。
http://iyo.sunnyday.jp/index.denseki.html

(よもやま話)
(1)江戸時代は、「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」「ご公儀さま」と呼ばれていました。良くTVで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、これは、単なる視聴率を上げるための所業。
そして、同じく「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民はただ単に「御城」と呼んでいました。
(2)大名の登城にも「月並登城(つきなみとじょう)」と言われる月例の登城日には、江戸在府中の全大名が登城しました。しかし、「大広間詰」や「帝鑑間(ていかんのま)詰」「柳間(やなぎのま)詰」の大名たちは、以下の「礼式日」にしか登城しませんでした。
(3)御三家は「礼式日」と、自分が用のある時、または、公方さまから意見を求められた時だけ登城しました。
各大名の「詰間」は、以下を参照ください。
http://iyo.sunnyday.jp/index.denseki.html
(4)礼式日とは、
「元旦」
元旦・・・これは、もちろん正月1日。
「五節句」
人日(じんじつ)・・・正月7日。
上巳(じょうし)・・・3月3日。
端午(たんご)・・・・5月5日。
七夕(たなばた)・・・7月7日。
重陽(ちょうよう)・・9月9日。
「八朔」
八朔(はっさく)・・・8月1日。
この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日とされました。
(3)3代将軍家光の時代に「武家諸法度」が完成し、その第2条に「参勤交代」が定められ、大名たちは隔年に江戸へ入府するようになりました。しかし、全国の大名が全て一同に江戸へ来るわけではく、例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見てみると、
中津、杵築、府内が譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森が外様大名。
そして、参勤交代では、
子、寅、辰、午、申、戌の年に
中津奥平氏、杵築能見(のみ)松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。
丑、卯、巳、未、酉、亥の年に
府内大給(おぎゅう)松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏
と、言うように、それぞれの近隣の藩が「話し合い」で交互に参勤交代をしています。これを「御在所交替」と呼びました。
(4)大名は登城して何をしていたの?
「老中」や「若年寄」などの役職者になると参勤交代は免除され江戸に常駐し、日々、これ忙しい毎日でしたが、それ以外の大名たちは、ただただ「ボケッ」として、詰所の決められた席に座っているだけでした。
(5)世間話でも・・・
とんでもありません。大名同士が結束されては、幕府転覆の企てをするかもしれませんでしたので、「私語」は厳禁でした。
(6)でも、親戚や親しい大名もいたでしょう・・・
そうした大名たちが集まる場所は、必ず、上屋敷で行い、「別に、騒動を招くような話ではない」と言う証拠に「旗本」を呼んで「立会人」になってもらいました。
(7)お茶の接待などは?
全くありませんでした。まあ、大名でも「茶坊主」に賄賂を贈ったりしている者には、登城した時、一回は「こっそり」と出してくれましたが、賄賂などを贈らない大名などは無視され、今で言う「シカト」されて、知らん振りをされ冷遇されました。
その後は、弁当を食べた後などにお茶が飲みたければ、自分で湯茶場へ行き自分で出して飲みました。まあ、大名とはいっても、御城の中では公方さまの「家来」でしかありませんので仕方がありませんでした。
(8)座布団は?
夏はともかくとして、冬には火鉢もなく、座布団なども、全くありませんでした。

あなたの「お役」に立てたでしょうか。
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評定を行うことろなら普通に「大広間」じゃないですか?

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Qお城の生活(戦国時代等)

『江』を見ていて疑問に思った事があります。
お城の中で暮らす人々の部屋には鍵がかかってない
と思うのですが、いろんな人(使用人等)が住む中
盗難等なかったのでしょうか?

お城≒マンション のような物と理解してよいのでしょうか?

