質問投稿でgooポイントが当たるキャンペーン実施中!!>>

徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためかなあ、と漠然と思っていたのですが、実際のところはどうなのでしょうか。なにか特別な理由があったのでしょうか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

 純粋に藩がなかった都道府県は東京都と静岡県と山梨県ぐらい。

これらは、#3のmatubokkuriさんが説明してくれたように、
 「幕府も自分の領地があります。直轄領といいます。
首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、・・・徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。」

と言うことです。
http://www.nipponhyojun.co.jp/search/syakai/6_11 …
を見るとわかりますが、京都府にはかなりの大名がいました。また、京都所司代は、会津藩がつとめていたので、厳密に言うと大名はいたことになります。
 ともあれ、天皇のお膝元であり、重要の産業も古くからあり、皇室や西国を監視するための京都所司代があるため、幕府にとってもっとも監視を強めなくてはならない要所の一つであり、譜代大名でも自由に住まわすことはさせず、まして外様大名には住むことができない地だったようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

教えていただいたURLで見てびっくりしました。まったく知りませんでした。
他にもわかりやすく説明してある記事がありましたので参考にさせていただきます。

お礼日時:2003/09/23 22:10

1)徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためかなあ



回答
 この時代すでに武家政治が確立していて天皇公家が手を組んで再度政権を狙うのは不可能になっていました   徳川家康は豊臣秀吉を京都や大阪の民衆が慕うことを嫌って幕府の直轄地に指定したのです

一般の大名を置くと民主の経済力に持ち上げられ再度豊臣の家臣から浪人になったものが集結する事を警戒しました
徳川家譜代の大名や旗本を派遣して豊臣再興を図る   武士、浪人達を監視することが大きな目的でした
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

公家諸法度を見てもかなり朝廷というものを抑え込んでいる感じもしますし、家康としても幕末の尊皇倒幕の運動をこの時点で見越していたとはとても信じられません。ご回答にあるように秀吉人気を懸念して、というのが個人的にもすっきりするような気がします。

お礼日時:2003/09/23 22:29

質問は



1:京都(=山城の国)に大名の本拠地(城)あるいは、大名領国があったか?

2:京都(=いわゆる、京)に大名の屋敷などがあったか

となります。

1に関しては、淀藩があります。10万石ほどですので、かなり譜代大名としては有力になります。
※ 幕末にこの藩が(徳川家にとって)裏切ったのが鳥羽伏見の戦いの決着をつけたと言われております。

2に関しては・・・参考URLにあるように、実は江戸時代を通じて、薩摩藩の京都屋敷は存在しました。
※ 京都は繊維産業を中心に産業の中心だったので、各藩の仕入れ部隊として京都屋敷はあったようです。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/satsum …
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

質問の書き方が悪かったのですが、1の意で質問したつもりでした。
しかし、江戸時代を通じて薩摩藩邸があるとは思ってもみませんでした。
参考URLのサイトは大変興味深く拝見しました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2003/09/23 22:20

 幕府も自分の領地があります。

直轄領といいます。
首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、「おいしい、人(他の大名)に任せては危ない」ところは徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。いわば、雇われママなら出来が悪ければ交代させられますので。徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためもあるでしょうね。
 江戸幕府は、重要な場所は直轄地とし、譜代などの関が原以前の恩顧の大名は石高を低いけど幕府の要職につけ、外様大名は石高は高いものの要職にはつけず、江戸から遠い地域(つまり、攻めてくるのに時間がかかる)に配置しました。
 これを機会に歴史に親しまれるのもいいですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

わたしにとっては「雇われママ」という比喩はものすごくわかりやすかったです。

お礼日時:2003/09/23 22:01

 #1の方の回答に継ぎ足しです。



朝廷は過去様々な政争の道具にされてきた経緯がありますのでうっかり外様大名達を朝廷の傍に置けば必ず幕府に仇名す輩が現れると思ったのでしょう

で、幕府は京都所司代と言う朝廷と朝廷に近づこうとする者を監視する部署を作りましたが、幕府の力が弱まった幕末ではその危惧が現実になってしまいました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答どうもありがとうございます。

中学生のころは、幕末はどうして志士はみんな京都に集まっているのか不思議で仕方がありませんでした。そのころから漠然と大名はいないのだろうと思っていました(^^;

お礼日時:2003/09/23 21:55

おもしろいと思ったのでちょっと書き込みます。


専門知識があるわけではないので、知っている方がいたら書き込んでください。私σ(^-^)も知りたいです。

普通に考えると
大名を置くということは領地と領民、つまり石高=その土地で生産される米を与えるということですよね。京都は天皇領ですから領地を与えることが、建前上天皇の臣下である征夷大将軍にはできない、ということではないかと思うのですが。
ご存じの方教えてください。
すいません、役に立たなくて。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます。

以前に日本史辞典のようなもので「京都には諸藩の出先機関のようなものはあったが、所司代を置いて公家たちの監視をさせた」といった要旨の文章を読んだことがあり、「征夷大将軍」という権威を上回る「天皇」の存在を持ち出されるのがイヤだったのかなあ、と単純に思っていたわけですが、これは幕末の尊皇倒幕の顛末を知る現代人の見方ではないのかとふと思いまして、開府の当初から意図したことならばよほどの慧眼だ、と思って質問した次第です。

土地=米という図式は、お恥ずかしながらまったく念頭にありませんでした。素直に考えればそうですね。

お礼日時:2003/09/23 21:47

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代の京都の名前は?

江戸時代だと思うのですが、京都が時代劇で、以前~伏と呼ばれていて、ドラマなどでもそのように呼ばれていたと思うのですが、何伏?伏何?か解る方いますか?

