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No.3ベストアンサー
- 回答日時:
江戸時代の大名の官位(国守など)については、単純に考えてはいけません。
まず、先祖の誰かがその地位についたとかで自称し、それが代々受け継がれて固有の呼び名の様になったものもあります(結局は自称です)。例示されているような宮本武蔵の場合はこれです。例え武蔵守という署名があったとしても、それは正式な官位ではなく、極端に言えば「武蔵守」という固有名詞と理解すべきものです。
また、幕府が朝廷に奏請して朝廷から与えられた正式のものがあります。すなわち、江戸期の大名は家格によって任ぜられる官位が決まっていますが、最低でも従五位下で国守にはなります。ただし、この場合の官位は「禁中並公家諸法度」によって武家官位制と公家官位制(従来のもの)とが明確に区別され、武家の官位は従来からの官位制とは独立したものになります。この限りにおいて、同じ国の国守が同時に何人いようと関係なく任ずることができるようになりました。
ただ、その場合にも慣例により、島津家の薩摩守、佐賀鍋島家の肥前守、前田家の加賀守など固定したものとして、他の大名家が遠慮して名乗らなかったものもあれば、上級旗本も従五位下になり得たこともあって同時に何人もの××守が居ることもあります。
ですから、同時に××守が複数居たからと言って、どちらかが本物でどちらかが偽物ということはなくて、どちらも本物である可能性が高いわけです。
結局、武家官位については、任命は朝廷であるが、その奏請は幕府の専権事項であり、実質的に幕府の任命によるものとなっていた(そのことは各大名の官位就任のお礼は朝廷ではなく幕府に対して行っていたことからも判る)。その官位に進んだものは実際の国とは無関係に××守など官位相当の役職を自由に名乗れる、ということです。
No.4
- 回答日時:
平安時代なら、国司とかだと、受領階級と呼ばれた中級貴族がなり、実際に任国に赴いて政務を執り、当然、それに見合う定まった収入があり、収入以上に、色々と金を儲ける方法を受領は工夫して、大国の国司を務めると、一挙に財産ができたなど、なかなかぼろい仕事だったのです。
しかし、鎌倉時代以降になって来ると、朝廷の任命した国司以外に、守護だとか地頭がいて、形式的な官位とか役職はあっても、名誉職的なものになって来て、実質の収入などはなくなります。
幕府が授ける(形式的には朝廷が授けていたことになりますが、実質は幕府が決めると、朝廷がそれを追認するという形です)のは、官位で、大名は従五位が普通だったようです。従五位だと、公家官職では、国司以外にも色々ある訳です。
例えば、親藩の名家、大老職を多く出した井伊家は、掃部頭で、これは従五位です。代々井伊家は、掃部守です。江戸中後期の田沼意次は、主殿頭で、これも従五位です。土佐藩の藩主は、藩祖山内一豊が対馬守を家康から授けられて以来、ずっと対馬守のようです。
国は、上国、大国、中国、小国と四段階があり、上国の国司は従五位上か正五位だったと思いますが、小国だと、正六位で国司になれました。一万石以上の知行のあるのが大名で、大名は、従五位の官位を得たようで、諸侯となりました。
しかし、忠臣蔵に出てくる、清和源氏の末裔の名家、吉良家は、上野介ですから、従五位ではなく、正六位ということになります(上野が、上国の場合、介=次官が従五位下という可能性もあります)。旗本でも、大身旗本は、一万石未満でも、守を名乗る従五位の旗本がいたと言うことになります。また五位未満の官位の旗本もいたはずです。
反対に、徳川御三家は、尾張と紀伊が大納言で、水戸家が中納言であったはずです。また御三卿も中納言の格式だったはずです。
私的に名乗っている場合は別に、幕府の奏請によって、朝廷が正式に与える官位は、かなりヴァリエーションがあり、名乗る官職名も色々で、それが伝統的に継承されていたとも言えます。
江戸時代なら、武鑑という武家大名大身旗本名家の、祖先や家柄や、知行や領国や、官位や官職名を一覧にした本が大小色々出ていて、これに載っているのが、正式に朝廷から授かった官位だということになります。(ここには、通称・自称の官職名も、もしあれば、そのように出ていたでしょう)。
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No.2
- 回答日時:
宮本武蔵が「武蔵守」ですか?
私の手持ちの資料とか、いまネットを検索した限り、
武蔵が「武蔵守」だった、という資料は見当たらないのですが…?
ただ、愛知県の笠寺観音に「宮本武蔵守」の碑があるそうですが、
これは彼の没後百年あまりも経ってからの建立ですので…。
「武蔵」と名乗ること自体が「武蔵守」と思わせる意図だった、
ということはありえます。
官位を略して名乗ること自体は、自らの箔づけのために
戦国時代あたりにはかなり流行っていたことのようですので。
しかし、江戸時代に生き、晩年に肥後細川家に仕えるまで、
浪人の身であった武蔵野場合、生存中に堂々と「守」を名乗る、
ということはちょっと考えにくいですね。
もし、名乗っていたという説があれば、
具体的に御教示願えれば幸いです(__)。
この回答への補足
『五輪書』序文で自ら「新免武蔵守藤原玄信」と名のっています。また、武蔵の没後、長岡監物の書状では「武州」と呼ばれています。また、養子の伊織が納めた泊神社の棟札には「武蔵掾玄信」と記されています。「掾」ぐらいだったらあるのかな、という気もしますが、自ら「守」を名のっています。
しかも、慶長の頃、細川家臣に長岡武蔵守立行という人物がいたりします。国の数より大名の数の方が多いのですから、大名の家臣まで「守」を名のるととてもじゃないけど数が足りなくなるのではないかと思うのですが。
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No.1
- 回答日時:
幕府の奏請により朝廷が与えていました。
といっても、幕府の奏請を朝廷が拒否することはできませんでしたので、
実質的には幕府が出していたということになります。
官位の偽称はこの奏請権の侵害ということになりますので、
時の権力がそれをおおっぴらに認めることはありえません。
歴史上の人物の場合に偽称がそのまま称せられることは
ないといっていいと思います。
この回答への補足
ありがとうございます。よくわかりました。
ただ、宮本武蔵守玄信などは正式に与えられたものとは思えないのですが、一般に武蔵と呼ばれています。こういう場合はどうなるのでしょう。
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