お初が後に結婚する人を城内でチラッと見かけた前回の描写から
自分の部屋を出る時は いわゆる部屋着では出れなかったのでしょうか?(誰に会うかわからないから)

Aベストアンサー

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてありました。

 誰が泊まるか分からない旅館でさえそうですから、いわんや城内においておや。

 お城は、マンションではありません。質問者さんの家(個人の邸宅)のようなものです。そこへ使用人が小部屋をもらって住み込みで仕事をしているようなものです。

 自分の部屋から部屋着では出られなかったか、という記述はみたことがありませんが、たぶんそうでしょうね。

 篤姫でも、誰かが起こしに行くまで起きないでください、と言われたり、とこに寝たまま髪を梳かれたりしているシーンがありました。あんなものだと思います。

 ただ、城は、殿様の個人住宅兼仕事場ですが、女性たちが住む「奥」はいつでも誰でも行ける場所ではない(徳川時代の江戸城の大奥ほど整った制度ではないようですが)ので、顔見知りのお手伝いさんに対してでもよほど慌てたと思われたくないとか、「女のたしなみ」でそうやっているだけで、誰か知らない人に出逢うから、ということではないように思います(確証はありませんが)。

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてあり...続きを読む

Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

Q戦国時代の兵士たちや武将について

戦国時代には、たくさん武将やらその武将に仕える兵士さん達がいたと思いますが、その人達は普段どこに住んでいたのでしょうか?
戦がない時には自分の家で、今でいう自主練のようなものをしていたのですか?それとも、仕えるお殿様のお城の中に住む部屋(自分の部屋)があって、そこで暮らしてやっぱり自主練などをしていたのでしょうか?
後者であれば、やはりそれなりに偉い人は一人部屋で、兵士達は数人の人たちと同室とかだったのでしょうか?
知りたいので、教えて欲しいです。

Aベストアンサー

江戸時代になるまでの武士というのは、普段は農民でした。だから、当時の戦争は農閑期でなければ出来ませんでしたし、農業に影響を与える長期の作戦は不可能でした。これを「半農半兵」といいます。
このタイプの軍隊の長所は土地に根ざしたしっかりした組織なので精強だということです。武田軍や上杉軍、島津軍はこういった「伝統的軍隊」でした。

一方、織田信長は金で雇った足軽兵を中心にする組織にシフトしました。この軍隊の長所は戦争専門にやる連中を雇うので年がら年中好きなときに軍事作戦を行えることです。一方、よくいわれることですが、金で雇われるごくつぶしの集団なので士気が低く「負けそうだ」となるとすぐみんな逃げてしまうのです。#1さんも書かれているように、弱かったのです。
しかし、年がら年中戦えるというのはやっぱりメリットで、戦国時代も後半になるとこういった「戦争専門の軍隊」が主流になっていきます。
武田軍や上杉軍もこの時代の流れに無関心だったわけではないでしょう。しかし、甲斐や越後は田舎なのでそんなに簡単に人が集まりません。織田軍は、人とお金が充分に手に入る都会だったからこそ足軽に不足しなかったんですね。

さて、天下統一がなされると巨大な軍隊は不要です。多くの「傭兵」たちはリストラされます。秀吉は、朝鮮に出兵することでこの雇用問題を解決しようとしました。また、島原の乱には多くの「失業武士」が参加したのです。
同じことはずっと後の明治維新でも起きます。西南戦争はリストラされた武士たちの反乱でもあったのです。

江戸時代になるまでの武士というのは、普段は農民でした。だから、当時の戦争は農閑期でなければ出来ませんでしたし、農業に影響を与える長期の作戦は不可能でした。これを「半農半兵」といいます。
このタイプの軍隊の長所は土地に根ざしたしっかりした組織なので精強だということです。武田軍や上杉軍、島津軍はこういった「伝統的軍隊」でした。

一方、織田信長は金で雇った足軽兵を中心にする組織にシフトしました。この軍隊の長所は戦争専門にやる連中を雇うので年がら年中好きなときに軍事作戦を行える...続きを読む

Q夜着に使っていた白い着物の名称

時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?
以前から気に入っていたのですが、その着物の名称も分からず、調べようも無いまま今まで来てしまいました。
知っている方がいらしたら、是非教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?