Aベストアンサー

>江戸時代の京都の名前は?

都(みやこ)・京(きょう)ですね。
質問者さまはご存知か否か分かりませんが・・・。
日本書紀時代頃から平安京時代に書かれた文書に「都は、天皇が支配(居住)する地。京は、以前都であった地」と区別しています。
これが、京の都とか徐々に呼び方が変わりました。
※明治維新後、江戸の地を「東の京都=東京都」と変名した理由も分かりますよね。
※この場合の東京とは、都道府県単位の東京都の意味です。
※この例で言うと、大阪都を目指している大阪市長の主張は(歴史的)根拠が無くなります。^^;
幕末(倒幕派・左幕派の)手紙には、当て字が多いので断言はしませんが「きょう・みやこ」と呼んでいますね。
漢字も、京でも都どちらも「きょう・みやこ」と混在して呼んでいる場合が多いですね。

>何伏?伏何?か解る方いますか?

古文書・手紙に、「○伏」を記載しているのを見た事はありませんが・・・。
伏○なら、伏見ですがね。
伏見だと、京と大坂を結ぶ水運交通の要です。
伏見寺田屋事件は、幕末で重要な事件です。
残念ながら、○伏は不明です。^^;

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q江戸時代の大阪の武士

江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には
誰が住んでいたのだろう…?なんてふと
疑問に思いました。大名でしょうか?

江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった
そうですが(ネットで調べたら200人足らず)
本当ですか?

だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と
いうものを意識しない、自由市場経済の中で
生きていたということになるのではないでしょうか。

東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。

これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じることが
多かった時代の気風を、今も多少ながらひきついで
いるのかなあと思ったりします。

ひるがえって大阪では、身分の違いというのは
経済力の違いによって生まれていたように思います。

努力と運次第で、身分の逆転もできる。
金持ちは、金を持っているだけだから威張るな。

そんな反骨の精神を感じたりもします。

(京都に行くと、公家というものがあり、
生まれ付いての身分の違いの意識が若干残っている
ような気もします)

これをまとめて大胆に仮説するなら、

「江戸は身分社会だが大阪は格差社会だった」
というようなことがいえるのではないでしょうか?


直接の質問の内容は、冒頭に挙げた2点ですが、
それ以外の皆さんのご意見も幅広くうけたまわりたいと
思います。
長文おゆるしください。

江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には
誰が住んでいたのだろう…?なんてふと
疑問に思いました。大名でしょうか?

江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった
そうですが(ネットで調べたら200人足らず)
本当ですか?

だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と
いうものを意識しない、自由市場経済の中で
生きていたということになるのではないでしょうか。

東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。

これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じること...続きを読む

Aベストアンサー

江戸時代の大阪はごく初期に家康の外孫松平忠明が領した以外は天領(幕府直轄領)であした。(いまの大阪府の範囲なら小大名は高槻・岸和田にいましたが。)
そのかわりに、大阪には大阪城代がおかれ五万石クラスの譜代大名が赴任していたほか、大阪定番、大阪加番として一~二万石クラスの大名も赴任していました。
また城代の下には大番組の一組が一年交代で江戸から赴任してきており、そのほかに大阪町奉行などもあり、大阪にいる武士が二百人というのは過小すぎますが、大阪に住み着いている(単身赴任ではない)武士であれば町奉行所の与力・同心、大阪定番の与力・同心、大阪船手くらいですので二百人ほどになります。

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

Aベストアンサー

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。

秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む

Q旧華族系の家で今でも資産のある家

公家や皇族の流れを汲む旧華族系の家で,今でも豊かな富を蓄えている家があると聞きました。現代でも実際そのような豊かな暮らしをしている旧華族系の家ってあるのでしょうか?また,それらの家は会社を起こしているわけでもないのに,莫大な富を保有しているみたいですが,収入源は何なんでしょうか?いくら由緒ある家柄だというだけで,昔みたいに豊かな暮らしができるとは思えませんし…。知られざる世界なので興味があります。ご存知の方回答いただけるとありがたいです!

Aベストアンサー

私がよく遊びに行く先。
栃木県千本松牧場。やまがたありともの経営していた農場です。

近くの青木農場。ここも家族です。せんだっての大使館立てこもり事件の時の大使で.記者会見で煙草を吸ってマスコミにたたかれた人の家です。

以上は観光ガイドブックに載っているようなないようです。
別の方は株式を多く持っていて.この配当で暮らしているとも聞いています。

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q不起訴と起訴猶予の違いは何ですか?

よく事件報道の新聞やニュースを読んでいると、不起訴とか起訴猶予という言葉を耳にしますが、どう違うのでしょうか・・・・・
実際、交通人身事故で当方、不起訴処分告知書を戴いた事があるのですが・・・・・

Aベストアンサー

基本的には、No.1、2さんの回答の通りです。

将来起訴されるかどうかと、「不起訴」「起訴猶予」はほとんど関係ありません。

「起訴猶予」も、法律上定められた処分であり、ゆるやかな「一事不再理」の原則があるとされています。

したがって、検察の運用としては、新証拠が出るとか、検察審査会が不起訴不当の結論を出すなどの新たな事情が無いと、いったんした起訴猶予を取り消して起訴することはありません。

他方、「不起訴」の場合も、新証拠が出て、再度嫌疑が生じれば起訴されます。

現実問題として、不起訴が新証拠で覆ることはあっても、起訴猶予は、犯罪事実自体の証拠はすでにあるのですから、それ以上に、情状面の重大な証拠がでるということはほとんどなく、覆ることはありえません。


人気Q&Aランキング