普通に「寝巻き」で良いのですよ。
また、「寝衣(しんい)」とも呼びます。

なお、良く菱形のような白い透けた柄がありますが、
「工事繋ぎ(こうじつなぎ)」や「紗綾形(さやがた)」多く用いられました。

紗綾形:
http://haruusagi.gozaru.jp/NewFiles/photoshop-pattern.html

Q城の各部の名称について

こんばんは、skireです。

最近大河ドラマ「篤姫」を見ていて気になったことがあります。

1.お城の廊下のことを昔は何と呼んでいたのか。
(廊下、というのは古い言葉なのでしょうか?
渡殿、は寝殿造りに使われていたもので違うかなと思ったので
廊、にいつの間にか下がついて廊下、と呼ぶようになったとも言いますが)

2.縁側らしきものがお城には大概出てきますが、
昔のお城(戦国~江戸にかけて)には中庭が存在しているのが当たり前だったのか。
(あと、面している箇所を縁側、と呼ぶのかどうかも気になっています)

廓、二の丸、三の丸、など大まかな城の各部名称は調べることができますが、
それこそ縁側、廊下などの内部構造を知ることができません。
(作りは知ることができますが、何と呼んでいたのかが解らない)

そこで1、2に追加して

城の(とくに廊下など内部の)各部名称が判る書物やwebページ等ございましたら
教えていただけると助かります。

宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

お城には、天主、櫓などと共に御殿も含まれます。
御殿には廊下(渡り廊下)、縁側があります。
江戸時代にはそう呼ばれていました。

天主では廊下にあたるものを「武者走り」と呼びます。
櫓と天主などをつなぐものは「渡り櫓」と呼びます。

お城でもその中の御殿には中庭がありました。
縁側は古くは「切縁」「よしず縁」などと呼ばれました。

天主や櫓のある廓は、戦闘区域で空き地はあっても、
中庭と言うほどのものはありません。

ただ天主や「月見櫓」の最上階には、「高欄」と言う
飾り手摺の付いた「廻縁 まわりえん」と呼ぶ縁のある
城もありました。   月見の宴です。

お城の解説本は多数出版されています。
三浦正幸 監修 「お城のすべて」 学研
が判りやすいようです。    初心者向き。

Q戦国時代の時計の数え方

タイトル通りなのですが、戦国時代の時計の数え方について教えて頂きたいです。私が詳しく知りたいのは、一時や二時などの時のことです。知っている方がいらっしゃいましたら、24時間全て教えて欲しいです。勿論、この時間はこうやって言うなど全てじゃなくても構いません。宜しくお願いします;

Aベストアンサー

十二支で数えていました。

子の刻 0時ごろ
丑の刻 2時ごろ
寅の刻 4時ごろ
卯の刻 6時ごろ
辰の刻 8時ごろ
巳の刻 10時ごろ
午の刻 12時ごろ
未の刻 14時ごろ
申の刻 16時ごろ
酉の刻 18時ごろ
戌の刻 20時ごろ
亥の刻 22時ごろ


「歴史」の「日本」の項を読んでみてください。
(戦国時代は、室町時代と安土桃山時代の間です。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%88%BB

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q日本刀の数え方

日本刀は「一振り」「二振り」と数えるものだとずっと信じてきたのですが、
国立博物館の刀剣展示室の解説に「口」という単位が使われていました。
また、刀剣関係の書籍でも「口」という単位をよく見かけます。
どちらも正しい刀の数え方だとは思いますが、どういう風に使い分けているのでしょうか。

また、太刀も「振り」や「口」の助数詞をつかうのでしょうか。

(因みに、以前○売新聞の社会面の記事に、日本刀を「×本」と書いてあったのを見て、唖然としました。)

Aベストアンサー

日本の刀剣は概ね四種類に分けられてるいるようですので、その面から考えてみました。
1.太刀(たち)
 奈良時代までの無反りの大刀(たち)「直刀(ちょくとう)」が、平安頃から反りのある彎刀(わんとう)となり吉野朝(南北朝)時代までは太刀緒で帯取りしたり鎧の太刀絡みに括り付けたりしたその有り様から「振(ふり)」「口(く・ふり)」「腰(こし)」と大和言葉風に読んだのでは…。
2.打刀(うちがたな)
 武士階級が興隆する室町以降は、刃を上向きにして腰間に差し挟んだ「差料(さしりょう)」として、これまでの呼び方に加えて漢音読みの「刀(とう)」「剣(けん)」「口(こう)」とも呼ばれた…。
3.脇差
 刀に添えて脇に差す鐔付きの、刃渡り二尺未満の小刀(ちいさかたな)では「口」「刀」「振」か。刀と合わせてなら「揃(そろい)」。またいわゆる帯刀が許されない身分では、鐔(つば)なしの脇差や、刀並みの刃渡りの長脇差(ドス)などでは「本(ほん)」「挺(ちょう)」あたりか。
4.短刀
 突き刺しや投げを考慮した、俗に九寸五分とも呼ばれる刃渡り一尺未満の小刀は、刺刀(さすが)や懐刀や小柄などであり、「口(く)」「丁(ちょう)」「本」などとか。

 ざっとこの様に思い巡らせて見ると、ここはやはり一振り=一口(く・ふり)という千年もの昔からの呼称が日本刀には相応しいのではないでしょうか。

日本の刀剣は概ね四種類に分けられてるいるようですので、その面から考えてみました。
1.太刀(たち)
 奈良時代までの無反りの大刀(たち)「直刀(ちょくとう)」が、平安頃から反りのある彎刀(わんとう)となり吉野朝(南北朝)時代までは太刀緒で帯取りしたり鎧の太刀絡みに括り付けたりしたその有り様から「振(ふり)」「口(く・ふり)」「腰(こし)」と大和言葉風に読んだのでは…。
2.打刀(うちがたな)
 武士階級が興隆する室町以降は、刃を上向きにして腰間に差し挟んだ「差料(さしりょう)」として、これまで...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q戦国時代の使者の挨拶のことば

 戦国時代、使者の武士が先方の殿様(XXさん)に会ったときの挨拶の文言の一部分ですが、次の三つのうちで良いと思われるのはどれでヘンなのはどれでしょうか。
 また、もっといい言い方があれば教えてください。

1.「XX様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

2.「XX様のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じまする」

3.「XX様の拝顔の栄に浴し恐悦至極に存じまする」

Aベストアンサー

こんにちは。

むむぅ・・これまた随分と難しい問題ですね。
やはり時代劇などで耳慣れているものが自然に響きますが、実際のところはさてどのようなものであったのやら。
時代劇を作る際には脚本家や時代考証の方々が頭を捻って色々と考えているのでしょうし、可能な限りは残されているものに準じるように努めているのでしょうから結局は耳慣れた感じのものが妥当ということにもなりそうです。
しかし以前質問者さんも仰っていたように「話し言葉」の史料などというものはまあ限られているでしょうし、時代考証を長くやられている方のご苦労が綴られたものを読んだことがありますが、「ドラマ」ということが前提としてある以上通らない意見が沢山あって悩みの種でもあるそうです。
それに一口に「戦国時代の殿様への使者」と申しましても様々なシチュエーションがあるでしょうし、特に戦国時代の殿様は由緒ある家柄から成り上がりものまで多種ある訳ですから色々と事情も違ってきたのではないでしょうか。
無論例え成り上がりもの相手だったとしてもあからさまに変えるようなこともないかもしれませんが、使者やそれを遣わす側にしてみましたらやはり長く守護を務めてきたような家柄のところへ赴く場合などは、それなりにきちんとしないといけないような気持ちが働いていたのではないかなどとも想像致します。
結局答えのようなものは導き出せませんが、「戦国の大名クラスへの使者」ということで個人的には3は少々硬過ぎる(?)ように思えなくもありません。
締まらない意見ですみません。

先日はちょうど同じようなタイミングでということになったようで、思わず「おっと」とパソコンの前で言ってしまいました(笑)
質問者さんのご意見が「なるほど」と納得のいくものでしたのにそのことに触れるのを忘れていたことに気が付き、もう一度と思いましたが締め切りに間に合いませんでした。
最近はまたそんなことも多く、以前の「自称○○」に関するご質問にも及ばずながら参加しようと試みたものの見事間に合いませんでした(私があれをお見かけしたのがタイミング的にかなり遅かったというだけなのですが・・(笑))。
それはともかく先日の件での貴重なお話色々と勉強になりました。

こんにちは。

むむぅ・・これまた随分と難しい問題ですね。
やはり時代劇などで耳慣れているものが自然に響きますが、実際のところはさてどのようなものであったのやら。
時代劇を作る際には脚本家や時代考証の方々が頭を捻って色々と考えているのでしょうし、可能な限りは残されているものに準じるように努めているのでしょうから結局は耳慣れた感じのものが妥当ということにもなりそうです。
しかし以前質問者さんも仰っていたように「話し言葉」の史料などというものはまあ限られているでしょうし、時代...続きを読む


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